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第一部・出会い 編
先輩秘書
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その後、食事が終わって個室をあとにする時、佑は香澄の両親に手土産を渡すほどの周到ぶりを見せた。
加えてレストランの食事代も佑が持ったので、両親は恐縮しきっていた。
折角だからもっと話したいと、喫茶店に誘う両親を佑が例のスイートルームに招待したので、その後の展開は想像していた通りだ。
夕方近くまで高級な紅茶やコーヒー、お茶菓子と共に会話が弾み、主に栄子が大満足して帰っていった。
「何か……すみません」
両親が帰ったあと、香澄は佑にペコペコと頭を下げる。
「どうして? 俺はご両親と沢山お話できて嬉しかった。突然の話だったから、怒られる事も覚悟していたのに、迎え入れてもらえて本当に良かった」
「……そう言って頂けると助かるのですが……」
時刻は十七時になろうとしていて、香澄もそろそろ帰らなければと思っていた頃合いだ。
その時、スイートルームのチャイムが鳴り、香澄は思わず立ち上がる。
「わ、私出ますね!」
両親も含め沢山良くしてもらった手前、何か働かなくてはと思っての行動だった。
「はい」
ドアを開くと、目の前に初老の男性が立っている。
どうにもホテルスタッフではないようで、一瞬香澄の頭に「?」が浮かんだ。
同時に「どこかで見たような……」と思い出す前に、彼が口を開く。
「あなたが赤松さんですね。初めまして。御劔の秘書をしております、松井亮と申します」
「あっ……! あっ! 秘書さん! はっ、初めまして! 赤松香澄と申します!」
頭を下げて松井を部屋の中に招き入れると、佑が「あれ」と腕時計を見る。
「時間的に、そろそろパッキングをして空港に向かう準備をされた方がいいと思います」
「そうですね」
明日は月曜日だ。
土曜日に『札幌ファッションコレクション』のイベントを終えた佑は、本来なら昨日の夜か、今日の午前中にでも東京に戻っているはずだった。
思い出すと申し訳なくて堪らず、香澄はあたふたする。
「何かお手伝いする事はありますか?」
荷物を纏めると言っているので、まだ秘書にもなっていないのに佑の持ち物に触るのはいきすぎている気がする。
それでも何かできないかと申し出たが、松井にやんわりと断られた。
「国内出張の荷物はごく少ないので、私一人で大丈夫です。御劔は物を置く場所も決まっておりますので、楽なものです」
そう言って松井は本当に物を置いている場所を分かっている足取りでスイートルームを歩き、スーツケースに詰めてゆく。
「あ、あの。いいんでしょうか? 私、そろそろ……」
佑はソファに座ったままで、香澄は松井のみ働かせているのが落ち着かない。
「赤松さんはそのままでどうぞ。これは秘書の仕事のうちの一つですので、お気にせず。社長が煩わしい小さな動作をしないように、秘書がいるものです」
「は、はい……」
(思っていたより、〝お付きの人〟感が強いな)
戸惑っている香澄を見て、佑が笑う。
「実際、松井さんは俺の家の鍵を持っていて、朝起こしてくれるところから一日が始まる。勿論、一人でも起きられるように心がけてはいるけど。なにぶん前日の接待や、持ち帰った仕事、出張先でのパーティーなどもある。そういう時、秘書は酒を飲まずに社長を時間通り動かせるよう、自分自身の体調などを整えておくのも大切なんだ」
「なるほど……。縁の下の力持ちなんですね。私、もっとデスクワーク的なものを想像していました」
「勿論スケジューリングや、メールの振り分け、宿泊するホテルなどの手配、資料作成なども必要だ。でも秘書の仕事の真髄は、社長を如何に予定通りに動かすかなんだ」
「ほぉ……」
そこまで話した時、奥からコロコロとスーツケースを押して松井がやって来た。
「社長、飛行機で着替えられますか? それともここで着替えていかれますか?」
「そうですね。じゃあ、いま着替えます。香澄、ちょっとごめん」
佑はそう言って奥に向かい、香澄は松井と二人になる。
(ええと……)
「御劔さんから、私の話はどれぐらいお聞きですか?」
