8 / 12
愛憎編
8、武田軍師山本菅助(二代目)誕生!
しおりを挟む
九月三日、山本菅助は武田勝頼に呼ばれた。
おふうたちについてだった。
菅助は質問する。
「殿、姫様をどうされるのですか?」
「処刑じゃ。仙丸ら二人も含め、徳川や奥平との境目にある鳳来寺で行う。見せしめだ!」
「…………」
予想通りの判決だった。
だが、勝頼はおふうを未だ、貞昌の正妻だと思っている。
おそらく、おふうも仙丸らも取調べで喋らなかったのであろう。
怒りが抑えられない勝頼は、菅助に指示を出した。
「お主が鳳来寺に連れて、処刑しろ!」
「えっ、そ、そんな……」
「奥平だけは、絶対に許さんぞ!」
「しかし信玄公は、裏切りも許してきました」
「義兄上(義信)は許したか? それに我が祖父諏方頼重公を許さず、腹を斬らせたのは父上ぞ! 奥平には見せしめが肝要じゃ。処刑ののち、長篠も作出も攻め滅ぼす!」
「し、しかし姫様は奥平貞昌に離縁されたも同然です。せめて姫様だけでもお許しを……」
「ならん。ワシはその貞昌に裏切られたのじゃ。舐められたのじゃぞ。父上は祖父の諏方家を滅ぼしたのち、道鬼を軍師に取り立てた。城取りもやらせた。そなたは父の業績を継ぎたくないのか?」
「つ、継ぎたいです」
「そうであろう。そうしたければ、あの三名を処刑せい。それが条件じゃ!」
菅助は、おふうと城取り・軍師、どちらが大事かを、秤にかけられた気持ちになる。
武田家中でも特別扱いされた、父の立場は欲しい。
特別の二文字は、下っ端家臣にとってとても心地がいいのだ。
しかしあの美しい姫を、自分の手で殺すのは、恐怖と絶望の暗闇に突き落とされる感じで苦しくなる。
――お、お、おふうーーーっ!
彼にとっておふうは、夢だった。
いや、夢だったのは、姫という飾られた立場だったからにすぎない。
おふうの真相は、姫ではない。
一家臣の娘。
身分は菅助と変わらない。
菅助はやっと気付いた。
おふうに抱く感情は、愛だ。
素直に惚れているのだ!
軍師・城取りという役目は欲しい。
おふうの側にもいたい。
もはやどちらが欠けても、菅助は菅助でいられなくなってしまった。
「おい、どっちなのじゃ。はっきりせい!」
勝頼は怒鳴った。
菅助は我に帰る。
妄想の世界に引きずられていたことに気付かされた。
菅助は妄想を払いながら、
「は、は、は、はい。やります」
と、声が裏返りながら、勝頼のその場の雰囲気に押され、引き受けてしまう。
勝頼が離れる。
菅助は緊張が解け、後悔の念が湧き、肩の力が抜け、骨が抜けかのように床に倒れこんだ。
十日、おふう達三名は縄で縛られ、犯罪者用の竹籠に乗せられる。
山本菅助は手下数十名を従えて、甲府を出立した。
十二日、諏方郡の高島城で一泊する。
城は粗末だが、美しい諏方湖を一望できる平山城である。
菅助は、月明かりに照らされる湖を眺め、呆けていた。
十三日の未明、菅助はいきなり従者にたたき起こされる。
おふうが逃走したというのだ。
菅助は仰天し、生きた心地がしないほど蒼ざめた。
菅助は考える間もなく高島城を飛び出し、城下の一軒一軒の戸を叩いて、おふうの消息を調べ廻る。
城下町にいないとなると、湖畔の集落まで場を広げた。
しかし消息は、一昼夜探しても見つからないどころか、手がかりさえつかめなかった。
