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第九部・贖罪 編

第九部・終章 別れの朝

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 唇が触れ合い、ちょん、ちょんとその柔らかさを確認するかのように啄み合う。

 軽いリップ音が響いたあと、佑の舌が香澄の唇を舐めた。

「ン……」

 そこで香澄は一歩退き、キスを終わらせる。
 呆気にとられた、物足りなさそうな顔をしている佑に向かって、彼女は穏やかに微笑んでみせた。

「本気のキスをしたら離れがたくなるから、ここまで」

 ――お願い。

 その祈りが通じたのか、佑は目を閉じて息をつく。

 大きな手が香澄の頭を撫でた。
 髪を撫でつけて何度も撫でたあと、くしゃくしゃっと髪を乱して最後にポンポンと軽く叩く。

「――いってきます」
「いってらっしゃい」

 ドアが開き、佑がその間を通り、――閉まった。

 彼の後ろ姿を目に焼き付け、香澄は外からの物音に耳を澄ませる。
 彼と松井が何か話す声が聞こえたあと、バタンと車のドアが閉められる音がした。

「……いってらっしゃい」

 ここにはいない彼に、もう一度声を掛ける。

 車のエンジン音がし、やがてそれも小さくなっていく。
 音が聞こえなくなるまで耳を澄ましたあと、香澄は目の前のドアを見つめる。

「私も……、ドアを開かないと。新しい自分になるためのドアを」

 小さく、けれどきっぱりと告げたあと、香澄は自室に上がり出掛ける支度を始めた。

 動きやすいスキニーデニムにTシャツ、カーディガンを羽織り、軽く化粧をする。
 また未練がましく佑のコロンをつけようかと思ったが、やめた。
 代わりに最近お気に入りの重ねづけをして、「よし」と微笑む。

 ここからは自分の我が儘なので、移動も交通機関を使って行くと決めている。
 時刻表はすでに確認してあるので、あとは余裕を持って家を出るだけだ。

「――お世話になりました。また戻ってきます」

 玄関で以前にも同じような事を言った。
 だが今回はきちんと戻る予定がある。
 今は〝あの時〟のように絶望的な状況ではないのだ。

「しばしの、お暇……と」

 呟いてスニーカーを履いた足で、一歩外に出た。
 玄関の鍵を閉めたあと、なくしてはいけないので離れに預かってもらう事にした。

「円山さん、少し行ってきます」
「お気をつけて」

 円山に挨拶をし、見送りにきた久住と佐野、瀬尾にも会釈をした。

 久住と佐野は、「あの日、二人のプライベートな外出だからと言われて、護衛につかなった自分たちに非がある」と言っていた。
 あの時は佑が「必要ない」と判断したから護衛をつけなかったので、彼らのせいではない。

 それなのに二人はいつまでも申し訳なさそうに、香澄を気にし続ける。
 今だってとても心配してくれているのだろう。

「お土産、買ってきますね」

 なのでせめて軽やかに去ろうと思った。

 香澄は見送ってくれる物たちに手を振って会釈をし、御劔邸から出ていった。

 列車を乗り継ぎ、途中でモノレールに乗り換えて羽田空港に向かう。

 穏やかな気持ちのまま、香澄は車内のざわめきに耳を澄ましていた。





 離陸時間が迫り、香澄は指定されたシートに座ってお茶のペットボトルを開ける。

 幸いにも窓側の席が取れて、ぼんやりと外を見ながら今まで飛行機に乗った時を思い出す。

 佑と出会って彼のプライベートジェットで札幌から東京へ向かった時。
 クラウザー家の人たちに会いに東京からフランクフルトへ。
 事故に遭って一命を取り留め、フランクフルトから東京へ。
 お墓参りのために札幌に往復したあと、佑のもとから離れるために東京からヒースローへ。
 いつのまにかイギリスから帰国していて、今度はまた札幌へ。

(色々あったなぁ)

 思わず微笑み、香澄は呟く。

「……行ってきます」

 ポーンとシートベルトの着用を促すサインが聞こえ、香澄はイヤホンを耳に入れた。

 シート脇にあるボタンを押して選局し、クラシックのチャンネルに決める。
 奇しくもクラシックチャンネルでは、ショパンの『別れの曲』が流れていた。

 主旋律は静かに穏やかに、だが確実に盛り上がってゆく。
 中盤の激情的な盛り上がりに聴き入りながら、香澄は目を閉じる。

 悲しみに浸り、慟哭すらイメージするが、序盤と終盤の穏やかさの中に、救いがあるような気がする。
 どんな絶望の中にも、救いはある。

 音楽は自由だ。
 受け取り方も、解釈も、弾き方も。

 ――私も、しばらく自由になろう。

『自分のことは自分で』の赤松家の家訓に基づき、これからは佑に頼らず自分で一か月過ごす生活が始まる。

 飛行機は関東上空を飛び、まだ上昇中だ。
 あと一時間半もあれば新千歳空港に着く。

 それまでは甘いもの悲しさに心を浸し、朝の別れを思いだしていよう。

 ――佑さん。

 唇だけで彼を呼ぶ。

 愛しい人の名前を呼び――、彼がいる街から香澄は飛び立った。



 第九部・完
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