「すべて存じ上げていますよ。私としましても、多忙な御劔の秘書を一人でこなしてきましたが、年々体力の衰えを感じてきました。そこに若い第二秘書が入って頂けるのなら、喜んで仕事を教えたいと思っています」
にっこり笑う松井は、見た目からして温厚で品のいい男性なのだが、同時に「この笑顔のまま御劔さんを馬車馬のように働かせてそうだな」という感覚を香澄に与えた。
「その……。松井さんは、私が御劔さんの私生活に立ち入りながら、秘書業をする事に抵抗はありませんか?」
真面目に佑の秘書をしているなら、松井が一番香澄の事を嫌がるだろうと思った。
だが松井は微笑みを絶やさない。
「御劔から札幌に来て赤松さんと出会ってからの事を聞いておりますが、確かに勢いで女性に迫ったなという感想は抱きました。ですが同時に、長年御劔の秘書をしてきて、どれだけ入れ込んだ女性が側にいたとしても、御劔は仕事の現場で公私混同する人ではないと確信しております。ですから、赤松さんが心配されているほど、私はお二人のこれからを憂慮しておりません」
その言葉を聞いて、松井が佑に対して絶対的な信頼を置いているのを感じた。
同時に、直感なのだが「良さそうな職場なのかもしれない」とも思った。
「赤松さんの事は、『Bow tie club』でお見かけしました。御劔は最初の挨拶で『感じがいい』と言っていましたが、私も同様の感想を抱きました」
「あっ! あの時同席していらした……!」
佑と初対面の夜は、確かに同じ席に松井もいた。
あの夜は一気に色々な事が起こりすぎて、来店していた客の顔をきちんと覚えるどころではなかった。
翌日から佑が通って来た時は、松井は同席していなかった。
なので松井の顔を見てすぐに思い出せなくても、ある意味仕方がないのだが、客の顔を覚えるのが礼儀と思っている香澄には、致命的なミスに思えた。
「私も赤松さんには良い印象を抱いています。一方的な感想ですが、良識があり仕事に対しても真面目に取り組む方だと思っています。ですので、御劔とプライベートでどのような関係になろうとも、赤松さんの方もそれを仕事中に出す方ではないと思っております」
「はい。仰る通りです。仕事に私情は持ち込みません」
香澄はハッキリと肯定する。
が、同時に、松井がいま自分にやんわりと牽制したのも感じた。
――自分は先輩秘書としてこれだけ期待しているから、くれぐれもそのような事はしないでほしい。
口に出してはいないが、にこやかな表情の裏に松井の秘書としてのプロフェッショナルな意志を感じた。
(東京で働き始めたら、気合い入れないと)
ピリッと感じたのは、八谷の社長を前にした時と似た緊張感だ。
本能で、目の前にいるのは〝一流〟の人なのだと察した。
背筋を伸ばした香澄を見て、松井は笑みを深めた。
「ですので、私はお二人のプライベートについては何も心配しておりません。仕事に関しましては慣れない事があるかと思いますが、可能な限り分かりやすい書類も作ってありますし、東京に来られて働き始めるまでに目を通して頂けたらと思っております」
「はい!」
返事をした時、「松井さん」と苦笑いしながら佑が戻ってくる。
「今からそんなに、香澄に気合いを入れさせなくていいですからね。徐々に慣れていってくれたらいいんですから」
「いいえ! 松井さんの仰る通りなので!」
香澄がハキハキと答えると、佑は「ああ、もう……」とさらに苦笑いする。
「俺より松井さんの方が、先に香澄の心を掴んだみたいですね」
「おや、そんな人聞きの悪い事を仰らないでください」
佑の言葉に松井はにこやかに応え、彼が脱いだスーツを受け取る。
「ひとまず、私はそろそろお暇しますね。空港までもすぐ行ける訳じゃないですし、余裕を持ってホテルを出た方がいいと思います」
香澄は立ち上がり、二人に向かって頭を下げる。
「下まで送るよ」
「いえ、地元ですし」
「いいから」
結局、押されてホテルの玄関まで送ってもらう事になった。
例の専用エレベーターに乗り込み、何となく沈黙が落ちる。
――と、佑が香澄の手を握ってきた。
「……え、と」
温かく大きな手に包み込まれ、鼓動が跳ね上がる。
「まだキスはさせてもらえなさそうだから……」
そう言って佑は、香澄の手の甲に唇を押しつけた。
「わっ……」
手の甲にキスなど、勿論誰にもされた事がない。
驚いて固まっていると、顔を上げた佑がにっこり笑った。
(うう……。この微笑み……。気を付けないと)
