泥に咲く花

臣桜

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第四十二章

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「今日はあっついわねぇ~」
 チャイムが鳴って忠臣が鍵を開けると、顔にタオルハンカチを当てた未来が入って来ての第一声がそれだった。
「こんにちは」
「うん、こんにちは。桜ちゃんは?」
「今日も彼女は綺麗ですよ」
 未来がマンションを訪れる度に、二人はそんな遣り取りをしている。
「今日ねぇ、ドーナツ屋さんがセール期間に入っていたから、買って来たの。桜ちゃんが好きなのも沢山買って来たのよ。ふふ、あの子少し痩せ気味だから、この際に太らせちゃお」
 そんな事を言いながら未来がリビングに入り、ソファに座っている桜に「こんにちは」と明るく話しかけた。
「……こんにちは、未来ちゃん」
 桜としては、大事な事を黙っていた未来に対して色々と思う所があるらしく、だがそれも未来が自分を心配させないように、という気遣いだからという事も理解している為に、その心境は複雑だ。
「ん? 元気ない?」
「……未来ちゃん、京都のお家が大変やて……ほんま?」
 間を持たせる事が出来ない桜が、単刀直入に訊いてしまう。
 明るい窓の外から、住宅街を通る車の音が微かに聞こえてくる。
「座ってもいい?」
 リビングに差し込んでくる日光が眩しかったのか、未来がレースのカーテンを閉めた。
 忠臣がこの部屋に同棲する様になってから新しく注文したカーテンは、リラックス効果を狙ってでのグリーンと、新しいレースのカーテンになっている。
 日焼け防止の薄手のカーディガンを脱いでソファに置き、未来がジーパンを穿いた尻を腰掛けさせた。
 忠臣は来客用にと紅茶を淹れる準備を始め、キッチンに立つ。
「時子伯母さんがね、桜ちゃんには耳に入れないで欲しいって」
「けど、私は佐咲家の娘で……」
 桜の目には不満がある。
 幾ら自分が東京で一人暮らしをしているとしても、佐咲家の娘として家族の事や家の事を知る権利はあるという主張だ。
「あのね、桜ちゃん。今の桜ちゃんに出来る事、すべき事は、心と体を休ませて裁判に臨むこと。東京にいるのに京都の家の心配をしても、気が散るだけでしょう?
 それにこういう言い方をするときついかもしれないけれど、あの会社に関わっていない専門外の桜ちゃんが心配しても、会社は回復しないし、社員さん達がどうにかなる訳じゃないの。
 嫌な言い方だけれど、伯父さんは本家当主で、歴史のある佐咲家が揺らぐ事はない。総資産の正確な所は知らないけれど、うちのお母さんも心配する事はないって言ってるわ。佐咲家で経営している会社の一つが、ちょっと大変な目になっているだけ。
 だから、桜ちゃんは東京で今やるべき事を優先して?」
 忠臣が来客用のティーカップに紅茶を注いで未来の前に出し、桜と自分のマグカップにも紅茶を入れてテーブルの上に静かに置いた。
「……私は何の役にも立てへんの?」
「……娘としては、家族の一員として伯父さんや伯母さん、一番頑張っている春也くんに『頑張れ』って励ます事は出来るかもしれない。けど、本当にそれだけだよ? 桜ちゃんが心配しても、数字が変わる訳じゃない。分かる?」
「……うん」
 忠臣が気を利かせてミルクを入れてくれた乳白色の液体を見て桜が頷き、未来は落ち着いた様子のまま忠臣に「有り難う」と一言伝えて紅茶を口にする。
「意地悪でこういう事を言っているんじゃないのは、分かって?」
「……うん」
「初公判って起訴から一ヵ月後くらいだから、それまでにはきっと伯父さんと伯母さんも、京都から来てくれてると思うよ?」
「……うん」
「出来るだけ重たい罪になってくれればいいね。検察の方も、今頑張ってくれていると思うし」
「……うん」
「ドーナツ食べようか。桜ちゃんの好きなの、買って来たよ?」
「……うん」
 未来が明るく言ってドーナツの入った箱をテーブルの上で開け、忠臣が取り皿を持って来ようとまた立ち上がった。

