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第九部・贖罪 編

〝婚約者〟をお休みさせてください

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 ――いや、こんな短期間で回復するなどあり得ない。それは分かっている。

 佑ですら一連の事件で相当参っているというのに、一番の被害者になった香澄が、覚えていないとはいえ、完全に回復したなどあり得ない。

 何かあれば、全力でサポートするつもりだった。
 香澄が求めるのなら、何でも揃えるし人も呼ぶ。いらないものは何でも排除する。

 ――でも、その自分がいらないのだとしたら――?

 考えもしなかった言葉に、佑は固まったまま何も言えないでいた。

 ――指先が、ぎゅっと香澄の柔らかな肌に食い込む。

 彼女は嵐が過ぎ去るのを待つ小動物のように、佑に抱きついたままジッとしていた。

 このままでは二人とも言葉を口に出せずに時間が過ぎてしまう。
 そう思った佑は、そっと息をついてから口を開き、とにかく会話を進める。

「……俺がいると、香澄にマイナスになるのか?」

 佑の質問に、香澄は小さく首を横に振る。

「……佑さんは、優しい。何でも持っていて、私を全力で甘やかしてくれる」
「じゃあ……」

 香澄にとってプラスの存在で、側にいてもいいじゃないか。

 ――そう言いかけた佑の言葉を、香澄の弱々しい声が遮る。

「それじゃあ、私が一人で立てなくなるの。何かあった時、佑さんがいないと何もできない人間になっちゃう」

 ――それは、願ってもみない状況じゃないか。

 心の中で佑は即答し、自分の歪み具合に閉口する。

 分かっていた。

 香澄は金持ちに囲われて好き放題したいと望む女性ではない。
 自立し、働きながら好きな人を支えたいと願う健気な女性だ。

 佑はそんな香澄を尊重しているように見せて――、知らないうちに真綿でくるんで窒息させようとしていたのかもしれない。

 ――七億円の金を振り込ませたのも、やりすぎたか?
 ――いや、でもあれは相応の金額で……。

 七億円を〝相応〟と考える時点で、佑の金銭感覚は一般人のそれより大きくズレて麻痺している。
〝自分は一般人が引くタイプの金持ち〟という自覚は持っていた。

 だが一方で、〝自分は地方公務員の父を持つ普通の男だから〟という言い訳もしていた。

 ――何が悪い?
 ――俺の何が、どういうところが、香澄に拒絶させている?
 ――こんなに愛しているのに。

 焦る気持ちは、佑に冷静な判断をさせない。

「俺は……香澄の婚約者だろう? 君を守るのは当然だ」
「うん、分かってる。……佑さんは必ずそう言うよね」

 苦しそうにかすれる香澄の声が、とても遠く聞こえる。
 あまりのショックに、体が「聞きたくない」と悲鳴を上げているのかもしれない。

「……ねぇ。一か月くらい、一人で北海道に戻っていいかな」
「――――」

 胸の奥で一瞬心臓が止まりかけたように思うぐらい、衝撃的な言葉だ。

「別れたいとかじゃないの。私いま、多分きっと、とても混乱してる。佑さんが側にいるとね、無意識に頼ってしまうの。でも一番心配かけたくない佑さんだからこそ、側にいられるとつらいの」

「……俺は香澄が側にいないとつらい」
「私も側にいたいよ。……だから、一か月だけ。……〝婚約者〟をお休みさせてください」

「…………」

 胸の奥が空っぽになった。

 悲しいとか、ショックとか、必死に彼女を引き留めるという感情すら停止し、何も考えたくないという欲求に心が素直に応じる。

「一か月……秋休みをもらって、その間にちゃんと自力で復活するから」

 抱きついていた体を離し、香澄が目の前で静かに微笑んだ。
 その表情にはもう「決めた」と書かれてある。

「私ね、佑さんに向かって『自分を許してあげて』って言っておきながら、きっと自分の事を許せていないの。あっさり騙されてマティアスさんに抱かれたと思い込んで、こんな風にショックを受けている自分が許せない。ひっくり返せば何もされていないのに、うずくまって動けないでいる自分が情けなくて堪らないの」

「……香澄は、……被害者だろう」

 力のない言葉しか出てこない。

 香澄はもう自分の手から一歩離れた場所にいて、これから一人で離れる理由を口にしている。
 佑が引き留める言葉を口にしても、彼女はもう決めてしまっていた。

「そうかもしれないし、自分でそう思い込んでいるだけかもしれない。……だから、私が私に向かってGOサインを出せるための力がほしいの」

「……力?」

 力なくオウム返しに尋ねる佑に、香澄は穏やかに笑う。
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