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第三部・元彼 編

闇の中

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(どうする……)

 乾いた喉を無理矢理唾で湿らせてから、相手が御劔佑なら、良い意味でも悪い意味でも、誘いに応じなければ自分が終わる気がした。
 一パーセント以下の確率で、Chief Everyへの引き抜きなど良い話だとしたら、それを蹴るのは勿体ない。
 九十九パーセント以上悪い話だとして、会いたくないと断っても相手は何かしらの手段を使って健二と会おうとするだろう。

(……なら、抵抗せず素直に会った方がいいのか……)

 本当に死刑宣告された気分になり、胃がキリキリと痛んでくる。
 夜はあれだけ美味い食事をとったのに、すべて吐いてしまいそうだ。

 やがて健二は諦めて、メールの返信を打ち始めた。
 こんなに気が向かないメールを打つのも、生まれて初めてだ。

『御劔佑様 お世話になっております。原西です。お会いするスケジュールについてですが、週末ですとありがたいです。来週の週末など如何でしょうか? どうぞ宜しくお願い致します。原西健二』

 返事をしたあと、一分もせずに返信があった。

『原西健二様 お世話になっております。御劔佑です。ご返信ありがとうございます。それでは、三月六日の金曜日夜は如何ですか? 土日は予定がありますので、金曜日の夜ならゆっくりお話しできると思います。AKAGIにお勤めとの事で、会社付近の店をセレクトします。それでは、追って時間、場所をご連絡致します。引き続きどうぞ宜しくお願い致します。御劔佑』

(……もう、どうにでもなれ)

 諦めた健二は、佑が提示したスケジュールに向かうという旨の返事を送った。





「よし」

 佑は小さな声で呟き、スマホをベッドサイドに置いた。
 隣を見ると、香澄はドッと出た疲れにより深く眠っている。

(……可哀想に)

 香澄を迎えに行く途中、彼女からの電話を受けて、佑は生まれて初めてと思えるほどの激しい憤りを覚えた。

 彼女と出会って付き合いたい、結婚したいと思った時、もちろん処女であるかどうかは問題ではなかった。
〝初めて〟な女性を自分色に染めたいという欲は、少なからず佑にもある。

 だがこれまで大勢の女性を見てきて、必ずしも初心な女性がいいとは言い切れないと分かっていた。
 純粋で、何もかも強く思い出に残るからこそ、逆にマイナスになる時もある。

 佑自身、傷ついた心を埋めるために、あまり褒められない付き合いをした時期はあった。
 その時、あまり純粋そうな女性には近付かないようにしていた。
 知り合いが純情な女性と付き合った果てに、別れる時に酷くこじれたという話も聞いた。
 どんな恋愛をしても、本当に好き合っていたならすんなり別れられないかもしれない。
 だが佑の近くにいる、高所得で若く、女性にモテる友人たちは、口を揃えて「処女には手を出すな」と言っていた。
 その教えに従うのは〝遊びのルール〟に従うようで不本意だったが、当時の佑は結婚を見据えて本気で付き合う女性を探していたというより、傷ついた自分を慰めてくれる、一時的な相手を求めていた。

 人間、誰しも黒歴史と言える時期があると思っている。
 佑にとっては、二十代半ばから三十歳までの五年ほどがそうだった。
 三十歳になって吹っ切れて以降は、「付き合うなら今度こそ本気で、自分の人生を捧げられる相手を、真剣に見つける」と思っていた。

 だから今、佑は香澄が経験豊富でも処女でも関係なく愛そうと決めていた。
 香澄の事は、噛めば噛むほど……な女性だと思っている。
 一見〝普通〟に思える印象だが、整えるとどんどん魅力を増し、一緒に暮らすようになって、仕事では分からない可愛さや少し抜けた部分などを見て「好きだ」と感じる。
 そんな彼女だから、未経験とは思っていなかった。

 だが二十七歳なのだから、多少の恋愛経験は……と思っていたら、とんでもない過去が出て来た。
 それをマイナスとは感じない。
 彼女自身に言ったように、香澄は被害者だ。
 だからこそ香澄の事情を聞き、彼女の心がどれだけ深く傷ついていたのかを痛感した。

(あんな……つまらない男のせいで)

 今日、久住と佐野に香澄の警護を任せ、送られて来た写真を見て佑は酷く苛ついていた。
 人を外見で判断するつもりはない。
 ただ原西健二に対し、特に惹かれるものもない「普通の男」という印象を抱いた。
 もっと言うなら、下手に身長がありスポーツマンタイプで顔が整っているだけに、毒牙に掛かる女性が多そうだ、と感じた。
 自分の過去の行動を棚に上げた感想だが、原西健二はその容姿を生かして女性を食い物にしていそうだと思った。