それでも休まず探し、汗一杯になった菅助がふと気がつくと、諏方湖の畔にひとり、ぽつんと立っていた。
もう日が沈もうとしていた。
体力的にも精神的にも疲れたが、ぼんやり見渡すと、小坂集落の湖面に接する小高い丘の上に、小さな観音堂が見えた。
菅助はこれに何か直感的に何かを感じ、最後の力を振り絞って、観音堂を目指した。
たどり着くと、もう星空。
その崖先に、秋風に髪を乱しながら湖を眺めるおふうをみつけた。
「ぶ、無事か?」
菅助はおふうに近寄ると、姫はもの静かに振りむく。
その寂しげながらも大きい潤う瞳と、秋風になびくつやつやした黒髪。
綺麗すぎる。
背景の山は真っ黒になるも、満点の星空と月明かりに湖が照らされ、おふうの美貌を更に輝かせている。
菅助は心臓が止まるほど驚き、鳥肌が立った。
身分は嘘でも、美しさは本物だ。
千年に一人の女神いっても過言ではない。
菅助は、この世のものとは思えない人と自然の美の調和を見ている。
父親似の菅助が、この場にいてはいけないとさえ感じるほどだった。
「山本さまですか……」
おふうは焦るどころか、落ち着いている。
逃げた見つかったなど、問題ではないようだった。
「姫……いや、おふう殿。戻りましょう」
「何故? 私は逃げたのですよ。見つけたその場で手打ちにしないのですか?」
「そ、それは……」
「出来ないのならば、私は今からここを飛び降りて、命を絶つしかありません」
「な、何をご冗談を!」
「ここはとても美しい所ですね。もっと早く知っておけば、武田の地も馴染めましたのに」
「ワシは勝頼様から、鳳来寺で処刑せよと命じられた。だからそこでしかそなたを殺せない。だから手打ちにはしない。とはいえしかし何故、そなたはこのようなことをしたのだ?」
「訊問のとき、長坂さまから取引を受けました。貞昌様と縁を切って長坂家の養女に入り、勝頼様に嫁いで男子を産め。そうすれば罪は一切問わない。と……」
「嫁ぐ? 男子?」
「はい。正直、耳を疑いました」
「敵将に嫁ぐとは、もしや釣閑斎様はおふう殿に、勝頼様の母上と同じ道を歩めと?」
「さあ、その方の生き様など私には分かりませんが、仮に承知しても、三河武士の娘の名折れになります。それでも強引に嫁げというなら、勝頼様の首を頂戴するのみ。が、私にその気はあっても度胸がありません。ならば、勝頼様の母の故郷だというこの湖を、私の偽りに満ちた血で染めてあげましょう」
「な、なにを言われるか!」
「……気にしないでください。この景色を眺めたら、そんな怒りも不思議と鎮まります」
「なら、構わんが……」
「でもここを離れたら、再び怨むでしょう」
「お、おふう殿っ!」
「……ああ、寒い……」
夜風が冷たくなり、おふうは細い肩を縮こませて震えた。
菅助は何か羽織るものはないかと目で探すが、ない。
――ならばおふう殿を抱くべきか? いや、駄目だ。でも、抱いて暖めたいな……。
菅助の頭のなかでは、青い旗印の理性と赤い幟の欲望が、川中島ばりの大合戦を繰り広げている。
菅助は赤面しながら、いかんと首をふり、ドキドキする。
純白なおふうを、自分が抱いてもいいのか?
自分がそうすることで、おふうが穢れないのか?
――いや大丈夫じゃ。おふうは奥平の姫ではないのだから、やってもいいのだ!
