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第十部・ニセコ 編

壊れかけた〝頼れる婚約者〟

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(……そうだ……)

 不意にある事を思いつき、佑は引きずるように体を起こす。

 すっかり冷え切った体は寒気を覚え、彼は少し咳をする。

 いつもより重く感じる体で二階に上がり――、香澄の部屋に入った。

 今までは「不在なのに勝手に入ってはいけない」と思っていたが、もうそんな余裕もない。

 目を閉じて彼女の残り香を嗅ぎ、フラフラとベッドに向かう。
 倒れ込むようにベッドにうつ伏せになり、思いきり香りを嗅いだ。

 ネクタリンが微かに残る、甘くフルーティーな香り。
 それに彼女自身の体臭も混じった、〝香澄の匂い〟。

 まさか今、それを他の男に嗅がれているとも知らず、佑は必死になってベッドに残った香澄の体臭に縋った。

「香澄……、……かすみ……っ」

 なぜ手放したのか、自分でも分からない。

 あのままでは彼女が病んでしまう、壊れてしまうと思った。

 それでもこんなに気が狂いそうな想いをするのだったら、東京に引き留めておくべきだった。
 囲うような生活だと言われても、香澄を癒やす別の方法があったのではないだろうか。

「――だから、息苦しいと思われたんだろうか」

 ポツッと呟き、自分の言葉に自分が傷つく。

「……仕方ないだろ。だって、大事なんだ。愛してるんだ! ……大切にしたいだろ。持ってるものすべてを使って、甘やかして、喜ばせて、笑顔にさせたい!」

 自分に言い訳をするように、佑は泣き叫ぶ。
 こうやって佑が酷い独占欲を見せるたびに、香澄は戸惑い、それでも「大丈夫だよ」と広い心で受け入れてくれた。

「……俺は……、香澄の優しさに甘えていたんだ」

 彼女の器の広さがなければ、とっくに二人の仲は破綻していただろう。

「俺は……理想の男なんかじゃない。独占欲が強くて、嫉妬深くて、香澄が自分以外の何かを見ているだけでも許せない……狭量な男だ。何かあればすぐに激昂して、か弱い香澄を抱いて……、彼女の気持ちを利用して許してもらう……、最低な……っ」

 ポロポロとひび割れた心が零れ落ち、その鋭利な欠片が佑の心を傷付けてゆく。

 ――情けない。

 大の男が好きな女のベッドで泣きわめいて――。

 心の中にいるもう一人の自分が、嘲るような、哀れむような声で独白する。

 それに対し、佑はまた全力で抵抗し、言い訳をしていた。

「――好きなんだ……っ」

「仕方がないだろ……っ。好きで、好きで……好きで、――おかしくなるっ! 香澄だけなんだ。こんな、真剣に好きになったのは……。他の女には感じない飢餓を覚える。香澄がいないだけでこの体たらくだ。……もう、香澄がいない人生なんて考えられない……」

 香澄の香りがする小花柄のベッドカバーに、佑の涙が吸い取られてゆく。

「かすみ…………っ!!」

 背中を丸め、苦しげに彼女の名を呼んだあと――、佑は気が抜けたように脱力した。
 すぅ……っ、と彼女の匂いを吸い込み、嗚咽に似た不規則な息づかいで吐いてゆく。

 しばらくそのまま、暗い室内でぼんやりと天井を見上げていた。

 そのあいだ考えるのは、やはり香澄の事ばかりだ。

(このベッド、本当に香澄は寝心地いいと思ってるかな。探せばもっといい物があるんじゃ……)

(化粧品が溢れそうだ。もっと収納できる鏡台を用意しないと)

(香澄には沢山の服を楽しんでほしい。もっと服やアイテム、下着類を収納できるように、ウォークインクローゼットを拡張して……。香澄がいないうちに業者を入れるか)

(帰ってきて、喜んでくれるようにしたい。離れていた時間が無駄じゃなかったと思えるような……)

 そこで自分がまた香澄を囲おうとしているのに気付き――、溜め息をついた。

「駄目だ……こんなんじゃ俺は変われない……。香澄が戻った時、前のように息苦しい思いをさせないようにするんだろ? なぁ」

 頭を抱えて反対を向き、佑がうめく。

「香澄……。俺はどうしたらいい?」

 情けなくここにいない香澄に問いかける自分に、佑自身が一番失望していた。

 彼女さえ側にいれば、〝頼れる婚約者〟として何事にも自信を持って行動できる。
 香澄が側にいてくれるから、「もっと香澄に『格好いい』と思われたい」「彼女に楽をさせてあげたいから仕事を頑張ろう」「ずっと一緒にいたいから健康でいよう」と思えた。

 だが幸せの絶頂にあった佑は一人ぼっちになり、その存在意義を見失いつつある。

 自由気ままに〝お一人様〟を満喫していた頃はもう終わり、三十歳も超えやっと運命の人に出会えた。

 毎日香澄の側にいられるのが嬉しく、出会ってから何もかも好調に思え人生のエンジンが全開になっていた気がした。

 だがマティアスの事からエミリアの事件に発展し、全開だった佑のエンジンは黒い煙を吐き出し狂ったような音を立て始める。

 もう二度とあんな恐ろしい目に遭わせるものかと躍起になり、全力で香澄を守ろうとした。
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