夕焼け色のいのち

といろ

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臙脂色

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 目をさました時、世界は不気味な赤色に包まれていた。こんなの、もはや紫だ。不安を煽る色をしている。雨でも降ったのだろうか。



 帰らなくてはならない。


 寝ぼけ眼と起き抜けの回らない頭でも、そのことだけははっきりと理解できた。どこへかは知らない。けれど僕は帰らなくてはならない。

 丘を走り抜けるように冷たい風が吹いて、傍にある大きな桜の木を揺らす。小さな花弁がたくさん散った。言いようのない焦りを感じながら、僕は立ち上がった。 

「帰ろう」

 動き出した足は向かうべき場所を知っているようで、見慣れた坂を下っていく。
 道中の記憶はほとんどなくて、気付けば僕はアパートにいた。




 非常灯が青々と光る白い階段を上がってアパートの五階にたどり着くと、隣の部屋の住人が僕の部屋の扉の前で三角座りをしていた。淡い色のワンピースが汚れてやしないか、少し心配になる。

「何してんの、絵依里」
 彼女を見た瞬間に、胸の中にストンと穴があけられたように空白ができた。どうやら自覚以上に強かった焦燥感が消えてできた穴らしい。


「また来ちゃった。おかえり、天使くん」
「だから、その呼び方はやめてって……」
 僕が言うと、絵依里はふふ、と笑った。前にもあった違和感にまた遭遇する。

 唐突に、目の前の少女が消えてしまうんじゃないかって不安が過ぎる。さっき胸にあいた穴の淵をひやりと冷たいものが伝った気がした。


「ねえ、部屋でお話をしようよ天使くん」

 戻らないままの呼び名と、やっぱりなんとなく感じる違和感と、それからさっき見た夕日の色。全部が僕の胸の中で綯い交ぜになる。
 ドアを開けると、絵依里は横をするりとくぐった。僕もその後を追う。



 部屋の中央にあるローテーブルも、本棚も、ベッドも、嫌な赤色に染められていた。カーテンから差し込むその色を見て、立ち止まった絵依里が口を開く。


「夕暮れの空が紫に見える理由、天使くんは知ってる?」
「空気中の水分でおこる光の屈折とか反射とかじゃないの?」

 絵依里は振り返って僕を見た。ちょっと寄った眉と微妙に開いた唇が、彼女の呆れを演出している。
 彼女はそのまま何も言わずに、テーブルのそばに座って窓の外を眺めた。僕もそれに倣ってテーブルを挟んだ向かい側に腰を下ろす。



「宇宙の色が透けてるの」
「……え?」
「紫に見える理由」


 座った場所から見える絵依里の顔は、窓の外を向いたままで。横顔だけではその表情の意味まで読み取れない。諦めて視線を落とした。


「非科学的な話?」
「さあ。天使くんは、この話が嘘だって思う?」
「……いや、」


 どうだろう。宇宙の色が透けるなんて、あり得るんだろうか。じゃあ普段空が水色なのはどういう理屈だ? そもそも宇宙って何色なんだ。


「これねぇ、天使くんを見て思ったことなの」

 僕の混乱を他所に、絵依里は言葉を続ける。これ以上聞いてはいけない気がした。
 とっさに口を挟もうとして顔を上げた瞬間、彼女と、彼女を照らす赤色に目を奪われる。
 そんな僕を見て、絵依里は面白そうに笑った。


「私が生き返ったあの日も、こんな夕焼け空だったでしょう」
「え……?」
「君が、私を生き返らせた、あの日の話だよ」

 ゆっくり繰り返されたその言葉の意味が、それでも僕はわからなかった。

「何言ってるんだよ」

 かろうじて返すことができた台詞に、眉を下げた絵依里が言う。

「思い出してよ咲夜。ねえ。君が私をあの世界に生き返らせたんだよ。もう、何やってるのよ。自分はこんな、中途半端な世界に閉じ込められてまでさあ……」


 吐き出された言葉が僕の脳に浸み込んでいく。意味を理解するより先に、走馬灯みたいに記憶が蘇ってきた。ひどい頭痛がする。

 心配そうにこちらを見つめる絵依里と目が合った。

 あぁ、謝らなくちゃなあ。
 それでも今日はこれ以上もちそうにないから、意識が飛びそうな中で僕は言う。
「また、あしたね」

 彼女は目を見開いて、ため息を吐いてから言った。



「もう、あと一日だけだからね」





————全部僕のせいだった。だってこの世界は初めからどこかおかしかった。

 幽霊に何かの法則が作用するのか、神様みたいな存在はいるのか。僕は詳しくないけれど、死のうとした彼女を助けるのは禁忌だったんだろう。

 だとしたら、夕方でしか在れないこの歪な世界は、僕への戒めなのかもしれない。

 天使くんと呼ぶ声を思い出す。死んで幽霊になったことを思い出す。家族に支えられた患者たちを思い出す。忌々し気な僕らの家族の顔を思い出す。病院で手術を繰り返す日々を思い出す。そして、絵依里と過ごした日々を思い出した。


 死にたいわけじゃなかった。あの世界であの子の幸せを願ったわけじゃなかった。あの子が飛び降りるのを見ていられなかっただけだ。その後のことまで考えていられなかっただけだ。


 本当に、無責任だ。

 僕の意識はまた、ゆっくりと浮上していく——

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