上 下
89 / 1,550
第三部・元彼 編

心の救い方

しおりを挟む
「……だって、……泣いたら、迷惑かける」
「どうして迷惑をかけたらいけないって思うんだ?」

 逆に尋ねられ、香澄は混乱した目を向ける。
 そんな彼女の頬を、佑は優しく撫でた。

「香澄? よく聞いて。健二さんとの付き合いで、香澄が何か〝失敗〟をしたら、彼は機嫌を損ねたかもしれない。香澄が何もしなくても、不機嫌な時に当たり散らしたり、香澄に責任を押しつける事を言ったかもしれない」

 言われて、数々の出来事が脳裏によぎる。

「そういった〝失敗〟を恐れて、香澄は『人に迷惑を掛けたらいけない』と思うようになったんだろう。今の君を見ていて、完璧主義だなと思う時がある。やけに失敗を恐れていて、普通なら『以後注意します』で終わる事も、酷く引きずっているように感じられる事もあった。……それはすべて、健二さんに掛けられた呪いだよ」
「呪い……」

 現実的ではない単語を聞いて、香澄はぼんやりと復唱する。

「呪いは、何も呪術的なものじゃない。現代にも人の言葉や心ない行動によって生まれている。香澄は失敗して怒られたり、責められたりするのを恐れて、自分の弱さを出さないようにしている」

 どことなく、理解できる気がする。
 自分の弱さを見せれば、完璧ではなくなる。
 完璧ではなくなればミスをし、怒られる。
 自分は病んでなどいないと思い込んでいたのに、いつのまにか健二により抑圧された気持ちが、香澄の本来の性格を歪めてしまった。
 愕然とする香澄の頭を、佑は濡れた手でポンポンと撫でる。

「俺はね、香澄がどれだけ失敗してもいいと思っているよ」

(そんなはずない)

 香澄は不安げな表情のまま、佑を見つめるしかできない。

「香澄は、ご家族が何か失敗したら、必ず謝罪させて『二度と失敗しない』と誓うまで責める?」
「ま……っ、まさか! そんな……」

 ギョッとして、香澄は頭を左右に振る。

「それと同じだよ。俺は香澄と家族になりたいし、結婚前提でなくてただの恋人でも、何の事はない失敗ぐらい受け入れる。……勿論、程度によるけど、普通に生活していて命に関わる失敗なんて、そうそうないだろ?」
「……うん……」

 さすがに、命に関わる事なら別だ。

「忘れ物をした、遅刻をした、約束を忘れた……。それらは全部、些細な事だ。誰にでもある小さなミスだし、体調や隠された病気なども関係しているかもしれない。それらをいちいちネチネチ責められたら、誰だって神経が摩耗する。それはただのモラハラだよ」

 自分があれだけ恐れていた健二を、佑はモラハラという言葉で一刀両断してしまう。

「健二さんは付き合っている香澄の外見や内面を馬鹿にしなかった? 行動を制御しなかった? 聞いた話では金銭感覚的にも問題があったように思えるし、彼はまっとうな彼氏ではなかったように思える。……香澄はただの被害者だから、彼を恐れなくていい」
「……ひがいしゃ……」

 その言葉が剥き出しになった心にポツリと落ちて、少しずつ染み入ってくる。

「それと、彼は性加害者だ。……健二さんはDV彼氏だった。だから香澄は、何も悪くない。そんなに自分を責めなくていいんだ」
「う……っ」

 彼が言っている言葉を理解するよりも前に、目の奥が熱くなったかと思うと、涙が次々に溢れてくる。

「病院には行った?」

 香澄の目元にキスをして涙を舐め、佑が尋ねてくる。

「……っそんな、病院……、なんて」

 自分は被害者ではないと思い込み続けていたから、香澄は無理矢理自分に〝普通〟を課してきた。
〝普通〟に振る舞えば、誰も自分が健二に犯された事など気付かない。
 そう思って、笑顔の仮面をつけて毎日を過ごし続けた。

「今度、知り合いのカウンセラーさんを紹介するよ」
「わ、私……っ、大丈夫だから!」

 病気ではないと言い張る香澄は、佑に精神的に問題があると思われるのを恐れていた。

「大丈夫」

 そんな香澄をギュッと抱き締め、佑はトントンと背中を叩きあやしてくる。

「俺も月一回、通っている」
「え……?」

 信じられない、と香澄は顔を上げた。

「仕事をしているとストレスが堪って、松井さんに話したり、友達に話すだけでは晴れない事がどうしてもできる。秘書だから、友達だから話せない事もある。それは分かる?」
「……うん」

「カウンセラーさんは、話を聞くプロだ。何を話しても秘密を守ってくれる。家庭内のいざこざから、仕事の愚痴から、趣味に関する事でも、何でもいい。心の中に溜まっているものを吐き出して、整理させてくれる人だ」
「…………」

 今までカウンセラーという存在とは接触した事がないため、香澄は呆然として佑の言葉を聞く。

「真剣に悩みを話しても、ただの雑談でも世間話でも何でもいい。誰でもいいから話を聞いて欲しい時ってあるだろ? そのために、金を払って聞いてくれる人なんだ。だから、何も特殊な場所、人だと思わなくていい」
「……うん、……分かった」

 説明され、何より佑自身がカウンセラーと話しているというのを聞いて、ハードルが下がった気がする。

「何なら、うちの会社の医務室に、小倉花織(おぐらかおり)先生がいる。心理士の資格も持っているから、困った時は医務室を利用してみるといいよ。ただ、花織先生は優秀だけど、会社にいる時間を考えると、別に時間を取ったほうがゆっくり話せる気がするけど」
「……ありがとう」

