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第二十一部・フェルナンド 編

豪華客船

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『大人しくしてろ!』

 だが男に英語で怒鳴られ、ビクッと身を竦ませる。

 普段、怒鳴られていない香澄は、肩を竦ませて固まった。

 心臓が早鐘を打ち、背中や掌に変な汗を掻く。

(どうしよう……。完全に間違えた。ビルの外に出た時、走って逃げれば良かった。大声を上げれば良かった。……そうじゃない。誰かに言えば……、言う事を聞かなければ……。でも、お母さんが……)

 あとになってから悔やむ〝後悔〟とは、まさしくこの事だ。

「……ごめんなさい……っ」

 思わず口から佑への謝罪の言葉が漏れ、香澄は頭を抱える。

(馬鹿だ! 本当に馬鹿だ! でも……、どうすれば良かった? お母さんの動画を見せられて、佑さんの合成写真、嘘かもしれない帳簿をマスコミにリークするって言われて……。そうじゃない! 言い訳してる場合じゃない! 何とかして車から降りないと!)

 このまま、車は高速道路に向かうかもしれない。

(まだ信号があるうちに脱出しなきゃ!)

 香澄は必死に呼吸を整え、俯いて震え、ジッと機会を窺っていた。

 やがて車が赤信号で停車したタイミングで、心の中で「一、二、三!」と数えてドアに飛びついた。
 カッと指を引っかけてドアロックを外し、取っ手を引く。

『このクソアマ!』

 だが右側にいた男に、胴を掴まれて引き戻された。

 バンッ! と顔面に強い衝撃が走り、一瞬何が起こったのか分からなかった。

 左耳が遠くなり、頭がクラクラする。

 遅れて唇に何かが滴り、指を這わせると鼻血が出ていた。

 そのあとになって左側の男に思いきり平手をされたのだと理解し、一気に激痛と苦しみが押し寄せた。

「うぅ……っ」

 あまりに強い力で叩かれたので、頭全体がジンジンと熱を持って痛む。

 頬を、というより頭を抱え、香澄は自分を守るように背中を丸めた。

 敵の前で情けなく泣きたくないのに、生理的な涙がボロボロと零れる。

『大人しくしてろ。お前を痛めつけるよう言われている訳じゃない』

『お前さえ大人しくしてれば、無傷でいられるんだ。もう少し賢くなれ』

 左右の男たちから言われ、香澄は震える唇を引き結び、鼻血を啜った。

(佑さん……! ごめんなさい……っ)

 やがて車は湾岸沿いに走り、銀座近くで右折して築地を抜け、晴海に着いた。

『降りろ』

 男に言われ、香澄はノロノロと車を降りる。

 ビュウッと海沿いの冷たい風が吹き、香澄をあおった。

「あ……」

 目の前には、豪華客船の巨大な船体がドンとそびえていた。

 このまま車で連れ去られると予想していたが、まさか船とは思わず、香澄は思わず呆ける。

 周囲を見れば、あの客船に乗るだろう人々が楽しげに歩いていた。

(まさか……日本を離れるなんて言わないよね……? 私、パスポート持ってない……)

 そう思っていた時、男の一人が船に向けて背中を向け、その陰でもう一人が香澄のウォレットポシェットにパスポートと乗船券を入れる。

 後ろでは運転手がトランクからスーツケースを出していた。

(何……)

 香澄のパスポートは御劔邸にある。

(じゃあ、これは……)

 震える手で赤いパスポートを開くと、いつの間に撮られたのか香澄の顔写真と、オリエ・スミスと謎の名前とサインがあった。

(偽造パスポート……!)

 これを使ってしまえば、犯罪だ。

『嫌です』

 香澄は叩かれた恐怖も忘れ、男たちにノーを訴える。

『拒否権はない。タスク・ミツルギがマスコミの餌食になってもいいのか? この会話はボスも聞いている。抵抗すれば、お前の大切な男はファッションウィーク前に破滅だ』

「!」

 香澄は言葉を詰まらせる。

(佑さんは何より、パリコレで発表できるのを楽しみにしていた。それを邪魔したら駄目だ……! でも、私がこのまま言いなりになれば、もっと迷惑を掛ける! ……っ、どうしたらいいの!)

 だが男に手を掴まれて引っ張られ、いやいや歩きだす。

(ここで走って逃げても、すぐに追いつかれてまた叩かれる。大声を上げて助けを呼んでも、誘拐されているんだと気づいてくれるか……)

 気持ちだけは冷静に……と思うのに、迫った現実に圧倒されて冷静になれない。

 そもそも母の動画を見せられた時から、香澄の心は折れていた。

(逃げなきゃ……。逃げなきゃ……)

 香澄は心の中で、何度も自分に言い聞かせる。
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