 久住と佐野からは逐一報告があり、耳に入った会話などがメッセージとして送られてきた。
 そこまでしていると、香澄には伝えていないが、彼らが同行している時点で多少会話を聞かれるのは受け入れていると思っている。

 一日、健二は比較的まともに香澄に対応していたように感じられた。
 だが佑はずっと「何かあるだろう」と思っていた。
 問題なく別れた相手なら、香澄があれだけ戸惑い、憂鬱そうな表情を見せる事はないのだ。
 彼女の〝平気なふり〟はいつも見てきたが、今回は笑顔の奥に隠された感情が、看過できないものだと直感した。

 夕食になって、健二は全個室の店に香澄を連れ込んだ。
 久住と佐野を同行させているとはいえ、他人の個室に入らせるなどできない。
 個室がゆえに、いつ彼らが店を出るかも分からない。
 この寒空の下、久住と佐野を外で待たせておく訳にもいかないし、ひとまず店に入らせ、定期的に店内を巡回させたが――。

(下手を打った)

 最終的に自分で香澄に電話をすると、歩いて一人で帰っているところだった。
 何もなければ、「これから帰るよ」と連絡をくれていたはずだ。
 それなのに、ヒールを履いた足でわざわざ歩いていたという事は、何かあったに違いない。
 香澄の声は強張っていて、一人にするとどうなるか分からないので話し続けた。
 電話の向こうから聞こえてくる声は頼りなく、薄氷のような印象を受けさらに心配になる。

 そして彼女の過去を聞き、佑は生まれて初めて人を呪い殺したくなった。
 世間的に言えば、とても珍しい話ではないだろう。
 香澄と似た体験、もっと酷い体験をした女性は多くいる。
 しかし現在自分の彼女である香澄が、現時点で東京、しかも職場近くにいる男により、ボロボロになって傷ついている姿を見て、佑の中で何かが切れた。

 ――絶対に復讐してやる。

 香澄は争いを望まない女性だ。
 佑の煮えたぎった感情を知れば、絶対に「やめて」と言うだろう。
 だから香澄には一言も教えず、秘密裏に実行する。

(恐らく、香澄の心は一度死んだ)

 彼女は「思いだした」と言っていた。
 レイプという衝撃的な事を忘れていたなど、普通はあり得ない。
 あまりに傷ついたから、香澄は自分を守るためにその記憶を消したのだ。

 佑自身、女性を〝消費〟していた事は否定しない。
 だからこそ自分の振る舞いを振り返って苦い思いを抱き、香澄の気持ちと当時自分が付き合った女性の気持ちを重ね、どうにもならない感情にかられた。

〝世界の御劔〟とて、聖人君子ではない。
 生まれてこの方、一度もあやまちを犯した事がないなど言わない。
 初めて付き合い、恋をした女性が運命の相手で、その人に童貞を捧げるなど、ほぼあり得ないと思っている。
 世の中には幼馴染みと結婚したという夫婦も多くいるが、佑は不運というべきか、気やすく話す相手が必ず自分を好きになる呪いにかかっていた。
 モテて嬉しいなど言えるレベルではない。
 好意を向けられれば、それだけ負の感情も向けられる。
 安易に恋をする事を避け続けた結果、歪んだ恋愛観を持った男ができあがってしまった。

 そして当たり前に欠点がある一人の男として、佑はどうしても香澄を傷付けた健二を許せなかった。

(俺なんかに比べたら、香澄のほうがずっと綺麗だ)

 そっと、隣で眠る香澄の髪を撫でる。
 まっすぐで癖のない髪は、まるで彼女自身を表しているようだ。
 澄んだ瞳で背筋を伸ばしている姿を見ると、佑が自分を「汚れている」と感じるほど、彼女を遠く感じる。

(汚れ役なら幾らでもやってやる。もうすでにこれ以上ないぐらい汚れている。好きな女の名誉を守るために、クズを排除するぐらい何でもない)

 自分がこれから健二に対してしようと思っている事に、何の罪悪感も抱かない。
 だが香澄が受けた心の傷と、明日目覚めてからの彼女の反応を考えると、胸が痛くて堪らなかった。

「……絶対に俺が守るから」

 人を傷付けてなお、自分が愛する者だけは守ろうとする自分を、なんと利己的なのかと思う。

「……誰に何を言われてもいい。大切なのは香澄と、家族と、友達だけだ」

 誰かによく見られたいという欲は、とうの昔に捨てた。
 会社のためのクリーンなイメージさえ守れるのなら、裏でどれだけの金、力を使ってでも目的を果たす。

 脳裏で原西健二の顔を思い浮かべ、――佑は暗闇に向けて目を細め、息をつく。
 それから香澄のスマホにGPSアプリをインストールしたあと、必要な設定をしてから彼女の枕元に戻した。
 もう一度香澄の頭を撫で、胸の中で渦巻いた感情を少しずつ解放しながら、枕元の照明を落とした。

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