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第九部・贖罪 編

心のラベリング

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「……香澄が家にいてくれると、帰ってきてホッとするな」
「そう? 私……」

 自分が秘書として佑の側で働いていたのは知っている。
 それなのに、生き生きと働いていた自分がどうして家にいるのか、急に分からなくなった。

「……香澄?」

 またふつりと言葉を途切れさせた香澄を、佑が箸を置いて心配げに覗き込む。

「…………ううん。…………何でもないの」

 ぼんやりとした表情で、香澄はそう言うしかできない。

 説明しようとしても、この漠然とした感覚をうまく言い表せない。
 何かを言葉にしようとしても、表現したい事が砂のように形を崩してしまうのだ。

 毎日、昼間は斎藤と島谷、熊谷と過ごし、夜は佑と話をしている。
 けれど正直、その内容を覚えていなかった。

 記憶は、ベルトコンベアに載せられている荷物のようなものだ。

 昨日の続きには今日がある。
 それが普通の人の感覚だ。

 しかし香澄の記憶は、そのベルトコンベアの上でジッとしていてくれない。

 急にパッと消えたかと思うと、別の所にあったり、またベルトコンベアに戻るけれど、元あった形と同じ形をしていない。

 実にあやふやで、不確か。

 自分が毎日生活をして〝いるのだろう〟とは思っても、昨日は朝何時に起きて、昼間に何をして……とハッキリ覚えていない。

 だからこそ、香澄は常に不安を抱えていた。

 もや……っと心の奥で苛立ちが生まれ、香澄は何度も咀嚼して食事をする。
 佑の心配する、窺う目がいたたまれなく、気を遣わせているのが申し訳ない。

 あまり会話をせず、食事に専念する事にした。





 夜になり佑の書斎を覗くと、彼はパソコンに向かってまだ仕事をしているようだった。

「……どうした?」
「ううん」

 邪魔をしては悪いと引っ込もうとすると、「おいで」と言われ足が止まる。
 ドアからジッと猫のように伺っていると、佑も真剣な顔で香澄を見つめている。

 やがて佑は指でデスクをトントンと叩き、口元からチョッチョッと舌を鳴らし動物を呼び寄せる時の音を出す。

「っもぉ……っ、私、野良猫じゃない」

 ぷはっと負けて笑うと、佑も破顔する。

「おいで」
「んー、もぉ」

 書斎に入り込み、佑の膝の上に乗る。

「…………ん、…………ふぅ」

 自室で小説を読んでいたのだが、どうにも身が入らず佑の邪魔をしてしまった。
 後悔と申し訳なさがあるのだが、彼の体温に包まれ香りを嗅ぐと安堵する。

「……香澄。目を閉じて。今の気持ちを十点満点で言うと、どれぐらい?」
「……んー……? ……と、五と六のあいだぐらい」

 そう言われて初めて、自分が割と落ち込んでいた事に気づいた。

「おかしいな。……佑さんと一緒で嬉しいはずなのに……」
「いいんだよ。じゃあそのまま。目を閉じたままで、いま心にある感情に全部名前をつけて、口に出してごらん」

 目を閉じてリラックスしたまま、香澄は自分の心と向き合ってみた。

「……不安。……何か思い出したいのに忘れちゃう。……焦り。……自分への苛立ち。佑さんに申し訳ないって思う気持ち。……自分は居場所はここでいいのかな。……早く……、早く、なんだろう。……早く、何とかしないと。私、このままでいいのかな。……不安。……不安、……寂しい。……佑さんに側にいてほしい」

 そこまで言うと香澄はフ……と息をついて目を開けた。

「じゃあ香澄、今の気持ちは何点?」
「んー……。六……か七ぐらい。ちょっと上がったかも」

「良かった」

 微笑むと佑がギュッと抱き締めてきた。

「きっと人の心の不安っていうのは、訳が分からないものへの恐怖からきているんだ。だから、その不安に名前をつけて心を整理してあげると、少しは落ち着くと思うよ」

 佑がしたのは、熊谷から教えてもらった方法だ。

「ん……。ありがとう」

 香澄は感謝し、お礼を言う。

「優しいな。佑さん」
「香澄にだけだよ」

「またまたぁ」

 ツンツンと佑の乳首の辺りをつつくと、彼が笑う。
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