赤い欲望が勝鬨をあげた。
菅助は、おふうはきっと自分に暖めてもらいたいのだ、だからああいう態度をとるのだと信じ込み、開き直った。
菅助の鼻から、血が細い線になって流れる。
菅助は慌てて手で拭いながら、猪のような顔をガチガチにしておふうの目の前まで近づいた。
右手と右足を一緒に前に出すほどにぎこちなく。
おふうは「?」と首をかしげる。
菅助はおふうをやさしく包むようにおふうを抱いたつもりだが、両腕をばっと広げ、ガシッと覆いかぶさるように力いっぱい抱いた。
おふうはびっくりして、カッとなって振り払うと、菅助の頬を思いっきり引っ叩いた。
それは湖畔の夜空に、高く響いた。
そしておふうは、菅助に怒鳴る。
「触るなケダモノ! 勝頼は私を、国衆の妻として死なせてくれるのだぞ。わきまえろ!」
菅助はキョトンとし、鼻血が再び流れ、左の頬には紅葉のように真っ赤な掌の跡が湧く。
おふうは小走りでこの場を出ようとする。
「おふう殿、ど、どちらへ?」
菅助は、へっぴり腰気味に後を追う。
「高島城に帰る。案内しろ。ケダモノ!」
おふうの返事は尖っていた。
「そ、そんなぁ……」
菅助は、理由はどうあれ無事に済んだと安堵した。
ヒリヒリする頬と、ケダモノと罵られたことが、奇妙に快感だった。
山本勘助の一団が奥三河の鳳来寺に到着したのは、九月十九日である。
この地を支配する武田譜代家臣甘利信康が処刑の準備を一切済ませ、あとは菅助が実行するだけになってる。
二十一日の夕刻、鳳来寺山門の前の広場に野次馬が集まる。
処刑が始まる。
三人は既に用意された三本の磔に縛られ、信康の手下に鋭い槍先を向けられていた。
仙丸は武田に対しても奥平に対しても、
「騙された!」と狂って叫ぶ。
もうひとりの男は、失禁してる。
男どもはあまりにもだらしが無い態度で、槍に突かれて死んだ。
しかしそれでも、おふうだけは動じなかった。
菅助は処刑命令をためらう。
――嫌じゃ。やっぱり出来ない!
未練がましかった。
菅助がじれったいので、野次馬たちが「早く殺せ」など、文句を吐き出す。
菅助は恐怖して、冷や汗が止まらない。
こうなるのなら到着前に、おふうを殺したこと皆に嘘をついて、名前も素性も別人にして開放し、ほとぼりが冷めたところで、自分の妻に取るべきだったと。
今更妙案が出ても、遅すぎる。
おふうは、故郷が近いこの風景を眺める。
懐かしかったが、未練は無い。
おふうは呼吸を整えてから、最後の言葉を凛と放った。
「もし来世があるのなら、私は畜生に生まれたい。畜生は己に嘘偽りなく正直に生きていけるから。しかし人は、互いに騙し合わなければ歩んでいけない。人は何時から、畜生よりも浅ましき生き物になったのでしょう?」
おふうの表情が清々しくなった。
菅助は涙目になって、これまで毎度も自分を振り回してきたおふうの、清楚な姿を生まれて初めて目の当たりにした。
余計に悲しくなった。
――ああ、殺さなきゃいけないんだ……。
と下を向いて、泣く泣く命じた。
そしておふうは、天女となった。
――はあっ……。そういえば、おふう殿の素性を聞いてなかったなあ…………。
まるで魂が抜けたかのように呆け、帰り道の全ての記憶がない。
甲府に戻った山本菅助は、武田勝頼に報告した。
勝頼は満足して、
「よし、約束を叶えさせてやる」
と、菅助を軍師とした。
勝頼は安心したのか、本音がポロッと出てしまう。
「あれだけの美女じゃ。別の者に任せたらきっと奪って、報告も誤魔化しただろう。だが貴様は正直で良い。任せて正解じゃった!」
勝頼は高笑いした。
菅助は愕然とした。
それは遠まわしに、おふうを奪っても構わないと聞こえたからである。
おふうたちについてだった。
菅助は質問する。
「殿、姫様をどうされるのですか?」
「処刑じゃ。仙丸ら二人も含め、徳川や奥平との境目にある鳳来寺で行う。見せしめだ!」
「…………」
予想通りの判決だった。
だが、勝頼はおふうを未だ、貞昌の正妻だと思っている。
おそらく、おふうも仙丸らも取調べで喋らなかったのであろう。
怒りが抑えられない勝頼は、菅助に指示を出した。
「お主が鳳来寺に連れて、処刑しろ!」
「えっ、そ、そんな……」
「奥平だけは、絶対に許さんぞ!」
「しかし信玄公は、裏切りも許してきました」
「義兄上(義信)は許したか? それに我が祖父諏方頼重公を許さず、腹を斬らせたのは父上ぞ! 奥平には見せしめが肝要じゃ。処刑ののち、長篠も作出も攻め滅ぼす!」
「し、しかし姫様は奥平貞昌に離縁されたも同然です。せめて姫様だけでもお許しを……」
「ならん。ワシはその貞昌に裏切られたのじゃ。舐められたのじゃぞ。父上は祖父の諏方家を滅ぼしたのち、道鬼を軍師に取り立てた。城取りもやらせた。そなたは父の業績を継ぎたくないのか?」
「つ、継ぎたいです」
「そうであろう。そうしたければ、あの三名を処刑せい。それが条件じゃ!」
菅助は、おふうと城取り・軍師、どちらが大事かを、秤にかけられた気持ちになる。
武田家中でも特別扱いされた、父の立場は欲しい。
特別の二文字は、下っ端家臣にとってとても心地がいいのだ。
しかしあの美しい姫を、自分の手で殺すのは、恐怖と絶望の暗闇に突き落とされる感じで苦しくなる。
――お、お、おふうーーーっ!
