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第三部・元彼 編

吐き出す1

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 ――あの時、私は……。

〝忘れていた〟事を思い出し、香澄の目の前が真っ暗になる。
 こみ上げた気持ち悪さに、香澄は全力で健二を押しのけ、個室を出て手洗いに駆け込んだ。
 便座を上げ、食べたばかりの物を戻す。

 ――この苦しさは知っている。

 大学卒業近くには、香澄は何度も吐いていた。
 放っておけば食べなくなり、家族や麻衣に心配され、平気なふりをして胃に物を詰め込んだ。
 味も分からず、「美味しい」という感覚すらなく、ただ咀嚼して呑み込んだ。
 そして、吐いた。
 鼻の奥にツンとしたものがこみ上げ、生理的な涙が出る。

(あの頃の私は……、壊れていた)

 自己防衛のためにおぼろげになっていた記憶が、いま生々しく蘇った。

(どうして今日、会おうと思えたんだろう。何をされたのか忘れていたから? 自分は佑さんと付き合っていて、久住さんと佐野さんが見ていてくれると安心していたから?)

 大学生当時、あまりに傷ついた香澄は、健二と〝何〟がきっかけで別れたのかをすっかり忘れていた。
 別れたあとも精神的にボロボロで、それでもきちんと大学に通って現役で卒業したのは、なかば意地になっていたのもある。

 ――私は傷ついていない。
 ――私は×××されていない。
 ――私は可哀想じゃない。
 ――私は被害者じゃない。

 自分に強く強く言い聞かせ、香澄は心を守り切った――つもりだった。
 最近になってとても元気になった香澄に対し、麻衣はあまり大学生当時の話をしたがらなかった。
 どうしてだろう? と思っていたが、それは麻衣なりの思いやりからだ。

「ぅえ……っ、――――ぇえ……っ」

 すべてを吐き切って荒い呼吸を繰り返した香澄は、別の涙を流す。
 しばしぼんやりしたあと、このままでは店の人に迷惑を掛けると思い、慣れた手つきで後片付けをした。

 酒を提供する店で働いていると、必ず手洗いで嘔吐のあとがあったり、人が倒れている事もある。
 それを片付けるのも店側の仕事だ。
 きちんと処理をしたあと、バッグは個室に置いてきたのでトイレットペーパーで鼻をかみ、涙も拭う。
 それから清掃道具が置いてある場所を探し、中に置いてあった消臭スプレーを拝借して使った。

 手洗いを出たが、もう健二と一緒にいたくない。
 グッと覚悟を決めたあと、香澄はすべての感情を殺し、個室に戻った。

「何だよ香澄、いきなり――」

 文句を言う健二を無視し、香澄はバッグから財布を出すと五千円札をテーブルの上に置いた。

「ご馳走様でした、美味しかった。素敵なお店に連れて来てくれてありがとう。でも、もう二度と会わない」

 早口でそれだけ言い、香澄はコートを掴んで個室を出た。

「おい! 香澄!」

 健二が追いかけてこようとするが、香澄は店から走って出た。
 地下一階にある店だったが、階段を駆け上がりビルを出たあと適当な方向に走り続けた。
 二区画ほど走ったあと角を曲がり、コートをしっかり着る。
 スマホを開くと、まだ東京の街に慣れていないのでマップアプリを開いた。
 御劔邸までの道のりを確認すると、徒歩で一時間もかからない。

(頭を冷やすために歩いて帰ろう)

 溜め息をついたあと、香澄はなるべく何も考えないようにして歩き始めた。





 二十分ほどひたすら歩いた時、ヒールを履いた足が痛くなってきたので、近くに見えた公園で一休みする事にした。
 この公園がある南麻布を抜ければ、首都高下を通って白金エリアになる。
 公園は遊具と言えば滑り台程度しかなく、こぢんまりとしてシンプルだ。
 滑り台の降り口に腰掛け、香澄は大きな溜め息をついた。

「……なんで、忘れてたんだろう……」

 分かっている。
 自己防衛本能が働いたのだ。
 けれど、あれだけの事があったのに、どうして呑気にも忘れていられたのかと不思議で堪らない。

 ――と、スマホの着信があった。
 着信音だけで、佑だと分かる。
 今はまだ、彼の顔を見て笑えるほどメンタルが回復していない。
 それでも、声を聞いて安心したいという気持ちはあった。

