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第九部・贖罪 編

まっすぐな目をした彼女

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「……明日、仕事でしょ? 寝よう」
「……憂鬱な月曜日だ」

「もぉ、社長さんがそういう事を言っちゃ駄目」

 クスクスと笑い、香澄は立ち上がった。佑もキッチンで水を一杯飲み、二人で寝室に向かう。





「……エッチはなしか?」
「なしです。明日のお仕事に響いちゃう」

 照明を落としたベッドルームで、二人は小さな声で会話をする。

「つまらないな」
「一か月後に、たっぷりね? 私、ピル飲み続けるから」
「ん……」

「おやすみなさい」
「おやすみ」

 ちゅ、と触れ合うだけのキスをし、香澄は佑の腕枕で静かに目を閉じた。

 そして佑の胸板に顔を押し当て、彼の鼓動を聞く。

 彼の吐息と、香り、そして鼓動の速さを、できるだけ覚えておこうと思った――。





 佑はなるべく眠らないように気を張り、腕の中の香澄の寝息に耳を澄ましていた。

 温かく柔らかい体を抱くのも、ひとまず今夜で最後だ。

 スゥッと息を吸い込むと、香澄が普段愛用しているネクタリンの香りがする。
 最近彼女はスイートペアーを重ねるのを気に入っていたから、一緒に香ってくるのはその匂いだろう。

 香澄から香り立つ甘い果実の匂いも、彼女からでなければ意味がない。
 世界的に有名なブランドだからと言って、他の女性がつけていても佑は惹かれない。
 香澄だからいい匂いだと思うし、何をしても可愛い。

 ここまで一人の女性にのめり込んだのも、人生で初めてだ。

 学生時代に付き合った女の子も、美智瑠も、大人になってから関係を結んだ何人かも、こんなに佑の心を動かす事はなかった。

 彼女のギャップに一目惚れをして、何とか東京まで連れ出して、順風満帆に生活をしていたと思っていたのに――。

 ――エミリア。

 ぽつん、と佑の心に一滴の黒インクが落ちる。
 香澄の事を考えて優しい気持ちになっていた心が、みるみるどす黒く曇ってゆく。

 あの女さえ日本に来なければ、こんな展開を迎えていなかった。
 香澄も自分も、傷つく事はなかった。
 祖父や双子も香澄を利用せず、別の手段でエミリアやメイヤー家に仕返しをしただろう。

 ――どうして俺たちが……。

 何度自分に問いかけたか分からない。

 祖父や双子から理由を聞き、謝罪を得た。

 顔が変わるほど殴りたいと思ったマティアスも、香澄が許してしまった。
 自分がこんなに心の奥で怒りのマグマを煮え立たせているのに、香澄はあんな酷い目に遭っておきながら、あっさりと人を許してしまうのだ。

 正直、信じられない思いがある。

 自分なら、まず無理だ。

 だがこうして静かに壊れゆこうとする香澄を目の当たりにして、納得がいった気がする。

 彼女はドロドロとした黒い感情を他人にぶつける代わりに、自分に向けてしまうのだ。
 他人を傷付けるぐらいなら、自分が傷ついた方がいい。

 優しさなのか、他人を怒る勇気がないのか、詳しくは分からない。

 だが熊谷が言っていた。

『ごく普通の日本人だからこそ、人を攻撃するより自分を責めて、心を病んでしまう人が多いんです。だから日本人は鬱病が多いと言われています。他者との〝和〟や〝協調性〟を求められる日本社会だからこそ、そういう人が生まれてしまうんだと思います』

 佑も今まで学生時代や自分の会社の中でも、同調圧力のようなものを感じた事がある。

『皆がそう言っているから』

 不思議な魔法の言葉だ。

 その中で誰かの意見や心は押し殺され、我慢の果てにストレスが生まれてゆく。

『周りと合わせていると、争わずに済むから』

 もし香澄が今までそんな事で悩んだシーンがあったのなら、実にくだらない。
 日本人的な性格なんて、どうでもいい。彼女には自分自身を大切にしてほしい。

〝皆〟が求める〝模範的ないい子〟も、彼女が求める〝御劔佑の理想の秘書であり婚約者〟も要らない。そんなものクソ食らえだ。

 それでも香澄は言うのだろう。

『私は私のために、佑さんのために、あなたの隣に立って恥ずかしくない人間になりたい』

 いつものように真っ直ぐな目で、背筋を伸ばした美しい姿で言うのだろう。
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