泥に咲く花

臣桜

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第八章

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「おはようさんです」
 眠たい目をこすってベッドルームから出ると、桜が朝食を準備していた。
「ああ……、おはよう御座います」
「パンなら食べられますか? サラダも作ってます」
「はい、お気遣い有り難う御座います」
 言葉はまた敬語に戻っていたが、心の距離は近い。
 暑さはまだ程度が低くて過ごしやすく、それでも外からは蝉の声がシャワーの様に響き渡っていた。
 テレビをつけず、桜がクラシック曲をハミングしながらオムレツを焼く。
 花柄のエプロンをつけたその立ち姿が愛しくて、忠臣は眠気でとろりとした意識のまま、スマホを構えて桜を写した。
 カシャッ
「えっ?」
「俺の宝物にさせて下さい」
 忠臣が甘く微笑むと、桜が「もぉ」と怒ったふりをする。
 それでも、彼女の口元は笑っていた。

「はい、お待たせさんです」
 ふわりと玉子とバターの香りがし、パンが焼ける香ばしい匂いもする。
 キッチンカウンターに出された皿を受け取り、忠臣がダイニングテーブルにそれを並べてゆく。
「プレーンオムレツにケチャップはかけますか?」
「あ、いいえ、そのままで」
「はい」
 そんな遣り取りが、まるで新婚夫婦のようだと思う。
 朝の光が降り注ぐダイニングで二人が向かい合って朝食を食べ、それでもまだ桜は忠臣の具合を気にしていた。
「無理しんといてええですからね?」
「してませんよ」
 自分の体質を知っている桜に「美味しいです」と言うのも変かと思い、でも「食べられます」と答えても空気が微妙になってしまいそうだ。
 完食すれば分かってくれるかな、と思って談笑しながら食事を終えると、桜が微笑んで「よろしおあがり」と言ってくれた。
 まるで映画かドラマの中のワンシーンの様な穏やかで綺麗なシーンで、今度は桜がコーヒーを入れてくれる。
 純粋な飲み物は好きだ。
 水やお茶、コーヒー。
 自然にある物を口にしている気がするから、気持ち悪いとか不快感を感じずに喉に通す事が出来る。
「いい匂いがしますね」
「コーヒーはお好きなんですか?」
「はい、水、お茶、コーヒーなどのシンプルな飲み方は好きです」
「良かった。私、紅茶とコーヒーはミルク入れるんですけど、忠臣さんはストレートって、覚えておきますね」
「有り難う御座います」
 桜の「覚えておきます」という言葉が、これから先にもこういう二人きりでのシーンがある事を予感させ、忠臣は心の中に安心感が広がってゆくのを感じていた。
 付き合えるかもしれないという期待が一気に膨れ上がり、また彼の心の中で妄想が広がってゆく。
 デートをして、一緒に映画を見て、食事は彼女の好きな物を食べさせに連れていきたい。
 彼女のピアノを聴いて、大学が開催する演奏会などがあるのなら足を運んで、いずれは彼女が夢を叶えるシーンを見てみたい。
 自分は夢など持った事がないから、桜がピアニストになりたいという夢が叶えられるのなら、自分も一緒に幸せになれる気がする。
 そして、結婚をしたい。
 真っ白なウェディングドレスを着た彼女。
 いや、白無垢でも似合うに決まっている。
 そんな事を考えてデレッとしそうになった口元を手で覆い、目の前に出されたコーヒーの礼を桜に言う。
「夏やのにホットコーヒーって、熱いですか?」
「いえ、コーヒーはこういう飲み方が一番美味しいと思います」
「ほんまですか? あの……、コーヒーの香りはするんですか?」
「匂いはします。俺、人一倍鼻がいいんです。目も、耳も」
「まぁ」
 その言葉の後ろにつくべき「でも味覚はないんですね」という言葉を、桜は言わず、それを忠臣も察した。
「あの……」
 ほろ苦い液体を飲んで、その香りを鼻から抜いても美味しいのかどうなのか分からない。
 唇を舌先で少し湿らせて、忠臣が口を開いた。
「俺と付き合って下さい」
 それまでニュートラルな雰囲気だったのに、急にそれを忠臣が壊した。
 静かなリビングに、桜が口の中のコーヒーをゴクリと飲み込む音がやけに大きく聞こえ、桜が静かにマグカップをテーブルに置いて忠臣を見詰める。
「桜さんが好きです。もう一度、アルコールが抜けた状態で言わせて下さい」
「……おおきに」
 忠臣の告白に桜が微笑む。
 だが、今必死になって告白をした忠臣には、桜の微妙な表情の変化が見て取れた。
 受け入れてくれている。
 それでも彼女の心には戸惑いがあった。
 急に告白されたからという戸惑いではない。
 桜の心の中には、忠臣の告白を素直に受け入れられない『何か』がある。
 きょろ、とその大きな黒い目が一瞬泳いだのを忠臣は見逃さなかったし、柔らかな唇に力が入ったのも見逃さなかった。
「他に好きな人がいるんですか?」
 桜は気まずそうに目線を逸らす。
「付き合っている人がいるんですか?」
「……はい」
 気まずそうに桜が肯定し、膝の上で両手の親指を落ち着きなく絡ませる。
「……すみません、貴女みたいな魅力的な人なら恋人がいて当たり前ですよね」
「……いえ……」
「な……」
「なかった事にして下さい」と言いかけて忠臣が口を閉ざす。
 出会いは些細な事で、そこからは夢の様な展開だった。
 ドラマチックと言えばドラマチックな出会いで、いいだけ盛り上がって体を重ね、その翌朝に待っていたのはこれだ。
 男女の立場が逆ならよくある話だし、今のままだとしても桜のステータスなら、ありと言えばありかもしれない。
 弄ばれた可能性は否めない。
 でも、彼女に惹かれたことは事実だ。
 笑顔が好きだ。
 透明さすら感じさせる、大きな目が好きだ。
 柔らかな唇も、ふわりと宙を撫でる癖のある髪も、すらりと伸びた手足も。
 しなやかな体も、繊細でいて大胆な音色を生み出す魔法の指も、その先にある桜貝の様な爪も。
 悔しくなるほど、好きで好きで堪らない。

 好きなんだ。

 それに気付いた忠臣の目から、涙の粒が零れて頬を伝ってゆく。
 目の前の、恋人がいるのに自分と一晩を共にした酷い女が好きで堪らない。
 あの姉妹にまるで母親の様に接する、優しい彼女が好きで堪らない。
 振られた事なんて生まれて初めてで、
 悔しいのと、悲しいのと、ショックなのと、
 そんな酷い扱いを受けたのに、彼女を好きで堪らない自分があまりにも滑稽で、哀れで。
 次々と押し寄せる感情が心を決壊させ、涙がボロボロと零れてしまう。
「えっ? 忠臣さん?」
 急に泣き出した忠臣の反応に桜が仰天し、あたふたとしてからボックスティッシュの箱を差し出した。
「すみません……」
 ティッシュを一枚引き抜いて涙を拭き、鼻水をかんで、大きな溜息をつく忠臣。
「あの、誤解しはらないで下さい。
 私確かに今お付き合いしてる方いてますけど、あんまり気持ちのないお人なんです」
「え?」
 しっとりと濡れた睫毛を瞬かせて桜を見ると、彼女は何処か居心地の悪そうな顔で、それでも今度はちゃんと忠臣の目を見て口を開いている。
「こないなこと言うたら、えげつない女やと思わはるかもしれませんけど、今の彼氏からお付き合いして下さいって言われたんです。
 私あんまり断るんが上手やなくて、そのままズルズルになってもうて。
 その人、悪いお人やあらへんのですけど、いざお付き合いしたらその……、ちょっと束縛の激しいお人で、合わへん所もあって」
 そういう桜の目には、少しの後悔と諦めがある。
「なら……、俺にチャンスはありますか?」
 この諦めきれない気持ちを、情けない、みっともないと思いながら、ここで変に格好をつけたら終わりだと思った。
 いつも忠臣はあまり物事に拘らない。
 大体の事はがむしゃらにならなくても解決したし、人間関係が切れそうになっても、特に必死になって相手を繋ぎとめようとした事はない。
 忠臣が保有している家柄や財力、ルックス、成績。
 そういうものは集魚灯の様なもので、自分が望もうとそうでないとも、ワラワラと人が集まって恩恵に預かろうとする。
 そんな数多くの人間の中から忠臣が求めた友人というのはほんの一握りで、更にを言えば、彼が求めた女性は桜が初めてだ。
 一生懸命になった事がないと言ったら、周りに嫌な奴だと思われるのは分かっている。
 だが、今がその時だ。
 みっともなくても、縋ってでもこの女性を手に入れる時だ。
「貴女が……、欲しいんです……っ」
 また、涙が零れてしまう。
 
