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お見舞い2~真夜中の来客
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「……ごめんなさいね、クレハ」
「大丈夫よ。お見舞いには来るし、必要なものがあったら持って来るわ。早く歩けるようになったらいいわね」
器用にくり抜いたオレンジの皮に実を盛りつけ、「はいどうぞ」とクレハは母に差し出した。
「私、時間制の仕事を見付けるわ」
「え?」
「こう言っちゃうのあれだけど、収入が大変になっちゃうじゃない。貯めてあるお金があっても、母さんが治るまでそれに頼っていてもいけないし。父さんが残してくれた毛皮や革製品を少しずつ売るっていうのもあるけれど、それよりは私が働いたほうがいいと思うの」
クレハの明るい提案にカエデは口ごもり、だがすぐに反対する。
「駄目よ、あなたは今まで通り大学に通って勉強なさい。『勉強した分、将来返ってくる』があなたの信条でしょう? 母さんは早めに退院して家にいるから。手も大したことないわ。すぐに仕事に復帰するから」
そうは言っていても、オレンジを食べるのに左手しか使えずにいる母の姿が現状だ。
「大丈夫よ、私こう見えて頑丈にできてるから。そろそろ大学に行かないといけない時間だから、また帰りに寄るわね」
そう言ってクレハは看護婦に母を頼み、廊下を歩いてゆく。
気持ちはもうすでに決まっていて、父が死んでから母が頑張ってくれたことを思えばなんともない。
体力仕事だってするつもりだし、運が良ければ家庭教師などもできるだろう。
ふと、廊下の先で医者が話している声が聞こえてしまった。
「しかしカエデさんもなぁ……。クレハちゃんの帰りが遅いから様子を見に行って馬車に轢かれるだなんて、運のないことだ」
「でも先生、ああやって無事だったからいいじゃないですか」
「そうだな、あの家庭はトーマスの事故から運がなかった。それを思えば、命があるだけ未来もあるだろう」
曲がり角の先から聞こえた会話にクレハは立ち止まった。
しばらく呼吸を整えながら、自分の胸の中に荒れ狂うものを必死に嚥下しようとする。
「嘘でしょ……」
唇だけで呟いてみても、誰かがそれを優しく否定してくれることなどない。
暗く重たいものがクレハを支配し、思わず涙が零れそうになる。
「自分のせいで」とカエデに謝ったとしても、母の怪我が良くなるわけでもないし、母を余計気に病ませてしまう。
「大丈夫……、だいじょうぶ」
胸に手をやり、まだ父が生きていた頃にくれた鹿の角のお守りを服の上から確認した。
『いいか、クレハ。この角は立派な白い鹿のものだったんだ。幸運の鹿だ。鹿の幸運は角に宿ると言われている。お前は幸せになるんだぞ』
大好きな父が、革紐に通したお守りをそう言って首にかけてくれた。
クレハが成長すると革紐の長さや色も変化し、数年前からそれは変わることがなくなってしまった。
「大丈夫……。わたしは、だいじょうぶ」
何度も深呼吸を繰り返し、最後にしっかりとした声で自分自身に向かって言い聞かせると、クレハは真っ直ぐ前を見て一歩踏み出した。
**
大学でのいつもの勉強を終えたあと、クレハは教授のところへ行った。
事情を説明して家庭教師の仕事やその他なんでもすると言い、何か雇い手の情報があれば宜しく頼むと頭を下げた。
人格者であり人望もある教授は、クレハの家庭環境のことやカエデにあった不幸に同情してくれた。
あまりクレハの負担にならないような、それでいて割のいい仕事を探してみると言ってくれ、彼女は胸をなで下ろす。
けれど他人任せではいけないので、自分でも何か募集しているところはないか探してみようとも思う。
「ふう……」
病院に寄ってから帰宅し、知らずと溜め息が漏れていた。
いつもなら「お帰り」という声とともに夕食の匂いがするのに、今日からはそれがない。
かつては家族三人の活気があって狭いと思っていた家も、一人だと思うとやけに広く感じる。
この先、自分がもしも男性と縁のない状態が続いたら、この家にこうして一人きりになるのだろうか?