彼にとっておふうは、夢だった。
いや、夢だったのは、姫という飾られた立場だったからにすぎない。
おふうの真相は、姫ではない。
一家臣の娘。
身分は菅助と変わらない。
菅助はやっと気付いた。
おふうに抱く感情は、愛だ。
素直に惚れているのだ!
軍師・城取りという役目は欲しい。
おふうの側にもいたい。
もはやどちらが欠けても、菅助は菅助でいられなくなってしまった。
「おい、どっちなのじゃ。はっきりせい!」
勝頼は怒鳴った。
菅助は我に帰る。
妄想の世界に引きずられていたことに気付かされた。
菅助は妄想を払いながら、
「は、は、は、はい。やります」
と、声が裏返りながら、勝頼のその場の雰囲気に押され、引き受けてしまう。
勝頼が離れる。
菅助は緊張が解け、後悔の念が湧き、肩の力が抜け、骨が抜けかのように床に倒れこんだ。
十日、おふう達三名は縄で縛られ、犯罪者用の竹籠に乗せられる。
山本菅助は手下数十名を従えて、甲府を出立した。
十二日、諏方郡の高島城で一泊する。
城は粗末だが、美しい諏方湖を一望できる平山城である。
菅助は、月明かりに照らされる湖を眺め、呆けていた。
十三日の未明、菅助はいきなり従者にたたき起こされる。
おふうが逃走したというのだ。
菅助は仰天し、生きた心地がしないほど蒼ざめた。
菅助は考える間もなく高島城を飛び出し、城下の一軒一軒の戸を叩いて、おふうの消息を調べ廻る。
城下町にいないとなると、湖畔の集落まで場を広げた。
しかし消息は、一昼夜探しても見つからないどころか、手がかりさえつかめなかった。
それでも休まず探し、汗一杯になった菅助がふと気がつくと、諏方湖の畔にひとり、ぽつんと立っていた。
もう日が沈もうとしていた。
体力的にも精神的にも疲れたが、ぼんやり見渡すと、小坂集落の湖面に接する小高い丘の上に、小さな観音堂が見えた。
菅助はこれに何か直感的に何かを感じ、最後の力を振り絞って、観音堂を目指した。
たどり着くと、もう星空。
その崖先に、秋風に髪を乱しながら湖を眺めるおふうをみつけた。
「ぶ、無事か?」
菅助はおふうに近寄ると、姫はもの静かに振りむく。
その寂しげながらも大きい潤う瞳と、秋風になびくつやつやした黒髪。
綺麗すぎる。
背景の山は真っ黒になるも、満点の星空と月明かりに湖が照らされ、おふうの美貌を更に輝かせている。
菅助は心臓が止まるほど驚き、鳥肌が立った。
身分は嘘でも、美しさは本物だ。
千年に一人の女神いっても過言ではない。
菅助は、この世のものとは思えない人と自然の美の調和を見ている。
父親似の菅助が、この場にいてはいけないとさえ感じるほどだった。
「山本さまですか……」
おふうは焦るどころか、落ち着いている。
逃げた見つかったなど、問題ではないようだった。
「姫……いや、おふう殿。戻りましょう」
「何故? 私は逃げたのですよ。見つけたその場で手打ちにしないのですか?」
「そ、それは……」
「出来ないのならば、私は今からここを飛び降りて、命を絶つしかありません」
「な、何をご冗談を!」
「ここはとても美しい所ですね。もっと早く知っておけば、武田の地も馴染めましたのに」
「ワシは勝頼様から、鳳来寺で処刑せよと命じられた。だからそこでしかそなたを殺せない。だから手打ちにはしない。とはいえしかし何故、そなたはこのようなことをしたのだ?」