 話をはぐらかされた気分がした。
 桜はまだ十九歳だから、両親や兄が関わっている会社の事や、自分でもまだよく分かっていない佐咲家という大きな家の事について、深く知る必要はないと暗に言われた気がした。
 それは被害妄想だという事も分かっている。
 けれど、その根底にあるのは「自分は今こんな酷い状態にあるのに」という気持ちで、それに両親が駆けつけてくれない事への不安、その原因が分かったというのに、それにあまり関わるなと言われてしまった事への不満。
 それが桜の中で、凄まじいフラストレーションとなってしまっている。

「桜ちゃん、どれがいい?」
 プレゼントの箱を開くように、未来が桜にドーナツの詰まった箱の中身を見せて微笑むが、桜の表情は晴れない。
「桜ちゃん?」
「……っ」
 桜が大きく息を吸い込んで止め、吐き出しながら震わせる。
「桜?」
 彼女が発する異様な雰囲気に忠臣と未来が動きを止め、心配そうに見守った。
 二人が見守るなか、桜の目に涙が溜まって零れてゆき、綺麗な顔がクシャッと歪んで二人に背中を向ける。
「もぉっ……、いやや……!」
 涙で崩れた声がリビングに響いた。
 未来がそっとリモコンでテレビを消し、桜がしゃくりあげる声だけが忠臣と未来の耳を打つ。
 事件からずっと目を背けようとしていた事に直面し、桜の感情が決壊しようとしていた。
「なんでぇ……っ? なんで私だけやの!?」
 
 ああ。
 いつかこの日が来ると思っていた。

「なんで私……っ、こないな目ぇに遭ってっ、……やのにお父様とお母様は心配してくれへんのぉっ!?
 いっつも……、いっつもそうや! お父様とお母様が大切なんは、家を継ぐお兄ちゃんで、末っ子の桃は可愛がる対象で、わたしはっ……、私はいっつも放っておかれる……!」

 涙を拭う手も、今は使えない。

 両親に自分の存在をアピール出来るのが、唯一ピアノだった。
 兄の様に頭脳明晰で家督を継ぐ長男でもなく、学校の成績はそれなりに良かったが、桜はピアノ以外にこれと言った特技がない。
 小さい頃からピアノでいい成績を収めた時だけ、両親は褒めてくれた。
 勉強で一番とかそういうものは兄がいつも取っていて、通学に使っていたバスで一緒になった知らない他校生の男の子から告白をされて、何故かバレンタインデーにその子からチョコを貰った時は、母は「桜は可愛いもんねぇ」と、まるで桜が顔だけ可愛い子の様な言い方をし、それがずっとしこりになっている。
 そういう積み重ねが桜には「自分にはピアノしかない」と思わせ、尚更それに打ち込ませた。
 妹の桃が生まれてからは、桃が自分を慕ってくれるのは嬉しいが、妹が自分の真似をして音楽を始めたのを、正直疎ましく思っている。
 自分が両親にアピール出来るのは音楽だけなのに、どうして何もしなくても無条件に可愛がられる妹が、もっと両親に好かれる様な要因を作らなければならないのか。
 ヴァイオリンを始めた妹が、自分を慕ってきて音楽の事について話しかけて来ると、嬉しい気持ちもあったのと同時に、自分一人だけの特技だったのに、という嘆息がつい出てしまう。
 両親はいつも忙しくて、学校行事やピアノのコンクールの時、盆と年末年始、クリスマスぐらいしか構ってくれない。
 乳母にそれをこっそりと「寂しい」と伝えたら、「仕方がないでしょう。私達がいます」と言われ、それでも気持ちは晴れなかった。
 家族の誕生日にはケーキを作っていたが、ある時の母の誕生日には、母は勘違いをして妹に礼を言っていた。
 すぐにその場で誤解は解けたが、桜の中のもやもやは取れない。

 佐咲家という大きな家を継ぐには兄がいる。
 両親が可愛がっているのは妹で、
 ……なら私は?