思わず、そんなずっと先のことまで不安になってしまった。
「ご飯……食べないと。……食べたくないなぁ」
鞄を下ろしてソファに腰を下ろすと、帰りに一つ買ってきたパンをちぎって食べる。
いつもなら母の分も買ってくるパンも、これからは自分が食べる分だけだ。
食欲がわかないながらも口を動かしていると、昨日このソファに一緒に座っていた青年を思い出した。
「……綺麗な子だったなぁ。年下なのに色っぽくて、上品で。きっともう会うことはないだろうけれど、……まぁ、貴重な体験をさせてもらったわ」
そう言って唇に触れると、彼のキスを思い出せるかもしれないと自然と目を閉じていた。
(……気持ちよかった。人の唇ってあんなに柔らかいものなのね。脳が痺れたようになって……本当にとろけてしまいそうだった)
うっとりと目を閉じたまま、クレハはパンをスカートの上に置いて自然と自分の胸に手を這わせていた。
今までそんなことをしたことはないのに、昨日のノアの唇と手の感触を求め、再現してみようと試みる。
クレハの小さな手が大きく丸い胸にそっと触れ、下からその重みを確かめるように持ち上げてみる。少し指を柔肉に喰い込ませ……。
だが「駄目だわ」と呟くといささか落胆して目を開き、自分の手の小ささを確認する。
「そもそも、男と女じゃ骨格が違うもの。手の大きさだってそうよ。物足りないったら」
文句をつけるようにそう言ってから、最後の言葉は少しはしたなかったかと、クレハは一人顔を赤らめる。
(これじゃあ、欲求不満じゃない。一人で恥ずかしい)
反省して、またパンを口にしようとした時、トントンとノッカーを鳴らす音がした。
「はい!」
(誰かしら?)
パンをテーブルに置いてスカートを払い、クレハは近所の人が料理でも分けに来てくれたのかとドアを開けた。
「初めまして、遅い時間に大変失礼致します」
だがドアを開けた先にいたのは、執事。
こんな王都の隅っこにある民家に似つかわしくない、執事服を身にまとった男性が折り目正しく礼をしていた。
「大丈夫よ。お見舞いには来るし、必要なものがあったら持って来るわ。早く歩けるようになったらいいわね」
器用にくり抜いたオレンジの皮に実を盛りつけ、「はいどうぞ」とクレハは母に差し出した。
「私、時間制の仕事を見付けるわ」
「え?」
「こう言っちゃうのあれだけど、収入が大変になっちゃうじゃない。貯めてあるお金があっても、母さんが治るまでそれに頼っていてもいけないし。父さんが残してくれた毛皮や革製品を少しずつ売るっていうのもあるけれど、それよりは私が働いたほうがいいと思うの」
クレハの明るい提案にカエデは口ごもり、だがすぐに反対する。
「駄目よ、あなたは今まで通り大学に通って勉強なさい。『勉強した分、将来返ってくる』があなたの信条でしょう? 母さんは早めに退院して家にいるから。手も大したことないわ。すぐに仕事に復帰するから」
そうは言っていても、オレンジを食べるのに左手しか使えずにいる母の姿が現状だ。
「大丈夫よ、私こう見えて頑丈にできてるから。そろそろ大学に行かないといけない時間だから、また帰りに寄るわね」
そう言ってクレハは看護婦に母を頼み、廊下を歩いてゆく。
気持ちはもうすでに決まっていて、父が死んでから母が頑張ってくれたことを思えばなんともない。
体力仕事だってするつもりだし、運が良ければ家庭教師などもできるだろう。
ふと、廊下の先で医者が話している声が聞こえてしまった。
「しかしカエデさんもなぁ……。クレハちゃんの帰りが遅いから様子を見に行って馬車に轢かれるだなんて、運のないことだ」
「でも先生、ああやって無事だったからいいじゃないですか」
「そうだな、あの家庭はトーマスの事故から運がなかった。それを思えば、命があるだけ未来もあるだろう」
曲がり角の先から聞こえた会話にクレハは立ち止まった。
しばらく呼吸を整えながら、自分の胸の中に荒れ狂うものを必死に嚥下しようとする。
「嘘でしょ……」
唇だけで呟いてみても、誰かがそれを優しく否定してくれることなどない。