 説明されると、肩の力が抜けた気がした。

「世の中の職業に、何も特別な事はないんだ。すべてどこかで繋がっている。精神科や心療内科だって、特別な人が行く場所じゃない。事件に遭ったり病気で心理的に負担を抱えた人や、会社でセクハラやパワハラを受けて参ってしまった人が行く場合もある。一人で悩んで取り返しのつかない事になる前に、専門の人に委ねる。それだけなんだ」
「……うん」

 知らなかったというだけで、自分が色眼鏡でものを見ていた事に気付かされた。
 そんな香澄を、佑は決して馬鹿にせず、軽蔑せず、優しく教えてくれる。

「……ありがとう……」

 佑といると、心が温かくなってばかりだ。

「悪いけど、健二さんはいい彼氏じゃなかった。言ってしまうけど、クソだ」

 クソと言われ、香澄は思わず笑う。

「俺の方がずっといい男だから、俺の事だけを見て、いつも笑っていて」

 ヘーゼルの目が優しく細められたかと思うと、チュッとキスをされた。
 香澄はいまだ涙を浮かべながらも、彼の溢れんばかりの愛情を受けてクシャリと笑う。

 ――好き。

 こみ上げる感情には、純粋な好意とは別に、自分の心を救ってくれた恩義もある。

「……佑さん、大好き」

 彼に抱きついて首元に顔を伏せ、香澄は小さく鼻を啜った。

「俺も好きだよ。……香澄が心穏やかに、幸せに、笑顔でいられるなら何でもする」

 切なげに微笑んだ佑は彼女を抱き締め、何度も背中を撫でる。
 香澄の頭にキスをしてから――、浴室の壁を暗い目で睨んだ。





 風呂から出たあとは、佑がいつものように念入りに手入れをしてくれた。
 かいがいしく世話を焼いてくれる彼を見ると、愛してくれていると実感できる。
 別に尽くしてくれなくても愛は感じるが、佑を見ていると本当に自分を大切にし、愛でてくれているのが分かる。
 彼のように完璧で特別な人にそうしてもらうのは勿体ないと思いつつ、心底ありがたいと思うのだった。

 そして今、香澄はキャミソールとタップパンツという薄着で、ベッドの上で佑にくっついている。
 一日出歩いて疲れたのと、精神的な疲れでもう目蓋がくっつきそうになっていた。

「……なぁ、香澄」
「ん?」
「一つお願いがあるんだけど、仕事の関係も兼ねて、スマホに入れてほしいアプリがある」
「ん? なに?」

 アプリと言われ、香澄は目を瞬かせる。

「いわゆるGPSアプリと呼ばれるものだけど、今回みたいに何かがあって心配な時、すぐ駆けつけられるようにしたいんだ。これから仕事で出張先で道に迷う時もあるかもしれない。特に海外だと不安になる」
「……そうだね。それは、賛成」

 ほとんど目を閉じた状態で、香澄は承諾する。

「何て言うアプリ?」

 ムニャムニャしながら、香澄は手を伸ばしてスマホを取る。
 顔認証でスマホを立ち上げたが、仰向けにスマホを持ったまま動かせないぐらい眠たい。

「俺がアプリを入れておいてもいい? 明日説明する」
「うん……。好きにして。終わったら適当に置いておいて……」

 佑にスマホを渡したあと、香澄は身じろぎをして寝心地のいい体勢を探す。
 そしてスゥ……と寝入ってしまった。

「ありがとう」

 佑は香澄の額にキスをし、笑みを深めてスマホを操作しだした。
しおりを挟む
感想 556

あなたにおすすめの小説

社長室の蜜月

ゆる
恋愛
内容紹介: 若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。 一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。 仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。

上司は初恋の幼馴染です~社内での秘め事は控えめに~

けもこ
恋愛
高辻綾香はホテルグループの秘書課で働いている。先輩の退職に伴って、その後の仕事を引き継ぎ、専務秘書となったが、その専務は自分の幼馴染だった。 秘めた思いを抱えながら、オフィスで毎日ドキドキしながら過ごしていると、彼がアメリカ時代に一緒に暮らしていたという女性が現れ、心中は穏やかではない。 グイグイと距離を縮めようとする幼馴染に自分の思いをどうしていいかわからない日々。 初恋こじらせオフィスラブ

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

身分差婚~あなたの妻になれないはずだった~

椿蛍
恋愛
「息子と別れていただけないかしら?」 私を脅して、別れを決断させた彼の両親。 彼は高級住宅地『都久山』で王子様と呼ばれる存在。 私とは住む世界が違った…… 別れを命じられ、私の恋が終わった。 叶わない身分差の恋だったはずが―― ※R-15くらいなので※マークはありません。 ※視点切り替えあり。 ※2日間は1日3回更新、3日目から1日2回更新となります。

ダブル シークレットベビー ~御曹司の献身~

菱沼あゆ
恋愛
念願のランプのショップを開いた鞠宮あかり。 だが、開店早々、植え込みに猫とおばあさんを避けた車が突っ込んでくる。 車に乗っていたイケメン、木南青葉はインテリアや雑貨などを輸入している会社の社長で、あかりの店に出入りするようになるが。 あかりには実は、年の離れた弟ということになっている息子がいて――。

若社長な旦那様は欲望に正直~新妻が可愛すぎて仕事が手につかない~

雪宮凛
恋愛
「来週からしばらく、在宅ワークをすることになった」 夕食時、突如告げられた夫の言葉に驚く静香。だけど、大好きな旦那様のために、少しでも良い仕事環境を整えようと奮闘する。 そんな健気な妻の姿を目の当たりにした夫の至は、仕事中にも関わらずムラムラしてしまい――。 全3話 ※タグにご注意ください/ムーンライトノベルズより転載

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される

奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。 けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。 そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。 2人の出会いを描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630 2人の誓約の儀を描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...