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第三部・元彼 編

アーリーモーニングティー

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 目が覚めて、香澄はしばしぼんやりと天井を見上げる。

(佑さんの寝室だ)

 いつもキングサイズベッドのドアに近い方に寝ているので、無意識に手を左側に動かし、ベッドサイドに置いているスマホを確認する。

(……七時半)

 やや寝過ぎた感はあるが、スッキリ目覚められた。

「おはよ」

 ――と、体にスルリと腕がまわり、耳元で艶やかな低音で朝の挨拶をされる。

「ひゃっ」

 肩を跳ねさせ感じた香澄を見て、声の主――佑はクツクツと喉で笑った。

「ん」

 香澄を仰向けにした佑は、上から覆い被さるようにキスをする。

「気分はどう?」

 朝一番に美しいヘーゼルの瞳を見られるのが、なんとも贅沢だ。

「とってもいい気分」

 微笑む香澄に、佑はもう一度キスをしてベッドを下りる。

「香澄、アーリーモーニングティーって知ってる?」
「……ん? 何か聞いたような……。ベッドで飲む紅茶だっけ?」

 飲食業界で働く前、一通りコーヒーや紅茶、カクテルやワインなど、興味を持った物の資料的な本を買い、読んだ時期があった。
 すべて身についたかと言われると疑問だが、日本にはない少し変わった習慣などは知識として得られたつもりだ。

「俺は少し前に目が覚めたんだけど、一度起きて下で色々用意した。このままベッドで朝食をとらないか? たまにはいいと思うんだ」
「優雅で素敵だけど、零したら大変そう……」
「大丈夫、汚したら寝具を変えればいいよ」

 爽やかに言って「決まり」と笑った佑は、「そのままベッドにいて」と言って寝室にあるベッドシドテーブルをセットし、出て行った。

(優雅だな……。そしてこんな事をしてくれるの、ありがたい)

 ひとまず寝室裏にある洗面所に行って、用足しをし顔を洗ってからまたベッドに戻った。
 洗面所で鏡を見た時、昨日居酒屋の手洗いで吐いてしまった事を思い出した。
 まだ少し喉が焼けたような感覚があり、寝室にある冷蔵庫から水を拝借して飲む事にする。

(健二くん、置いて帰って来ちゃったけど、あのあとどうしたんだろう)

 怖くて堪らないが、スマホを立ち上げてコネクターナウを開いた。
 健二とのトークルームに何件か通知が入っていたが、見るのも嫌になって溜め息をつく。

(ブロックしたい。……でも、急にブロックしたら失礼じゃないだろうか)

 こういう時、香澄は非情になりきれない。
 相手が自分を害した存在でも、気遣ってしまう。
 昔からこういうところはあって、麻衣には「香澄は人からよく思われたいっていう感情が強いよね」と言われ、納得した。
 良くも悪くも八方美人で、嫌な人に対してもニコニコしているから、舐められるのだ。

(ノーが言えない日本人……か)

 日本人と大きなくくりで言っても、自分よりずっとハッキリ意思表示をする人は大勢いる。
 日本人の四割は〝優柔不断で神経質なA型〟と言われているが、人の性格をざっくりと四パターンに分けて考えてしまうのも、いかがなものかと思う。

(それに、血液型の性格診断があるのは、アジア圏の文化なんだっけ)

 テレビを見ていて誰かが言っていたのを思いだし、「あまり信じすぎても駄目だな」と自分に言い聞かせる。

(結局は、私の問題なんだ。私がどうしたいのか、考えないと)

 そう思うものの、自分一人だとネガティブな思いが渦巻いてしまって、なかなか前に進めない時もある。
 溜め息をついた時、ワゴンを押した佑が廊下をやってくる気配がした。

「おまたせ」

 佑はベッドサイトテーブルの上に食器などを置いていく。
 ベッドサイドテーブルはキングサイズベッドにも対応する幅があり、普段は寝室の壁際に避けられてある。
 バスケットには何種類もパンが入っていて、湯気を立てたスープは零れないようにマグカップに入れられてあった。
 スクランブルエッグ、カリカリベーコンにハーブの入ったウィンナー、サラダがのったプレートも置かれ、おしぼりもある。