「訊問のとき、長坂さまから取引を受けました。貞昌様と縁を切って長坂家の養女に入り、勝頼様に嫁いで男子を産め。そうすれば罪は一切問わない。と……」
「嫁ぐ? 男子?」
「はい。正直、耳を疑いました」
「敵将に嫁ぐとは、もしや釣閑斎様はおふう殿に、勝頼様の母上と同じ道を歩めと?」
「さあ、その方の生き様など私には分かりませんが、仮に承知しても、三河武士の娘の名折れになります。それでも強引に嫁げというなら、勝頼様の首を頂戴するのみ。が、私にその気はあっても度胸がありません。ならば、勝頼様の母の故郷だというこの湖を、私の偽りに満ちた血で染めてあげましょう」
「な、なにを言われるか!」
「……気にしないでください。この景色を眺めたら、そんな怒りも不思議と鎮まります」
「なら、構わんが……」
「でもここを離れたら、再び怨むでしょう」
「お、おふう殿っ!」
「……ああ、寒い……」
夜風が冷たくなり、おふうは細い肩を縮こませて震えた。
菅助は何か羽織るものはないかと目で探すが、ない。
――ならばおふう殿を抱くべきか? いや、駄目だ。でも、抱いて暖めたいな……。
菅助の頭のなかでは、青い旗印の理性と赤い幟の欲望が、川中島ばりの大合戦を繰り広げている。
菅助は赤面しながら、いかんと首をふり、ドキドキする。
純白なおふうを、自分が抱いてもいいのか?
自分がそうすることで、おふうが穢れないのか?
――いや大丈夫じゃ。おふうは奥平の姫ではないのだから、やってもいいのだ!
赤い欲望が勝鬨をあげた。
菅助は、おふうはきっと自分に暖めてもらいたいのだ、だからああいう態度をとるのだと信じ込み、開き直った。
菅助の鼻から、血が細い線になって流れる。
菅助は慌てて手で拭いながら、猪のような顔をガチガチにしておふうの目の前まで近づいた。
右手と右足を一緒に前に出すほどにぎこちなく。
おふうは「?」と首をかしげる。
菅助はおふうをやさしく包むようにおふうを抱いたつもりだが、両腕をばっと広げ、ガシッと覆いかぶさるように力いっぱい抱いた。
おふうはびっくりして、カッとなって振り払うと、菅助の頬を思いっきり引っ叩いた。
それは湖畔の夜空に、高く響いた。
そしておふうは、菅助に怒鳴る。
「触るなケダモノ! 勝頼は私を、国衆の妻として死なせてくれるのだぞ。わきまえろ!」
菅助はキョトンとし、鼻血が再び流れ、左の頬には紅葉のように真っ赤な掌の跡が湧く。
おふうは小走りでこの場を出ようとする。
「おふう殿、ど、どちらへ?」
菅助は、へっぴり腰気味に後を追う。
「高島城に帰る。案内しろ。ケダモノ!」
おふうの返事は尖っていた。
「そ、そんなぁ……」
菅助は、理由はどうあれ無事に済んだと安堵した。
ヒリヒリする頬と、ケダモノと罵られたことが、奇妙に快感だった。
山本勘助の一団が奥三河の鳳来寺に到着したのは、九月十九日である。
この地を支配する武田譜代家臣甘利信康が処刑の準備を一切済ませ、あとは菅助が実行するだけになってる。
二十一日の夕刻、鳳来寺山門の前の広場に野次馬が集まる。
処刑が始まる。
三人は既に用意された三本の磔に縛られ、信康の手下に鋭い槍先を向けられていた。
仙丸は武田に対しても奥平に対しても、
「騙された!」と狂って叫ぶ。
もうひとりの男は、失禁してる。
男どもはあまりにもだらしが無い態度で、槍に突かれて死んだ。
しかしそれでも、おふうだけは動じなかった。
菅助は処刑命令をためらう。
――嫌じゃ。やっぱり出来ない!
