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第十二部・パリ 編

〝いい人〟の苦しみ

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(……ああ、この期に及んで、まだ私を守ろうとしてくれているんだな)

 悪あがきをしている佑の気持ちを思い、香澄は切なく笑う。

「私なら大丈夫だよ。何かあったら佑さんを頼るし、全部話す」

 しばらく佑の髪の毛をサラサラと撫で続けていると、やがて彼がくぐもった声で話し始めた。

「……世界で一番憎んでいる相手に会ってきた」

「……うん」

 佑は香澄の乳房に顔を埋め、ハァ、と溜め息を漏らす。

「本当に憎んでいる。香澄には絶対見せられない、真っ黒な感情を叩きつけて、この世の地獄を味わわせてやりたいほど憎んでる」

「……それは、佑さんが人間だっていう証拠だよ」

 香澄の言葉を聞き、佑はぐっと抱き締めてきた。

「私は佑さんに、完全無欠のスーパーマンでいてほしいなんて思ってないの。ただ、私を好きでいてくれる、一人の男性でいてほしい。だから、怒ったり、誰かを憎んだり、泣いてもいいの」

「……幻滅しないのか」

 先ほどまでの迸るような感情は収まったようで、彼の声は落ち着きを取り戻していた。

「幻滅なんてしないよ。私は佑さんに理想を押しつけない」

 その言葉を言った瞬間、佑の体からフ……と余計な力が抜けた。

「……俺は、多分できる限りの復讐をした。誰もが『こうはなりたくない』という罰を与えた。それでも反省しないあいつを見て、……俺は絶望したんだ。世の中には絶対に分かり合えない、自分とは思考回路がまったく違う存在がいるって思い知らされた。どれだけ話しても、きっとあいつは自分が悪いなど思わないだろう」

(……エミリアさんの事なのかな?)

 香澄は彼女の本性を知らない。

 少なくとも直接接した限りでは、とても親切にしてくれたし、品のいい女性だと思っていた。

 だがマティアスに自分を襲うよう命令したと聞いて、プライドの高い、嫉妬深い人なのだろうなという印象は抱いていた。

 洗練された美しい女性という仮面の裏に、ドロドロとしたネガティブな感情を抱いているのは確かだ。

(私はエミリアさんの本当の姿を知らない。佑さんは幼馴染みだっていうし、アロイスさんとクラウスさん、マティアスさんはもっと近い場所にいたから、佑さんよりも関わりが深かったんだと思う。……けど、ここまで話しておきながら、佑さんは相手の名前を出さない。きっと私には名前も聞かせたくない、思いだしてほしくない相手と思っている)

 それなら、自分はその禁忌を口にしてはいけないのだろう。
 考えている間、佑が続きを口にする。

「化け物は、生まれた時から化け物たり得る素質を持っている。……そう育てた相手も追い詰めたが、そいつは俺に〝人間〟の顔を見せた。誰もが抱く感情がすべてのきっかけだと知り、……へたをすればそいつに同情してしまいそうになった」

 腕の中で、佑が苦しんでいる。

 とにかく彼に楽になってほしくて、香澄は彼が抱えている闇を解きほぐそうとする。

「無理に人を憎まなくていいんだよ。普通の人は何年も憎み続けるとか、強いネガティブな感情を持ち続けられないと思う。だってそんな自分でいるの、誰だって嫌だもん。疲れるし、空しくならない? 『なんで嫌いな相手の事ばっかり考えているんだろう?』って。だから、ある程度怒ったらあとはもう、気持ちを切り替えていいの」

 不意に、飯山たちを思いだした。

 香澄は彼女たちに直接何もしていない。
 あの時、彼女たちは「気に入らないから」という理由だけで香澄を攻撃してきた。

 恐らく、その感情の多くは嫉妬だろう。

 洗練された東京のキャリアウーマンよりも、札幌出身の素朴な香澄を〝下〟に見ていたのは分かる。

 そんな香澄が社内の誰もが憧れ、恋人になりたくてもなれなかった佑の隣に収まっていたのだから、「なんだあいつ!」となるのも分かる。

 けれどそのあと、実際に言葉にし、行動に移した時点で彼女たちは〝異常な人〟になった。
 言ってしまえば、越えてはならない一線を越え、しかるべきところに言えば罪だと判断される事をした。

〝普通の人〟は不満や嫉妬を抱いても、理性で押しとどめて我慢する。

 佑は我慢できてしまうところを、「どうしても許せない」という感情を優先させて、自ら積極的に相手を憎もうとしている。

 それで苦しんでいるのは、彼が〝いい人〟である証拠だ。

 そんな彼を誇らしく思うし、心から愛しいと思う。

「きっと佑さんが抱えている憎しみやトラウマは、私が持つべきものだったと思う。……忘れちゃってごめんね」

 祈るように呟き、香澄はギュッと佑を抱き締める。
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