 ずっとその疑問を抱え、それに直面して深く考えるのが怖くて避けてきた。

 その答えが今になって、現実の形として提示された気がする。

「私の事なんかどうでもええんや! あの人と初めて体を重ねた時に、酷い言葉を言われて体も痛くて、お母様に電話をしても出ぇへん。……聴いて欲しかったのに……! 未来ちゃんが聴いてくれたけど、未来ちゃんはお母様やあらへんもん!
 そんで殺されかけても、結局大切なのはお家の事! それやのに……、きっと桃の学校の演奏会には出席してるんやえ? 同じ京都で近いから、って。私は殺されかけても、東京やからって心配やないの! お兄ちゃんと桃ばっかり……!」

 ひぃっ……、と引き攣れた空気が桜の喉を震わせた。

「わたしなんか……っ、望まれた子やないんや……っ」

 絶望に満ちた桜の声が、自分自身に呪いをかけた。

「こないなこと分かるんやったら……っ、あの時死んどけば良かった! 何で忠臣さん来はったの!? 何で私を助けたの!? なんで私生きてんの!?」

 とめどなく迸る感情は言葉を選ばず、忠臣と未来の心を刺してゆく。

 人に優しく接するのは、幾重にも薄いヴェールをかけていく様にその人の心に蓄積してゆくのに、心ない言葉というものはその層を鋭利な先端で突き刺してくる。

 桜が心の傷を二人に曝け出していた。

 大切に育てられた甘い柿は、いつの間にかグチャグチャになるまで熟れて、放置されて地面へ落ちていた。

「ああああぁああぁぁぁあーっっ!! ああぁあぁあああぁぁああぁんっっ」
 大声を上げて泣く桜は、手がつけられない。
 忠臣が後ろから抱き締めようとしても暴れ、肘が忠臣の腹に思い切り決まった。
 桜がギプスをソファの肘掛けに叩き付けようとして咄嗟にそれを押さえ込み、自己破壊行動が実行されずに桜が癇癪の声を上げる。
 綺麗な顔を歪めて泣き喚き、唯一自由な足を使って暴れ回り、テーブルを蹴った。
 何度も蹴られたテーブルは元にあった位置から大分ずれてしまい、その上に置かれてあったティーカップやマグカップからは、紅茶が零れてテーブルを汚す。
 未来はドーナツの箱が落ちてしまわない様に、箱の蓋を閉めてからダイニングテーブルへとそっと移した。
 尚も暴れまわる桜が立ち上がり、忠臣を振り払って閉まっているピアノの部屋のドアに体当たりを始める。
「桜! 駄目だ! それは君の大切な物だろう!」
 忠臣が大きな声を出して桜を叱り、その声に桜が更に泣く。
 足でピアノの部屋のドアを蹴り、桜が金切り声で絶叫した。

「こんなもん! いらん子のご機嫌取りや! こんなもん要らん! こんなもん壊して、私も死んでやる!!」

 ずっと触れたいと思っていた桜の心に触れ、彼女の肉体を押さえつけながら忠臣は泣いていた。

 名前の通りに、優しくて春の女神の様な彼女が抱えていた闇。
 両親に愛されているという実感がなく、ずっともやもやとしていた不満が、現状への絶望を加算して爆発している。

 彼女の心は親に認められたいという気持ちで満たされていて、ピアノへの情熱はそれを満たす為の手段でしかなかった。
 純粋にピアノが好きだという気持ちも、勿論あるのだろう。
 けれども、今の桜を捉えて喉から血が出そうな声で泣き叫ばせているのは、純粋な所『愛情』を欲しているという事だ。

 どれだけ大切に育てられても、いい洋服、着物、習い事、学校。そういうものを与えられても、子供が親に一番与えて欲しいと思うのは、愛情だ。
 それを今、桜は幼児の様に大きな声を張り上げて、求めていた。

 ピアノの部屋のドアを蹴りつける桜を引き剥がし、忠臣が未来をチラッと見てから桜をベッドルームへ連れてゆく。
「離せ! 離せぇぇぇっっ!! 壊してやる!! 死んでやる!!」
 心配した未来がベッドルームを覗くと、忠臣が桜をベッドの上に倒し、抱き締めていた。
 その腕の中で桜が暴れ、忠臣を蹴りつける。