結局その後、緊張してろくに話せず、ホテルの玄関まで送ってもらったあと、足が勝手に動いて帰路についていた。
**
加えてレストランの食事代も佑が持ったので、両親は恐縮しきっていた。
折角だからもっと話したいと、喫茶店に誘う両親を佑が例のスイートルームに招待したので、その後の展開は想像していた通りだ。
夕方近くまで高級な紅茶やコーヒー、お茶菓子と共に会話が弾み、主に栄子が大満足して帰っていった。
「何か……すみません」
両親が帰ったあと、香澄は佑にペコペコと頭を下げる。
「どうして? 俺はご両親と沢山お話できて嬉しかった。突然の話だったから、怒られる事も覚悟していたのに、迎え入れてもらえて本当に良かった」
「……そう言って頂けると助かるのですが……」
時刻は十七時になろうとしていて、香澄もそろそろ帰らなければと思っていた頃合いだ。
その時、スイートルームのチャイムが鳴り、香澄は思わず立ち上がる。
「わ、私出ますね!」
両親も含め沢山良くしてもらった手前、何か働かなくてはと思っての行動だった。
「はい」
ドアを開くと、目の前に初老の男性が立っている。
どうにもホテルスタッフではないようで、一瞬香澄の頭に「?」が浮かんだ。
同時に「どこかで見たような……」と思い出す前に、彼が口を開く。
「あなたが赤松さんですね。初めまして。御劔の秘書をしております、松井亮と申します」
「あっ……! あっ! 秘書さん! はっ、初めまして! 赤松香澄と申します!」
頭を下げて松井を部屋の中に招き入れると、佑が「あれ」と腕時計を見る。
「時間的に、そろそろパッキングをして空港に向かう準備をされた方がいいと思います」
「そうですね」
明日は月曜日だ。
土曜日に『札幌ファッションコレクション』のイベントを終えた佑は、本来なら昨日の夜か、今日の午前中にでも東京に戻っているはずだった。
思い出すと申し訳なくて堪らず、香澄はあたふたする。
「何かお手伝いする事はありますか?」
荷物を纏めると言っているので、まだ秘書にもなっていないのに佑の持ち物に触るのはいきすぎている気がする。
それでも何かできないかと申し出たが、松井にやんわりと断られた。
「国内出張の荷物はごく少ないので、私一人で大丈夫です。御劔は物を置く場所も決まっておりますので、楽なものです」
そう言って松井は本当に物を置いている場所を分かっている足取りでスイートルームを歩き、スーツケースに詰めてゆく。
「あ、あの。いいんでしょうか? 私、そろそろ……」
佑はソファに座ったままで、香澄は松井のみ働かせているのが落ち着かない。
「赤松さんはそのままでどうぞ。これは秘書の仕事のうちの一つですので、お気にせず。社長が煩わしい小さな動作をしないように、秘書がいるものです」
「は、はい……」
(思っていたより、〝お付きの人〟感が強いな)
戸惑っている香澄を見て、佑が笑う。
「実際、松井さんは俺の家の鍵を持っていて、朝起こしてくれるところから一日が始まる。勿論、一人でも起きられるように心がけてはいるけど。なにぶん前日の接待や、持ち帰った仕事、出張先でのパーティーなどもある。そういう時、秘書は酒を飲まずに社長を時間通り動かせるよう、自分自身の体調などを整えておくのも大切なんだ」
「なるほど……。縁の下の力持ちなんですね。私、もっとデスクワーク的なものを想像していました」
「勿論スケジューリングや、メールの振り分け、宿泊するホテルなどの手配、資料作成なども必要だ。でも秘書の仕事の真髄は、社長を如何に予定通りに動かすかなんだ」
「ほぉ……」
そこまで話した時、奥からコロコロとスーツケースを押して松井がやって来た。
「社長、飛行機で着替えられますか? それともここで着替えていかれますか?」
「そうですね。じゃあ、いま着替えます。香澄、ちょっとごめん」
佑はそう言って奥に向かい、香澄は松井と二人になる。
(ええと……)
「御劔さんから、私の話はどれぐらいお聞きですか?」
「すべて存じ上げていますよ。私としましても、多忙な御劔の秘書を一人でこなしてきましたが、年々体力の衰えを感じてきました。そこに若い第二秘書が入って頂けるのなら、喜んで仕事を教えたいと思っています」
にっこり笑う松井は、見た目からして温厚で品のいい男性なのだが、同時に「この笑顔のまま御劔さんを馬車馬のように働かせてそうだな」という感覚を香澄に与えた。
