泥に咲く花

臣桜

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第十五章

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 エントランスでは偶然中に入る人と一緒になって入れて貰え、エレベーターで目指す階へと上がると、同じフロアに住んでいるもう一世帯の夫人らしき女性が、心配そうに桜の部屋のドアの前で立っていた。
「こんばんは」
「ああ、こんばんは。桜ちゃんのお知り合い?」
「はい、様子が気になって来たんですが……何か?」

 ぞわぞわと、毛虫が這う様に嫌な予感がする。
 全身の毛が逆立つような、猫の舌に舐められた時のような感覚。

「最近、桜ちゃんの部屋から凄い物音と悲鳴があって心配で。ついさっきもあったばっかりで、いつもなら落ち着いた辺りになって桜ちゃんが謝りに来るのに、それがなくて心配で……」

 背中に氷水を入れられた様に、全身がひやりとした。
 動悸が速まって口から心臓が出そうになり、吐き気がしてくる。

「お兄ちゃん、大丈夫? 顔が真っ青よ?」
「見てきます……」

 幽鬼のように真っ青な顔で忠臣が告げ、ふらりと足を踏み出して落ち着いたブラウンのドアに向かう。
 景色がぐにゃりと曲がって、三半規管が狂ったようなその感覚にまた吐き気を覚えながら、忠臣は玄関のチャイムを押した。

 ピーンポーン

 一度。

 やや暫くしてからもう一度。

 ピーンポーン

 震えが止まらない。

 そっとドアのレバーを手で引いてみると、あっけなくドアは開いた。
 中から、むわっと彼女の甘い匂い。
 振り向くと、隣の家族の夫人が「中に入ってみて」と頷いている。
 「桜さん?」
 大きな声を出して彼女の名を呼び、中からの反応を待ってみる。
 
 薄闇の中、シンとした室内。

「桜さん? 忠臣です。入りますよ?」
 部屋の中からは彼女の香りしか返事をしない。

 スニーカーを脱いで上がり框にそっと足を置き、緊張しながら歩を進めた。

 これは悪いものだ。
 悪い予感という奴だ。
 心と頭の中で赤いランプが明滅していて、それなのに忠臣は逃げ出す事が出来ない。
 自分の目で確かめないといけないという使命感が、それを勝っていた。

 噎せ返る様な甘い香りの中、物音一つしない廊下を進み、薄暗いリビングまで行って忠臣の口から「――あぁ」という、溜息とも嘆きともつかない声が漏れた。

 桜が横たわっている。

 レースのカーテンを、まるで花嫁の薄いヴェールの様にその体に被って、ベランダの方へ手を伸ばす様にして横たわっていた。
「桜さん?」
 慌てて近寄って彼女を抱き起こそうとし、桜の腹部から生えているものにギクリとして動きを止める。

 ……包丁?

 思考が止まる。

 いや、アクセル全開で空回りしていた。

 これは血?
(こうなる事は予想の範疇にあった筈だ)
 彼女が血を流している?
(救急車と警察を呼ばなければ)
 滑らかな肌の途中にあるものは凶器?
(どれぐらい出血してしまったのだろうか?)
 彼女の顔が分からない。
(原型がなくなるまで殴られている)

 鼻がツンとして、涙が溢れた。
 辺りを甘い毒のような甘い香りが支配している。
 桃の果実を凝縮したエキスの様な、濃厚な匂い。

「さくらさん」
 もうあの綺麗な顔がどうなってしまったのか分からない顔の、口元辺りに顔を近づけると、ほんの少しだけ呼吸音が聞こえた。
 途端に、忠臣の中にリアルが戻ってくる。
 唾で喉を濡らし、血で濡れた手をジーパンにこすり付けて拭いて、スマホで救急車を手配する。
 スマホを持つ手が震えていた。
 すぐに電話が通じて、忠臣は出来るだけ冷静になって現状を説明する。

 包丁が刺さっていること。
 顔が分からなくなるほど殴られていること。
 死んでしまいそうだということ。

 泣き出してしまう寸前で、喉が痛くて堪らなかったのは覚えている。
 冷静に伝えたつもりだったが、もしかしたら同じ事を重複して伝えてしまったかもしれない。
 的外れな事も言ってしまったかもしれない。