「……もしもし」
『今どこにいる? 久住たちから完全個室の店に入ったという連絡があった。様子を見るように伝えておいたけど、定期的に店内を巡回させていたら、香澄たちの入った個室に片付けが入っていたと聞いた。香澄がいなくて、二人とも探し回っている』

「ごめんなさい。……ちょっと……一人で歩いて帰りたくなって……」
『うん、分かった。今、どこにいる? 迎えに行くよ。このまま向かうから、話していよう』

 接点を持ち続けようとする佑の気遣いが嬉しく、香澄は微笑む。
 そして、自分が今いる公園の名前を教えた。
 体は外気で冷えて冷静さを取り戻しつつある。
 心は、佑の声を聞いて安心している。
 だから、香澄は彼にあます事なく話してしまおうと思った。

「……あのね、昔の話を聞いてもらってもいい?」
『いいよ、教えて』

 電話の向こうで、カタン、カタン……と物音がする。
 恐らく、家を出る準備をしているのかもしれない。

「ちょっと、暗い、面白くない話なんだけど、いい?」
『構わないよ。香澄の話なら、何でも興味があるから』

「……私ね、前に言ってたように大学一年から二年にかけて、健二くんと付き合っていたの」
『うん』
「健二くんって当時、多分……エッチとかしたい盛りだったと思う」
『まぁ、そうだろうな。二十歳そこそこってそんなもんだし』

「……初めてキスされたのは、健二くんが車の免許をとって、初めて乗せてもらった時だった。家まで送ってくれて、家の近くに車を停めてキスされた」
『……ん』
「あんまり、いいものじゃないなって感じた。佑さんとのキスみたいに、気持ち良くないの」

 電話の向こうで、佑がクスッと笑ったのが聞こえる。

『ありがとう、嬉しいよ』
「……だから、キスより先の事にもあまり興味を持てなかったの」
『うん、分かる気がする』
「誘われても、それとなく断ってた。そういう気持ちになれなかったし、健二くんと付き合ってはいたけど、好きで堪らないっていう気持ちじゃなかったの。……今だから分かるけど、私は彼に恋をしていなかった」
『……うん』

「でも健二くんは、とってもしたいみたいだった。それでも私は避け続けて……。大学一年のクリスマス近く、三時間の待ちぼうけをしたの。結局、健二くんは来なかった。今日聞いたら、その前に喧嘩をしたから『ちょっと困らせてやろうと思った』だって」

 佑は電話の向こうで溜め息をつく。

「あとから噂で聞いたのを思い出した。私が三時間待っていた時、健二くんはナンパした女の子とデートしてホテルに行ってたんだって。……馬鹿みたい」

 自嘲気味に笑う香澄に、佑は返事をしなかった。

「今思うと、当時は初めての彼氏で、嫌われたらやだな、別れるって言われないようにしないとって、必死になってた。彼に恋をしてた訳じゃないのに、初めての彼氏だから、お付き合いをちゃんと成功させないとって思ってた」
『香澄は完璧主義なところもあるよな。ちょっと分かる』

「当時地味な服を着てた私に、健二くんがもっと服に気を遣えって言った。それで、私はバイトを始めたの。それがきっかけで八谷グループと出会えたから、感謝はしている。でも、私がお金を持ち始めたら……ちょっと態度が変わった気がする。男の子だからご馳走してほしいなんて思ってないけど、学生なら割り勘で、〝同じ〟でいたかった」
『うん』

「でもお財布を『忘れた』って言って私がご馳走する事が多々あったり、お金を貸してあとで返すって言ってそのままだったり……。プレゼントも、値段が釣り合わない感じだったり……。何か、『大切にされてないな』って思った。それでも私は、別れる事を恐れてた。〝失敗〟したくなかった。初めて付き合ったから、どう感じたら別れを切り出したらいいのかとか、そんな事も分からなかったの」
『うん。初めて付き合った時は、何もかも手探りだよな』

 佑の相槌を聞いて、彼が初めて付き合った人はどんな人なのだろう、と思い、少し悲しくなった。

「付き合って一年半経ってもエッチしないって、普通じゃないのかな?」

 いまだ不安が強く、香澄は佑に泣きそうな声で尋ねる。

『分からない。そのカップルで違うと思う。好きなら抱きたいと思う。でも、俺は相手が嫌がってるなら無理強いしたくない。お互いしたいと思っていても体に理由がある場合もある。好き合っていて何も問題がなくても、タイミングはある』
「……うん、そうだよね。ありがとう」

 自分が考えていた事と同じ返事があり、香澄は安堵する。
 そして声を震わせながら、話の本題を切り出した。
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