最後の風林火山

本広 昌

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野望編

4、国は落ちぶれたくないもの

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 山本菅助が甲府に帰国した。

 菅助は武田信玄に、奥平貞能と人質三人を紹介した。
 貞能らが退出したのち、信玄は菅助に尋ねた。

「奥三河は、どうだった?」

「奥平家が味方したことで、奥信濃を攻めるときの軍勢が一層増えます。信濃統一は目前です!」

「左様か……」

 信玄は他にも、三河の風土・地理・気質などいくつか質問する。
 菅助は答えるが、飯山以外は関心が無いので、それなりの感想で済ませた。

 奥平の人質三人は、城下町中心部にある大きな寺院、尊躰そんたい寺に預けられる。

 仕事を終えた菅助は、自分の屋敷に着くや、大声で叫んだ。

「早く城取りがやりたーい!」

 庭の雀たちが驚き、飛んで逃げた。
 


 次の日、山本菅助は尊躰寺に足を運ぶ。
 菅助は、美しいおふうのいる部屋に入って、なんでもいいから話がしたい。
 しかし、訪問する大義が思いつかない。
 理由を作らないと、おふうも周りも怪しむ。
 鼓動ばかりが高まった。
 勘助は門前で躊躇し、足がすくみ、山門をくぐることが出来ない。
 門を離れては、また近づき、離れる。
 これが数回繰り返される。
 そんなことが、三日間続いた。

 四日目、討ち死に覚悟のごとく、顔を真っ赤にして山門をくぐった。

「お、お、お御館様に、ご機嫌を確かめろと言われて、参った……」

 勿論、嘘である。

 小坊主が現れる。
 菅助は小坊主に、クスクス笑われながら、おふうの部屋へと案内された。
 部屋が暗い。
 おふうは、寂しそうに座っていた。
 菅助は、心配した。

「姫さま、い、いかがなされましたか?」

「…………」おふうは返さない。

「あ、あの……」

「苦しい所ですね……」やっとつぶやいてくれた。

「ならば戸を開けましょう。今日は日も明るくて、富士の御山が綺麗ですぞ」

「そういう意味ではありません」

「では、何ですか?」

「…………」おふうの心は閉じた。

「兎に角開けましょう。風に当たれば、気持ちも和むというものです」

 菅助は自ら戸を開け、日差しとそよ風を入れる。
 菅助は、おふうを励ましたかった。

「姫様、見てくだされ。奥三河の、女性のようななだらかな山々も素晴らしいが、この甲斐の、男っぽくて荒々しき山も、見事です」

「余計に寂しくなるだけです……」

「えっ?」

「貞昌様が恋しいと思いましたか?」

「は、はい……」

「違います。自刃もさせてもらえず、ただただ、狭い篭の中で生かされているだけ……」

 おふうの言葉が急に詰まった。両手が拳となり、かすかに震えている。

 菅助は気になって仕方がない。

「どうかされましたか?」

「……いいえ。大丈夫です。私も一応は奥平家の女だから、貴方は私に優しくしてくれるだけでしょうが、もしそうでなければ、どうなさるの?」

「えっ?」

 菅助は返事に詰まる。でも、この怜悧な少女と言葉を交わす事は、とても心地がよかった。



 次の日、奥平貞能が帰郷する。
 山本菅助は城下の入口まで見送った。

 その後、菅助は信玄に報告するが、信玄から、

「人質は、任せる」と、言われた。

「で、ですが、某は軍師に、父上の役目を継ぎたいのです」

 と、菅助がためらう。
 信玄は返す。

「ワシが道鬼に初めて与えた役目は、側室にした諏方すわの姫のご機嫌伺いだ」

 本当のような、冗談のような?
 菅助は、父が通った道ならば仕方なしと、納得する他になかった。

――はあ、ワシの城取りのわざが、持て余されている……。

 これでは閑職だ。

 今、川中島の海津城では、飯山領占領のための情報収集と調略活動が進んでる。

 菅助はこれに参加したいのに、全く畑違いの仕事では不満が募りそうだ。

 とはいえこれで正々堂々と、おふうに会えるようになった。

――あんな綺麗な姫が、妻だったらなあ……。

 と、菅助は腑抜けた顔をしながら、開き直った。



 武田信玄は現在、妻がいない。

 正室転法輪てんぽうりん三条さんじょう夫人は二年前に亡くなり、第二の側室油川あぶらかわ夫人も昨年病死した。

 第一の側室諏方御寮人に至っては、弘治二(一五五六)年に没している。

 実はつい最近まで、水面下で後室の候補作業がなされていた。
 その結果、大善だいぜん寺の尼で雨宮あめみや景尚かげひさの元妻、まつに決まる。
 松葉の実家は武田一門の勝沼かつぬま家で、家柄に申し分はないが、今、この家はない。