 まるで駄々っ子だ。
 手に入らない、駄目だと言われたから泣いていう事を聞かせようとするような。
 
 けれど、時にはなりふり構ってられない時だってある。
「格好悪いから」「本気じゃないから」では済まされない時だってある。
 後悔しない為に、足掻いて、足掻いて、醜態を晒してでも自分の本心を曝け出して、明確に自分の意思を伝える事が大切な時だってある。

 これから彼女と付き合っていったら、もしかしたら嫌な所が見付かるかもしれない。
 けれども、今の忠臣には桜が全てになっていた。
 味覚以外は何もかも手に入れている彼が、初めて欲しいと思った女性。
 彼女を手に入れられるのなら、何だってする。

 よほど忠臣が悲痛な顔をして泣いていたのか、桜が手を伸ばして彼の大きな手をそっと握って来た。
 優しい目が彼に『お願い』をする。
「そやし、もう少し待ってて下さい。ちゃんとお別れしてきます。それが終わったら、お付き合いしましょう?」
「……本当ですか?」
 甘露飴の様な茶色い目が涙に濡れて、桜の黒曜石の瞳の中に真実を見出そうとする。
 その視線を受け止めて桜が綺麗に笑った。
「ほんまです。嘘は言わしまへん。こんなに綺麗な涙を見せてくれはる忠臣さんに、嘘なんてついてもうたら、私ほんまに悪女になってまいます」
 最後の方は少し冗談めかして言って桜が立ち上がり、ティッシュを一枚手に取って忠臣の目元に優しく押し当てる。
「泣かんといて下さい」
 心の底をそっと打つ、優しい声。
「……俺と付き合ってくれる意思があるんですか?」
 それはまるで、出かける母親に「帰って来る?」と訊ねる子供のような、懇願する目。
「はい」
 けれども桜はふわりと優しく微笑み、涙を含んだ忠臣の目蓋に優しくキスをした。
「俺の恋人になってくれますか?」
 気の逸った忠臣の言葉に、桜は分別のある答えをする。
「今はまだ」
 しゅんとする犬の様な忠臣の髪を、桜が優しく撫でた。
 何度も、何度も、繰り返し。
「お約束は守ります。あ、連絡先を交換しましょう? いやや、私そんな基本的な事にも気付かへんかった」
 恥ずかしそうに言って桜がベッドルームに向かい、ピンク色のガラケーを手にして戻ってきた。
「私、まだスマホやないんです。そやし、メールアドレスと電話番号でええですか?」
「はい、十分です」
 そして二人は連絡先を交換し、気持ちをぶつけ涙を流して多少落ち着いた忠臣は、午前中のうちに桜のマンションを出た。

 マンションのエントランスの所で手を振っている桜を振り返り、忠臣はこれから先の事をまた妄想しながら既に暑くなりつつある道を歩き出す。
 桜の方にそんなに気持ちがないとはいえ、束縛癖のある彼氏に別れ話を切り出し、それを成功させるのは安易な事はではないと思う。
 忠臣がこれまで付き合って来た女性とは、袖振り合うも……、といった縁だったと思う。
 真剣に誰かを思って束縛するまでに好きになった事がないから、その相手から拒絶された事を思うと雲行きが怪しい。
 逆上した相手がストーカーなどにならなければいいが。
 そう心配しながら歩いていると、忠臣のスマホがジーパンのポケットの中で振動する。
 ポケットからスマホを出して確認してみれば、桜からのメールだった。
『今回は本当にどうも有り難う御座います。お帰りお気をつけて。 桜』
 それだけのメッセージなのに、ちょっとした彼女の気遣いが嬉しくて堪らない。
 口元を綻ばせてスマホをポケットに戻し、顔を上げてまた歩き出した彼の表情は明るかった。

 昨晩バスルームで悶々としてたのが馬鹿みたいに思えたし、桜と恋人の事については不安はあるが、何だか今は何もかもが上手くいく気がしていた。
 降り注ぐ蝉の鳴き声すらも、自分を祝福してくれている気がする。

 桜の香りはもうないが、同じシャンプーやボディソープを使った事を思い出して、忠臣はいつもとは違う自分の匂いを楽しみながら、家路に着いた。
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