未練がましかった。
菅助がじれったいので、野次馬たちが「早く殺せ」など、文句を吐き出す。
菅助は恐怖して、冷や汗が止まらない。
こうなるのなら到着前に、おふうを殺したこと皆に嘘をついて、名前も素性も別人にして開放し、ほとぼりが冷めたところで、自分の妻に取るべきだったと。
今更妙案が出ても、遅すぎる。
おふうは、故郷が近いこの風景を眺める。
懐かしかったが、未練は無い。
おふうは呼吸を整えてから、最後の言葉を凛と放った。
「もし来世があるのなら、私は畜生に生まれたい。畜生は己に嘘偽りなく正直に生きていけるから。しかし人は、互いに騙し合わなければ歩んでいけない。人は何時から、畜生よりも浅ましき生き物になったのでしょう?」
おふうの表情が清々しくなった。
菅助は涙目になって、これまで毎度も自分を振り回してきたおふうの、清楚な姿を生まれて初めて目の当たりにした。
余計に悲しくなった。
――ああ、殺さなきゃいけないんだ……。
と下を向いて、泣く泣く命じた。
そしておふうは、天女となった。
――はあっ……。そういえば、おふう殿の素性を聞いてなかったなあ…………。
まるで魂が抜けたかのように呆け、帰り道の全ての記憶がない。
甲府に戻った山本菅助は、武田勝頼に報告した。
勝頼は満足して、
「よし、約束を叶えさせてやる」
と、菅助を軍師とした。
勝頼は安心したのか、本音がポロッと出てしまう。
「あれだけの美女じゃ。別の者に任せたらきっと奪って、報告も誤魔化しただろう。だが貴様は正直で良い。任せて正解じゃった!」
勝頼は高笑いした。
菅助は愕然とした。
それは遠まわしに、おふうを奪っても構わないと聞こえたからである。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
黄金の檻の高貴な囚人
せりもも
歴史・時代
短編集。ナポレオンの息子、ライヒシュタット公フランツを囲む人々の、群像劇。
ナポレオンと、敗戦国オーストリアの皇女マリー・ルイーゼの間に生まれた、少年。彼は、父ナポレオンが没落すると、母の実家であるハプスブルク宮廷に引き取られた。やがて、母とも引き離され、一人、ウィーンに幽閉される。
仇敵ナポレオンの息子(だが彼は、オーストリア皇帝の孫だった)に戸惑う、周囲の人々。父への敵意から、懸命に自我を守ろうとする、幼いフランツ。しかしオーストリアには、敵ばかりではなかった……。
ナポレオンの絶頂期から、ウィーン3月革命までを描く。
※カクヨムさんで完結している「ナポレオン2世 ライヒシュタット公」のスピンオフ短編集です
https://kakuyomu.jp/works/1177354054885142129
※星海社さんの座談会(2023.冬)で取り上げて頂いた作品は、こちらではありません。本編に含まれるミステリのひとつを抽出してまとめたもので、公開はしていません
https://sai-zen-sen.jp/works/extras/sfa037/01/01.html
※断りのない画像は、全て、wikiからのパブリック・ドメイン作品です
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
狂乱の桜(表紙イラスト・挿絵あり)
東郷しのぶ
歴史・時代
戦国の世。十六歳の少女、万は築山御前の侍女となる。
御前は、三河の太守である徳川家康の正妻。万は、気高い貴婦人の御前を一心に慕うようになるのだが……?
※表紙イラスト・挿絵7枚を、ますこ様より頂きました! ありがとうございます!(各ページに掲載しています)
他サイトにも投稿中。

徳川家康。一向宗に認められていた不入の権を侵害し紛争に発展。家中が二分する中、岡崎に身を寄せていた戸田忠次が採った行動。それは……。
俣彦
歴史・時代
1563年。徳川家康が三河国内の一向宗が持つ「不入の権」を侵害。
両者の対立はエスカレートし紛争に発展。双方共に関係を持つ徳川の家臣は分裂。
そんな中、岡崎に身を寄せていた戸田忠次は……。
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を

土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる