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第十部・ニセコ 編

間違えていい、時には逃げてもいい

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 その驚き方に、佑は声を上げて笑った。

「当たり前だよ。変な二つ名がついてるけど、俺はそんなに立派な男じゃない。オーパだって〝クラウザーの獅子〟なんて呼ばれてるけど、完璧な人間じゃないって知ってるだろう?」

 自分に向かって土下座をしたアドラーを思い出し、香澄は微笑む。

「……そうだね。アドラーさんは凄い方だけど、その前に一人の男性で、皆の父親で、お祖父ちゃんだね」

 香澄はアドラーの人生のすべてを知らない。

 遡れば貴族の家柄の彼が節子を見初め、結婚するだけでも十分ドラマチックだ。
 さらに妻が他の男の子供を身ごもり、波瀾万丈と言っていい。

 世界に名をとどろかせる大企業の会長なので、香澄には想像できない冷酷な面もあるかもしれない。
 だから彼のすべてを知らないのに、「いい人」「立派で完璧な人」と言えない。

 恐らく本人も、そう呼ばれる事を望んでいないだろう。

「俺は未熟だし、香澄だって成長途中だと思ってる。一年なんてあっという間だ。『一年間で自分はどれだけ成長できただろう?』なんて、次の年にならないと分からないだろう?」

「……うん、分からない。業績なら数字を見れば一発だと思う。けど人間としての成長なら、翌年になっても前の年の延長で、大して成長できていない気がする。誕生日がきて一つ歳を取っても、何も変わってないもん」

 佑はすべてのじゃがいもを剥いて切り、水に浸けていたのをざるにあける。
 そのあと沸かしたお湯に塩を入れ、じゃがいもを茹でた。

 茹で上がったブロッコリーをざるにあけ、次に人参の皮をピーラーで剥きながら続きを話した。

「皆そんなものだよ。何歳だからあの人は立派とか、社長夫人は全員夫を立派に支えているに違いないとか、全部偏見だ。香澄はそういうものに惑わされずに、素のままでいてほしい。香澄の良さは背伸びした姿じゃなくて、そのままの姿だから」

 その言葉を聞いて、フッと心が軽くなった。

「間違えていい。時には逃げてもいい。不安になったら俺に何でも話してほしい。一緒に考えよう。香澄だけが頑張って、一方的に俺を支えなくていいんだ。結婚するんだから支え合っていこう」

 トン、トンと人参を切り、佑は調味料を入れた鍋で人参をグラッセにしていく。

 気が付けば、香澄は安堵でポロポロと涙を零していた。

「ありがとう……」

 香澄はティッシュボックスから一枚紙をとり、ずびーと洟をかむ。

「人は簡単に変われない。まじめな香澄に『もっと適当に生きて』って言っても、難しいだろう。二十八年かけて形成された性格は、今後も香澄のベースとなる。それがもとで困る事があっても、側に俺がいる。つらいと思ったら二人で話し合って、息抜きしよう。デートして、ちょっと遠出をして、美味い物を食べる」

「うん……っ」

 佑の優しさに、香澄はボロボロと大粒の涙を流す。
 香澄は両手で涙を拭い、また洟をかむ。

「面倒な女で、ごめんなさい……っ」

「面倒じゃないよ。あと、『ごめんなさい』って言わなくていい。それなら『ありがとう』って言って」

「うん……っ。……うー……」

 香澄はティッシュを目元に当て、止まらない涙を拭う。

「香澄と一緒に俺も成長する。それがきっと夫婦になる事なんだ。俺は香澄と一緒に時間をかけて歩いていきたい」

 香澄はこくこくと頷き、また洟をかんだ。





 その日の夜は美味しいステーキを食べ、ポテトサラダと人参のグラッセ、ブロッコリーも美味しく食べた。

 それから照明を落とし、キャンドルと暖炉の火の明かりだけにして、ワインを開けてゆっくり過ごした。

 やがて、緊張の糸が切れた香澄は、いつの間にか寝てしまう。
 気が付くと真夜中で、柔らかな寝具に包まれ佑の腕に抱かれていた。

 それに安心し、また安心してぐっすり眠る。

 翌朝、愛しい人の腕の重みを感じて目覚め、ゆっくり、気持ちがしゃんとしていく。

 ――現実に戻らないと。
 ――留まっていられない。

 けじめをつけ、東京に戻ってまた働かなければ。

 覚悟を決め、香澄は「よし」と起き上がった。
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