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第五部・ブルーメンブラットヴィル 編

佑さん、勇気をちょうだい!

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『そんな、気にされないでください。午前中に節子さんにも伝えましたが、誰の身にも起こりえる事故だったんです』

 そう言うと、アドラーは青い目でジッと香澄を見つめてきた。
 しばらく、香澄が不審に思うまで見つめたあと、彼は溜め息をつく。

『本当にすまない』

 しみじみと、噛み締めるように言われ、香澄は微笑んで『いいえ』と首を横に振った。

『事故を起こした男性は、現在警察が身柄を預かっている。しかるべき罰は法がくだすだろう。だが嘆くべきは、事故を起こしたのが我が社の車だという事と、撥ねられてしまったのが私たちの大切な客人であるという事だ』

 どうやら、彼らは香澄が思っている以上に事態を重たく受け止めているようだ。

 香澄は「生きてるし、あとは骨折が治るまで少し大人しくしていればいいか。保険も適用されるだろうし、通院が少し面倒だけどなんとかなるか」と軽く考えていた。

 だが目の前にいる面々は沈痛な面持ちをしていて、ようやく香澄は「あれぇ……?」と重大な温度差に気づいた。

『クラウザー家の側でも男性に対して何らかの動きを――』
『ちょ、ちょちょちょ、待ってください!』

 あまりに不穏な事を聞かされ、香澄は必死にアドラーを制する。

『何だね?』

『そ、それって必要ですか? 運転手さんには法的な罰がくだるんでしょう? それ以外に、個人的な制裁なのは、要らなくないです? そりゃあ、入院費、治療費は必要になりますが、私、今回の渡航のために海外保険にも入りましたし。帰国したあとでも、ドイツにいる人から詫びられるとか、ちょっと遠慮したいです』

 素直な気持ちを伝えると、アドラーに「何を言っているんだ」という反応で凝視される。
 彼の反応を見て、言い過ぎたかも……とすぐ後悔したが、やり過ぎと思ったのは本当なので重ねて言葉にする。

『〝私刑〟は必要ありません。私以外にもぶつかった人がいますし、運転手さんは他の人にも賠償しなければなりません。私一人だけが特別扱いされて、必要以上に何か求める事があってはいけません』

 世界中の車愛好家が憧れ、セレブ御用達になっているクラウザー社の会長に、なんて恐れ多い事を言っているのだろうと、体の芯から冷えてくる心地に見舞われる。

 けれどここでアドラーの権力に屈してはいけないと思った。

 彼は香澄を心配して言ってくれているが、己の誇りが汚された事にも立腹している。

 だがこれはあくまで〝香澄の事故〟だ。

 アドラーは佑の祖父であり、義理の両親ではない。
 勿論クラウザー家の人々は大切にしたいが、彼らが凄い一族だからと言って、なんでも「はい、はい」といいなりになるのは違う。

 見慣れた日本人とは違って、青い目をした彼と真顔で見つめ合っていると、怖くて震えそうになる。
 それでも、香澄はここは譲れないと思った。

(佑さん、勇気をちょうだい!)

 香澄は唇を引き結び、静かに息を吸う。

『クラウザー家の皆さんと絆が生まれたのを、とても光栄に思っています。ですが私は佑さんと結婚をし、御劔の名字を名乗ります。皆さんにはとてもよくして頂いていますが、自分が属するところをはき違えてはいけないと思っています』

 その時、節子が前に進み出てアドラーの袖を引いた。

『あなた、さっきから日本語になっていないのに気づいている? あなたは母国語で香澄さんを支配しようとしているわ』

 言われて初めて、アドラーは歓迎パーティーでは皆で日本語を話していたのに、今日は最初からドイツ語で話していたと気づいたようだった。
 彼はすぐに言語を日本語に切り替える。

「……香澄さん、威圧感を与えたのなら窮屈な思いをさせた。私も頭の中が悪い感情で一杯になっていて、そこまで気を回す事ができなかった」

「いいえ、逆にお気遣いありがとうございます」

 日本語で話せて安堵を覚え、香澄は微笑む。
 そして助け船を出してくれた節子に黙礼すると、彼女もにっこり笑って会釈をしてくれた。

「あなた、先ほどから聞いていたら、あなたの言っている事は金持ちの傲慢そのものよ。佑が選んだ香澄さんは、とても心根の優しい女性よ? 必要以上の復讐を望んでいると思う? それは、彼女と彼女を選んだ佑への侮辱になるわ」

 愛する妻に厳しく言われ、アドラーは溜め息をつく。

「お願いだから公私混同しないで。あなたが腹立たしく思うのと、香澄さんの事故とは繋がりがないわ。私たちができるのは、入院している彼女がドイツにいる間、少しでも心地よく過ごせるために協力する事。それ以上の事は必要ないわ」

 節子に言われ、アドラーは不承不承という様子で頷く。

「……では、クラウザー社の方から事故を起こした詫びとして香澄さんに賠償金を……」
「ひっ、必要ありません!」

 なぜそうなる!? と、香澄は心の中で突っ込みを入れ、首を左右に振る。

「お金は要りません。先ほども言いましたように、保険会社から支払われるもので十分です」

 拒絶した香澄を見て、アロイスが笑った。
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