 通話を切って、グルグルと混乱した頭の中で、桜が血で喉を詰まらせてしまっていてはいけないと思い、数少ない医学知識の中から気道を確保しようと思った。
「桜さん、救急車を呼びましたからね。痛いかもしれませんが、触りますよ?」
 そっと頭部に手をかけて彼女の顔を横向きにし、洗面所に向かってありったけのタオルを持って来て腹部に当てる。
 ふわふわのタオルが血を吸ってゆく。
「桜さん? 聞こえますか? 頑張って下さいね?」
 意識を失ってはいけないと、必死になって声をかける。
 その声もいつの間にか涙声になっていた。

 桜の繊細な指は目茶目茶になっていた。
 近くにハンマーが転がっていて、恐らくそれで叩かれたのだと思う。

 どうしてこんな酷いことを。

 彼女が何をした。

 込み上げる涙と怒りで吐き気がし、桜の上に忠臣の涙がかかってしまう。
「桜さん……っ、頑張って、くださ、い」
 汚れてしまったタオルを取替え、次の物を腹部に押し当てた時。

「た……、……み、ぁ……」

 小さく掠れた声が忠臣を呼ぶ。

「桜さん!?」

 良かった。
 意識がある。

「頑張って下さいね? すぐに救急車が来ますから」
 手を握りたくても、その手が握れない。
 代わりにいいだけ腫れた頬に、そっと触れるだけのキスを落とした。

「……ぁ、……ぃ、さ……」

 桜が忠臣を呼んでいる。

 あんなに形のいい唇が、腫れ上がってしまっている。
 大きな目も細くしか開けられず、恐らく歯も折れてしまっているのだろう。
 熟しすぎた柿の様な唇の間から、苦しそうな息と一緒にただ忠臣の名前を呼び続ける、消えてしまう寸前の様なか細い声。

「大丈夫です! 俺はここにいますから! 貴女は生きる事を考えて!」

 もどかしい。
 気が狂いそうに気持ちが溢れ、次から次へと涙が頬を濡らす。

 何がどうなってもいい。
 今は彼女が生きてくれるのなら、それだけでいい。
 我侭は言わないから。
 もう、味覚が欲しいとかないものねだりはしない。
 彼女の命だけが欲しい。

 おねがいだ。
 誰か助けてくれ。

 しゃくり上げながら忠臣が涙を零し、彼女の視界がどうなっているのかは分からないが、桜の目の前で不器用な笑顔を作ってみせる。
「……ス……ぃ、て」
 「え?」

 聞こえて来たサイレンの音が、マンションの前で止まった。

 必死になって桜の口元に耳を寄せると、聞こえてきた息は必死になって「キス」という単語を紡いでいた。
「桜さん、もう喋らないで」
 端正な顔を、涙と鼻水でグシャグシャにしてしまっている忠臣がそう懇願し、彼女の望み通りに、桜の腫れ上がった唇にそっとキスをする。

 血にまみれた愛情の味がした。

 こんな時なのに下半身が興奮してしまい、ギリ、と忠臣が歯を喰いしばる。
 よりによって、桜の血を舌先に掠めた途端「美味しい」と感じるだなんて。
 
 美味しい。
 美味しくて堪らない。
 生まれて初めてこんなに『美味しい』ものに出会った。
 もっと舐めたい。
 彼女の血を。

 馬鹿か?
 馬鹿なのか?

 浅ましい体を呪いたくなる。

 ドアの外から隣の女性の声がして、チャイムの音の後に救急隊員が入って来た。
「こっちです!」
 色んな感情でグシャグシャになった涙声で忠臣が叫び、救命隊員が三人入って来た。
「お願いです! 桜さんを助けて下さい!」
「分かりました。落ち着いて下さい」
 混乱している忠臣の傍らですぐに救急処置に入り、桜が運ばれてゆく。
「ご家族の方ですか?」
「いえ、違います。付き添えますか?」
「後で事情を説明する方が必要になります。付き添って頂けるのなら、同乗して下さい」
 廊下で同じフロアの家族が桜の状態を見て息を飲み、先ほど忠臣と話をしていた夫人が、彼に「管理人さんには話しておくから、貴方は桜ちゃんに付いてあげていて」と声をかけてくる。
「有り難う御座います!」
 エレベーター二機で下に降り、外に出ると赤いランプが明滅していた。

 そこから後はあまり記憶にない。

 訊かれる事に必死になって答え、病院に着いて桜がドアの向こうに消えてしまってから、言われた事を思い出して未来に連絡をした。
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