 そういう風に、自分を犠牲にする事でしか桜の傷をシェアする方法を見つけられなかったのかと、未来は悲しく思いながら部屋を去る事にした。
 本当なら桜が落ち着くまで滞在して、その後にゆっくり桜と忠臣と話をしたいという気持ちはある。
 だが彼女は主婦で、もうそろそろ時間が経てば沙夜の幼稚園の迎えに行かなければならないし、その後は沙夜と一緒に夕飯の買い物をして、自宅で家事をしなければならない。

 桜と忠臣に向かって一礼をし、複雑な心境で未来が部屋を立ち去ってからは、忠臣と桜の戦いだった。

 桜のギプスが自分に当たって彼女が痛い思いをしない様に後ろから抱き締め、そうすれば後ろ向きに蹴られてもあまり痛くない。
 彼女の肘の所で抱き締めれば、腕を振り回す事もない。
 後はただ、好きなだけ叫ばせて、体全身を使わせて暴れさせればいい。

 こういう覚悟は出来ていた。

 受け止めて、一緒に歩んでゆく覚悟はあるつもりだ。

 泣くなら思い切り泣けばいい。
 自分を罵って気が済むのなら罵って、蹴ってもいいし、何をしてもいい。

 ただそれが済んだら、元の桜に戻って欲しい。

 今すぐは無理でも構わない。
 裁判が終わって、心療内科に通院する事が必要になったらそうして、顔や手、腹の治療をちゃんと受けて。
 その側に自分はずっといると誓うから、またあの優しい笑顔で美しいピアノの音色を聴かせて欲しい。

 それはいつになるのか分からない、果てしなく遠い願いで。

 泣き叫ぶ桜の声を聞きながら忠臣自身も涙を流し、それでも二人で絶望の沼に嵌って動けなくなる事だけは、ならない様にしようと自らに誓っていた。

 きっとこれからは自分も辛くなる。

 それでも、だからこそ自分は笑顔でいて彼女に優しくしなければならない。
 暗黒の中にいる彼女に、鈴の音を聞かせて自分の位置を教え、優しい声で「こっちだよ」と自分が光に導く。

 自分は桜に出会って初めて人を好きになり、彼女の血のお陰で味覚を取り戻す事が出来た。
 だから、その一生のお返しを、自分が今度は桜にする番だ。

 どんなに拒絶されても、憎まれても、彼女が生きる事やピアノを放棄しようとするのを、自分は阻止しなければならない。

 忠臣自身、自分は今まで生きながら死んでいたと思う。
 誰にも興味を持てず、美味しいと思う事すらなく、ただ父の後を継ぐ事を将来の目標に、娯楽は読書と映画だけ。
 そんな人生に光を与えてくれたのが桜だ。

 ありがとう。

 心からの感謝を彼女に抱き、母が言っていた様にこれが何かの巡り併せなら、それに感謝して彼女を大切にしていきたい。
 やっと見つけた恋人なのだから、その人に一生を捧げる事があってもいいだろう。

 世の中経験重視で、付き合う人数が多ければいいという者もいるが、そんなもの個人差だ。
 初めて好きになって付き合った人が自分にとって最上の人なら、それでいいではないか。
 童貞だとか処女だとか、そういうものに拘るのも馬鹿らしい。
 好きならいいんだ。
 好きだと思った人を大切に出来れば、それでいい。

 腕の中の桜の細い体を抱き締めて、忠臣は彼女への溢れる思いで桜の肩を涙で濡らす。

 自分の心の痛みも、
 想像するしか出来ない彼女の心と体の痛みも、
 桜を大事にしたいという気持ちも、
 あの晩ぶつかった犯人を殺してやりたい気持ちも、
 父へのもやもやとした気持ちも、
 全てこの涙に浄化されて、綺麗なものになればいいと願う。

 思い出して焦がれるのは、レースのカーテン越しに差し込む光に照らされて、穏やかに微笑んでノクターンを弾いていた彼女。
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