 松葉は信玄に嫁ぐため、尼を辞め、寺を出ている。
 今でも尼頭巾をかぶるのは、伸ばし始めたばかりの短い髪を隠してるためだという。

 腰まで伸びたら、結婚だ。
 来年の夏頃を予定してる。



 日が変わり、山本菅助は喜んで尊躰寺のおふうの下に来るものの、今日のおふうの機嫌は、何時もに増して悪い。

 菅助は心配するものの、それがまた楽しくもなっていた。

「い、いかがされましたか?」

「ここの御館様は、私を妻にしたくて、人質にしたのですか?」

「えっ、いいえ。しかし、何故?」

「巷の声です」

「一体、誰が?」

「仙丸様が今朝、教えてくれました」

「それはありません。所詮は下々が勝手に騒ぐのみ。根も葉もない戯れ言でしょう」

 菅助も知らない噂だった。
 そうしたいのは自分だ。
 いや、駄目だ!



 このとき、寺の小坊主が菅助とおふうの前に現れ、松葉の訪問と面会希望の旨を伝えにきた。

 菅助は慌てた。
 おふうに言う。

「戸を閉めましょう……」

「何故です?」おふうは冷静だ。

「う……」菅助は挙動不審となる。

 松葉は、もう目の前にいた。

 松葉も綺麗だが、四十を過ぎている。

 松葉は上目遣いで、おふうに尋ねた。

「貴女が奥平家から来た者か?」

「はい。おふうと申します」

「私が御館様に嫁ぐのも、十年も勝沼家の復興を命がけで訴え、ようやく叶っての事。なのに奥平の姫が、その場しのぎでしかないお家の命乞いのため、御館様の妾になりたがっている。片腹痛いわ」

 側室の嘘が、妾に歪んでる。
 だからなのか、松葉の悪態は続く。

「一体奥平家とは何ですか? 民の命と財産を守るために戦う者が武士だというのに、いくさから逃げるために、あっちに従ったりこっちに従ったり、情け無い」

 おふうは、馬鹿にされる。
 しかしそれでも他人事のように、澄ました顔をして返した。

「確かに奥平はそういう家ですから、貴女様のおっしゃる通り、御館様の妾になるのも一興ですね。明日にでも直談判しましょうか?」

 淡々と言うも、買い言葉になってる。
 松葉は驚き、あざ笑った。

「まあひどい。見かけは綺麗でも、中身はひどく腐ってるのね。成程、国は落ちぶれたくないもの」

 おふうの顔が蒼ざめた。

 松葉は口喧嘩に勝ったと思い、おふうに軽蔑の眼差しを見せてから、立ち去った。

 おふうは、歯をくいしばる。
 自分と奥平家の悪口は構わないが、故郷に嫌味を言われたのが悔しかった。
 細い肩はひどく震え、ただ涙をこらえることに必死だった。
 おふうは、菅助を睨んで言う。

「山本殿、私を武田様の妾にしなさい。いや、貴方でも構いません!」

「えーっ! そ、そんな、無理です。奥平貞昌様のご正室ですよ!」

「あんな殿様、どうでもいいわ!」

 おふうは激高して立ち上がる。
 菅助は仰天した。
 しかしそのあと、脳裏から湧き上がる痛快感が……。

 おふうの叫びが聞こえたのか、仙丸が大慌てで現れた。

 仙丸は怒りに、拳を震わせる。
 おふうは我に返り、首を横に振って前言を否定した。

「私は……、私は、奥平貞昌様の妻です」

 仙丸はそれを聞いて頷き、去る。

 おふうは、空を眺める。
 鳥の群れが、西の山を目指している。
 おふうは、苦しみを耐え忍んでいた。

 菅助は上の空。
 顔も背筋もたるんでる。
 頭の中は至福のお花畑。
 おふうの「貴方でも構わない」ばかりが、やたらめったら響いていた。
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