 何気ないおしぼり受けは、シンプルながら二つセットで一万円近くする代物らしく、最初に触る時に震えたのを思い出す。
 もちろん佑は一つ一つ、何が幾らしたなど言う人ではない。
 逆に香澄が気にしてしまって、つい手元が狂ってしまった時などに気にして聞いてみれば……というパターンが多い。
 御劔邸の中にはもちろんあちこちにティッシュの箱などもあるのだが、それらのケースなども、部屋のイメージに合わせて金箔を使った和風の物から、シンプルな木製、または大理石、革製、金属……など気を遣われている。
 そして勿論、ティッシュケース一つで万単位の品物だ。
 そんな家なので、壁際にある絵画が幾らするかなど考えたくもなく、香澄は極力壁際に近寄らずに生活していた。
 因みにこの寝室には、大きなテレビが置いてある空間にジョン・アルクールをはじめ、大小さまざまなフレグランスキャンドルが置かれていて、見るだけでもお洒落だ。

「ありがとう」

 すべてセットし終わり、肝心の紅茶用のお湯はコードレスのIHコンロの上で保温されていて、そこからガラスのティーポットに注がれて茶葉が開いていく。

「優雅ぁ」

 思わず声を上げ小さく拍手をすると、佑は芝居がかった様子で一礼してみせた。
 彼もベッドに入り、枕やクッションを整えて座り心地をよくする。

「じゃあ、いただきます」
「いただきます」

 二人で手を合わせ、ナプキンを膝の上に置く。
 まず温かなスープを一口飲んでから、彼が早朝に買って来てくれた近所のパン屋のクロワッサンを手に取った。

「おいし」

 なるべく皿の上でクロワッサンをちぎり、口の中に押し込む。
 ふんわりとしたバターの香りと、サクサクの皮の食感が堪らなく好きだ。
 佑はフェリシアに命令し、丁度いいボリュームでクラシック音楽をランダムで再生させた。
 二人ともあまり会話をせず、「美味しいね」程度の感想を言いながら食事を進めていった。
 満腹になってミルクティーを飲んでいる香澄の右手を、佑が握ってくる。

「……あのね、佑さん」
「ん?」
「昨日は、話を聞いてくれてありがとう。私の弱さを受け入れてくれて、ありがとう」

 色々悩んでいた気持ちはあったが、まず佑に礼を言わなければと思った。

「……うん。もう大丈夫か? ……いや、大丈夫にはならないだろうけど」

 佑が頭を撫でてきてくれたので、香澄は目を細めて彼に身を寄せる。

「佑さんがいるから、大丈夫」

 温かな彼の肩に顔を押しつけ、静かに息をつく。

「昨日、電話をもらって佑さんの声を聞いて、凄く安心したんだ」
「ん……」

 香澄はティーカップをテーブルに置き、両手で佑に抱きつく。

「……ねぇ、健二くんの連絡先とか、急にブロックしたら失礼かな?」
「すればいいよ。もう連絡を取りたくないのなら、すればいい。無理に付き合って香澄の傷を広げる事はない」

 佑はいつも、明朗な答えをくれる。

「……うん、そうする。本当は、急にブロックしたらどう思われるか心配とかして、麻衣に『周りを気にしすぎ』って言われたのを思い出してたの」
「気持ちは分かる。でも、香澄はそうやって今まで、望まない事に我慢をし続けたんじゃないかって、俺は思う。その結果ストレスを抱えて、体も心も壊してしまったのなら、意味がないよ。香澄以上に香澄を大事にできる人はいないんだから」
「……うん」

 迷った時、彼はいつも正しい道しるべをくれる。
 札幌では麻衣がそうだったが、今は佑が同じ役目を果たしてくれている。
 香澄の味方というのが絶対条件で、その上で傷付ける言葉を使わず、忌憚なく意見を言ってくれる人というのは、とても貴重だ。

「じゃあ、ブロックしちゃお」

 わざと軽い口調で言い、香澄は少し手順を迷いながら健二をブロックする。
 何せSNSで人をブロックした事などほぼないので、やり方に慣れていない。

「ちょっと安心しちゃった」

 笑いかけると、佑が頬にキスをしてきた。

「健二さんに言いたい事はある?」

 尋ねられ、香澄は少し考えてから口を開く。

「過去の事はもうどれだけ悩んでも後悔しても、覆る訳じゃない。だから今の私にもう関わらないでほしい……って言いたいかな。『どうして』って言われたら、やっぱり過去の事で傷ついていたからって、少しは伝えたいけど……もういいや。健二くんがこうやって普通に誘ってくるっていう事は、悪い事をしたっていう意識がなかったんだと思う。お互いの意見が食い違っているのに、『私はこう感じていたんだよ』って説明して理解してもらうのが面倒臭い」

 本当にその通りで、悪いと思っていない相手に自分がどれだけ被害を受けたのか、傷ついているのかを説明するのは、何よりも難しい。
 一番いいのは、距離を取って関わらず考えず、自分が幸せになる事を考えるだけだ。
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