暗く重たいものがクレハを支配し、思わず涙が零れそうになる。
「自分のせいで」とカエデに謝ったとしても、母の怪我が良くなるわけでもないし、母を余計気に病ませてしまう。
「大丈夫……、だいじょうぶ」
胸に手をやり、まだ父が生きていた頃にくれた鹿の角のお守りを服の上から確認した。
『いいか、クレハ。この角は立派な白い鹿のものだったんだ。幸運の鹿だ。鹿の幸運は角に宿ると言われている。お前は幸せになるんだぞ』
大好きな父が、革紐に通したお守りをそう言って首にかけてくれた。
クレハが成長すると革紐の長さや色も変化し、数年前からそれは変わることがなくなってしまった。
「大丈夫……。わたしは、だいじょうぶ」
何度も深呼吸を繰り返し、最後にしっかりとした声で自分自身に向かって言い聞かせると、クレハは真っ直ぐ前を見て一歩踏み出した。
**
大学でのいつもの勉強を終えたあと、クレハは教授のところへ行った。
事情を説明して家庭教師の仕事やその他なんでもすると言い、何か雇い手の情報があれば宜しく頼むと頭を下げた。
人格者であり人望もある教授は、クレハの家庭環境のことやカエデにあった不幸に同情してくれた。
あまりクレハの負担にならないような、それでいて割のいい仕事を探してみると言ってくれ、彼女は胸をなで下ろす。
けれど他人任せではいけないので、自分でも何か募集しているところはないか探してみようとも思う。
「ふう……」
病院に寄ってから帰宅し、知らずと溜め息が漏れていた。
いつもなら「お帰り」という声とともに夕食の匂いがするのに、今日からはそれがない。
かつては家族三人の活気があって狭いと思っていた家も、一人だと思うとやけに広く感じる。
この先、自分がもしも男性と縁のない状態が続いたら、この家にこうして一人きりになるのだろうか?
思わず、そんなずっと先のことまで不安になってしまった。
「ご飯……食べないと。……食べたくないなぁ」
鞄を下ろしてソファに腰を下ろすと、帰りに一つ買ってきたパンをちぎって食べる。
いつもなら母の分も買ってくるパンも、これからは自分が食べる分だけだ。
食欲がわかないながらも口を動かしていると、昨日このソファに一緒に座っていた青年を思い出した。
「……綺麗な子だったなぁ。年下なのに色っぽくて、上品で。きっともう会うことはないだろうけれど、……まぁ、貴重な体験をさせてもらったわ」
そう言って唇に触れると、彼のキスを思い出せるかもしれないと自然と目を閉じていた。
(……気持ちよかった。人の唇ってあんなに柔らかいものなのね。脳が痺れたようになって……本当にとろけてしまいそうだった)
うっとりと目を閉じたまま、クレハはパンをスカートの上に置いて自然と自分の胸に手を這わせていた。
今までそんなことをしたことはないのに、昨日のノアの唇と手の感触を求め、再現してみようと試みる。
クレハの小さな手が大きく丸い胸にそっと触れ、下からその重みを確かめるように持ち上げてみる。少し指を柔肉に喰い込ませ……。
だが「駄目だわ」と呟くといささか落胆して目を開き、自分の手の小ささを確認する。
「そもそも、男と女じゃ骨格が違うもの。手の大きさだってそうよ。物足りないったら」
文句をつけるようにそう言ってから、最後の言葉は少しはしたなかったかと、クレハは一人顔を赤らめる。
(これじゃあ、欲求不満じゃない。一人で恥ずかしい)
反省して、またパンを口にしようとした時、トントンとノッカーを鳴らす音がした。
「はい!」
(誰かしら?)
パンをテーブルに置いてスカートを払い、クレハは近所の人が料理でも分けに来てくれたのかとドアを開けた。
「初めまして、遅い時間に大変失礼致します」
だがドアを開けた先にいたのは、執事。
こんな王都の隅っこにある民家に似つかわしくない、執事服を身にまとった男性が折り目正しく礼をしていた。
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