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六人目 寂しがり屋の砂場の王様
なぁんちゃって、と女は笑い
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語り終えた女は、ずず、とオレンジジュースを飲み干した。
「――なぁんちゃって!」
グラスの中へ放るようにしてストローから口を離した女は、そう言って笑った。うっかり聞き入ってしまっていたあなたは、女の態度で聞き入った自分を恥じた。
何なんだこの女は――とあなたの苛立ちも頂点へ達したそのとき、ドアベルが穏やかな音を響かせた。
硬い足音が、あなたと女の元へまっすぐやってくる。
すみません、と涼やかな声があなたの鼓膜を揺らす。声をかけられたわけではない。謝られていると気づいたのは、男が女のそばに立ってからだった。
「妻がご迷惑をおかけしました」
男は女の隣に寄り添い、あなたに頭を下げた。男は驚くほど端正な顔立ちだった。すまなそうにしていても絵になる顔だった。血の気がないほど白い肌と砂のような淡い色の瞳は、陽の光を浴びれば眩しいほどだろう。
あまりの美しさに何も言えないあなたを、怒っていると勘違いしたらしい。男は女の肩を抱き、己の頭を再び深々と下げた。
「申し訳ありません。妻は……心を、病んでおりまして」
不快な思いをされたならお詫びします、と男は声を絞り出す。そんな男の隣で、女は椅子に座ったまま身を捩り、肩を抱く手から逃れようとする。
「妻じゃないよぉこの人知らない人だよぉ。誰か助けてぇ攫われちゃうぅ」
顔を上げた男は、泣きそうな声で「またそんなことを……」と眉を下げた。涙混じりの声だが、目が潤んでいる様子はない。しかし何かがきらりと眦から落ちるのを、あなたの目は捉えた。
「せめて外ではそんな風に言わないでくださいって、言ったじゃありませんか」
ほら立って、と夫を名乗る男が女を促す。妻と呼ばれた女は甲高い声で笑い、男に手を引かれ立ち上がった。男は女を抱えるようにして歩き、あちこちに頭を下げ、店員たちにも頭を下げ、申し訳なさそうにカウンターへ向かった。
店員が男の顔をちらちらと見ながら、レジスターにオレンジジュースの代金を打ち込む。代わりに会計をする男を待つこともなく、女はふらふらと店を出ていった。あ、と、あなたは思わず声を漏らした。あなたの声で、男は女が出ていったことに気づけた。
男は妻思いらしい。出ていった女を追いかけるため、釣り銭も受け取らず店を飛び出していった。困り顔のマスターは肩を竦め、店員は「あらまあ」と頬へ手をやった。
「何というか……騒がしいお客さんでしたねぇ」
氷の溶け残るオレンジジュースの器を見て、あなたは自分が追加注文もなく長居していたことを思い出した。恥ずかしいやら申し訳ないやらで、あなたはそそくさと荷物をまとめた。
会計をするべく、椅子から立ち上がる。踏み出した足が、じゃり、と何かを踏んだ。あなたは足を上げ、床を見た。
あなたが踏みつけたのは砂粒だった。目を凝らすと、床にうっすらと砂がこぼれている。
会計までの短い距離を歩いて、あなたは砂が床全体に撒かれているわけではないと気づいた。砂が落ちているのは、女を追いかけ出ていった男が歩いた道筋だ。砂は店の出入り口まで続いている。どこまで続いているのだろうかと、あなたは砂を辿って外まで出た。しかしドアを出た瞬間、強い風が吹き砂を巻き上げてしまった。舞い上がった砂が、あなたの目に飛び込む。
目を押さえ涙を流しながら、あなたは残念そうにため息をついた。目を開けてももう、砂はどこにもないだろう。
二人が進んだ先を、あなたが知ることはなかった。
「――なぁんちゃって!」
グラスの中へ放るようにしてストローから口を離した女は、そう言って笑った。うっかり聞き入ってしまっていたあなたは、女の態度で聞き入った自分を恥じた。
何なんだこの女は――とあなたの苛立ちも頂点へ達したそのとき、ドアベルが穏やかな音を響かせた。
硬い足音が、あなたと女の元へまっすぐやってくる。
すみません、と涼やかな声があなたの鼓膜を揺らす。声をかけられたわけではない。謝られていると気づいたのは、男が女のそばに立ってからだった。
「妻がご迷惑をおかけしました」
男は女の隣に寄り添い、あなたに頭を下げた。男は驚くほど端正な顔立ちだった。すまなそうにしていても絵になる顔だった。血の気がないほど白い肌と砂のような淡い色の瞳は、陽の光を浴びれば眩しいほどだろう。
あまりの美しさに何も言えないあなたを、怒っていると勘違いしたらしい。男は女の肩を抱き、己の頭を再び深々と下げた。
「申し訳ありません。妻は……心を、病んでおりまして」
不快な思いをされたならお詫びします、と男は声を絞り出す。そんな男の隣で、女は椅子に座ったまま身を捩り、肩を抱く手から逃れようとする。
「妻じゃないよぉこの人知らない人だよぉ。誰か助けてぇ攫われちゃうぅ」
顔を上げた男は、泣きそうな声で「またそんなことを……」と眉を下げた。涙混じりの声だが、目が潤んでいる様子はない。しかし何かがきらりと眦から落ちるのを、あなたの目は捉えた。
「せめて外ではそんな風に言わないでくださいって、言ったじゃありませんか」
ほら立って、と夫を名乗る男が女を促す。妻と呼ばれた女は甲高い声で笑い、男に手を引かれ立ち上がった。男は女を抱えるようにして歩き、あちこちに頭を下げ、店員たちにも頭を下げ、申し訳なさそうにカウンターへ向かった。
店員が男の顔をちらちらと見ながら、レジスターにオレンジジュースの代金を打ち込む。代わりに会計をする男を待つこともなく、女はふらふらと店を出ていった。あ、と、あなたは思わず声を漏らした。あなたの声で、男は女が出ていったことに気づけた。
男は妻思いらしい。出ていった女を追いかけるため、釣り銭も受け取らず店を飛び出していった。困り顔のマスターは肩を竦め、店員は「あらまあ」と頬へ手をやった。
「何というか……騒がしいお客さんでしたねぇ」
氷の溶け残るオレンジジュースの器を見て、あなたは自分が追加注文もなく長居していたことを思い出した。恥ずかしいやら申し訳ないやらで、あなたはそそくさと荷物をまとめた。
会計をするべく、椅子から立ち上がる。踏み出した足が、じゃり、と何かを踏んだ。あなたは足を上げ、床を見た。
あなたが踏みつけたのは砂粒だった。目を凝らすと、床にうっすらと砂がこぼれている。
会計までの短い距離を歩いて、あなたは砂が床全体に撒かれているわけではないと気づいた。砂が落ちているのは、女を追いかけ出ていった男が歩いた道筋だ。砂は店の出入り口まで続いている。どこまで続いているのだろうかと、あなたは砂を辿って外まで出た。しかしドアを出た瞬間、強い風が吹き砂を巻き上げてしまった。舞い上がった砂が、あなたの目に飛び込む。
目を押さえ涙を流しながら、あなたは残念そうにため息をついた。目を開けてももう、砂はどこにもないだろう。
二人が進んだ先を、あなたが知ることはなかった。
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