「その……。松井さんは、私が御劔さんの私生活に立ち入りながら、秘書業をする事に抵抗はありませんか?」
真面目に佑の秘書をしているなら、松井が一番香澄の事を嫌がるだろうと思った。
だが松井は微笑みを絶やさない。
「御劔から札幌に来て赤松さんと出会ってからの事を聞いておりますが、確かに勢いで女性に迫ったなという感想は抱きました。ですが同時に、長年御劔の秘書をしてきて、どれだけ入れ込んだ女性が側にいたとしても、御劔は仕事の現場で公私混同する人ではないと確信しております。ですから、赤松さんが心配されているほど、私はお二人のこれからを憂慮しておりません」
その言葉を聞いて、松井が佑に対して絶対的な信頼を置いているのを感じた。
同時に、直感なのだが「良さそうな職場なのかもしれない」とも思った。
「赤松さんの事は、『Bow tie club』でお見かけしました。御劔は最初の挨拶で『感じがいい』と言っていましたが、私も同様の感想を抱きました」
「あっ! あの時同席していらした……!」
佑と初対面の夜は、確かに同じ席に松井もいた。
あの夜は一気に色々な事が起こりすぎて、来店していた客の顔をきちんと覚えるどころではなかった。
翌日から佑が通って来た時は、松井は同席していなかった。
なので松井の顔を見てすぐに思い出せなくても、ある意味仕方がないのだが、客の顔を覚えるのが礼儀と思っている香澄には、致命的なミスに思えた。
「私も赤松さんには良い印象を抱いています。一方的な感想ですが、良識があり仕事に対しても真面目に取り組む方だと思っています。ですので、御劔とプライベートでどのような関係になろうとも、赤松さんの方もそれを仕事中に出す方ではないと思っております」
「はい。仰る通りです。仕事に私情は持ち込みません」
香澄はハッキリと肯定する。
が、同時に、松井がいま自分にやんわりと牽制したのも感じた。
――自分は先輩秘書としてこれだけ期待しているから、くれぐれもそのような事はしないでほしい。
口に出してはいないが、にこやかな表情の裏に松井の秘書としてのプロフェッショナルな意志を感じた。
(東京で働き始めたら、気合い入れないと)
ピリッと感じたのは、八谷の社長を前にした時と似た緊張感だ。
本能で、目の前にいるのは〝一流〟の人なのだと察した。
背筋を伸ばした香澄を見て、松井は笑みを深めた。
「ですので、私はお二人のプライベートについては何も心配しておりません。仕事に関しましては慣れない事があるかと思いますが、可能な限り分かりやすい書類も作ってありますし、東京に来られて働き始めるまでに目を通して頂けたらと思っております」
「はい!」
返事をした時、「松井さん」と苦笑いしながら佑が戻ってくる。
「今からそんなに、香澄に気合いを入れさせなくていいですからね。徐々に慣れていってくれたらいいんですから」
「いいえ! 松井さんの仰る通りなので!」
香澄がハキハキと答えると、佑は「ああ、もう……」とさらに苦笑いする。
「俺より松井さんの方が、先に香澄の心を掴んだみたいですね」
「おや、そんな人聞きの悪い事を仰らないでください」
佑の言葉に松井はにこやかに応え、彼が脱いだスーツを受け取る。
「ひとまず、私はそろそろお暇しますね。空港までもすぐ行ける訳じゃないですし、余裕を持ってホテルを出た方がいいと思います」
香澄は立ち上がり、二人に向かって頭を下げる。
「下まで送るよ」
「いえ、地元ですし」
「いいから」
結局、押されてホテルの玄関まで送ってもらう事になった。
例の専用エレベーターに乗り込み、何となく沈黙が落ちる。
――と、佑が香澄の手を握ってきた。
「……え、と」
温かく大きな手に包み込まれ、鼓動が跳ね上がる。
「まだキスはさせてもらえなさそうだから……」
そう言って佑は、香澄の手の甲に唇を押しつけた。
「わっ……」
手の甲にキスなど、勿論誰にもされた事がない。
驚いて固まっていると、顔を上げた佑がにっこり笑った。
(うう……。この微笑み……。気を付けないと)
結局その後、緊張してろくに話せず、ホテルの玄関まで送ってもらったあと、足が勝手に動いて帰路についていた。
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