泥に咲く花

臣桜

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第六章②

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 桜が望んでいるとしても、周囲の環境が望まないかもしれない。
 たった今が幸せでも、後で悔いる結果になるかもしれない。

 それでも――

 ふと、嫌悪して止まない父の言葉を思い出した。
「人間、やらないで後悔するよりは、やって後悔する方がずっと生産的だ」
 月並みな言葉かもしれない。
 だが、それは今まで時坂家を支えてきた当主の言葉で、ここまで会社を大きくした人間の言葉だ。
 責任ある立場にいて、何度も何度も決断を迫られる時があったのだろう。
 今こそは責任を負う立場にいるが、かつては液晶と睨めっこをして頭を働かせて、あくせく働いてきた人だ。
 それを遡れば今の立場の為に学生時代は猛勉強をしてきたのだろうし、その勉強というものにおいては、しておいて損という事はない。
 何事も経験で、失敗も次に生かす事が出来れば、後で役に立つ後悔の種類なのだろう。
「……『今』を択るべきなのか……」

 自分でも、もっと衝動的になればいいのかとも思う。
 だが忠臣は思慮深く軽はずみな行動はしない人間で、本能よりも理性で動く人間だ。

 だが、

 シャワーの音が彼の耳から脳を狂わせる。
 ちょっと移動して半透明のドアを開けてしまえば、素肌の彼女がいる。

 ああ、どうすればいいんだ。

 心はそうやって面倒臭い事を考えたり、理性と本能の狭を行ったりきたりしているのに、忠臣の体はもう既に情事の予感を感じていた。

 シャワーの音が止む。
 ドアが開いて洗面所の方に桜の気配がする。

 それだけでそれまで悶々と考え込んでいた忠臣の思考は、全てすっ飛んでいってしまった。
「忠臣さん、あの、どうぞ。入ってはる間にタオルと着替え出しておきます」
「はい」
 洗面所の方から頭にバスタオルを巻いた桜が出て来て、目線を泳がせながら会釈をして手で忠臣にバスルームを指し示す。

 華奢な肩が出たタンクトップにまず目がいき、そこからなだらかに女性らしい曲線が続いて、太腿の真ん中あたりからスラリと伸びた脚が見ていた。
 今まではふわりとしたチュニックに隠されていたのに、シンプルな格好になるとやたらに彼女が女性だという体型が分かって、忠臣の心臓が馬鹿の様に速まる。
「あの、そないに見んといて下さい……恥ずかしい。着替え、時々お兄ちゃんが泊まりに来るんです。それでええんならありますさかいに」
 小さな声でそう言って桜が忠臣の横を通りすぎ、半袖のシャツから出た腕に小さな水滴が飛んだ。
「あ、――あ、の。シャンプーとリンスはボトルに書いてある通り、ボディソープもあります。体を洗うタオルは出してありますさかいに」
「はい」
 温かな蒸気を帯びた肌からボディクリームの匂いがし、それを嗅いで彼女の女性らしさを感じつつも、そういうものをつけなくても彼女自身がとても香るのに、と思う。
 だが、それを言ってしまえば変態に思われるかもしれないし、一生懸命になっている彼女を傷つけてしまうかもしれない。
 緊張する体をぎこちなく動かして洗面所へ向かい、カーテンを引いて服を脱ぎ始めた。
 こういう流れには、今までも何度もなった事がある。
 いつもは気持ちと体が急いて、ワンナイトの時は後で後悔してしまった事もあった。
 付き合っていた女性とも、そんなに積極的に求めていなかった気がする。
 けれど今はまるで童貞の時のようで。
 胸の高鳴りと緊張で脚が震えそうで、それなのに下半身はやたらと反応してしまっている。
 バスルームに足を踏み入れてドアを閉め、自分で自分を気持ち悪いと思いながら深呼吸をした。
 彼女がさっきまでここにいて、体を洗って髪を洗って、あの長い睫毛に雫が滴って。
 濡れた髪は見せてくれなかったが、彼女のあのウェーブがかった髪は地毛なのだろうか? それともパーマをかけているのだろうか?
「あぁ」
 吐息が漏れて自分で自分に落胆し、シャワーのコックを捻って頭を突っ込んだ。

 何をやっている?
 こんな変態行為。
 こんな事をする男が彼女に相応しいのか?

 思考は飛んでもう付き合う事まで発展し、後ろめたい行動を彼女は許してくれるのだろうかと、妄想の恋人に質問する。
 視線は洗い場の床を見ては自分の肌に戻り、最大限の勇気を出して排水溝を見て、また自分の膝に視線が戻る。
「……何やってるんだ」
 大きな掌で自分の顔を叩き、出来るだけ頭を空っぽにして手早く体と髪を洗った。

 そのシャンプーとリンスで自分の髪が、彼女と同じ様に香るとか、
 そのボディソープで自分の体が、彼女と同じ様に香るなどは、必死になって頭から追い出した。
 頭の中でまた素数を数え、目は余計な物を見ないようにする。
「着替え、置いときますね」
「はい」
 思わず首を巡らせた先には、擦りガラスの向こうに桜の影がある。
 その影が動いてまた去ってしまうと、また忠臣は修行僧の様な状態になって出来るだけスピーディーに用事を済ませてしまう。
 使っていいものかと少し迷って洗顔フォームで顔を洗い、バスチェアから腰を浮かせて固まった。

 このバスチェア、さっきまで桜さんが直接座ってたんじゃないのか?

 それに気付いてしまった忠臣がガックリとその場に膝をつき、正座をして、脚を崩し、胡坐をかいた。
「……畜生」

 なんだこれ。
 まるで少女漫画みたいじゃないか。
 今までの自分と全然違って、自分自身が戸惑っている。
 彼女が側にいるのに、彼女の事を考えただけでドキドキして、変質者になって、夢物語のような妄想を勝手に広げて。
 彼女はまだ一言も自分と付き合うだなんて言っていないのに。
 これはワンナイトラブかもしれない。

 そうやって自分に諦めの道を提示して、いざ振られた時の自分の気持ちの逃げ道を用意すると、少しだけ気持ちが落ち着いた。

 そうだ、初対面でこうなった二人がそう簡単に上手くいく訳がない。
 自分は東京の人間で、彼女の根底には京都という街がある。
 京都の人間は土地柄が自慢で高慢な所があると聴いた。
 他の土地から京都に来た者を「よそさん」と言うぐらいには排他的で、それなのに表面はにこにこしている。
 彼女だって、本当なら自分の事をどう考えているのか分からない。
 通っている大学の事とか、家柄の事も多少話してしまったし、自分のルックスはそんなに悪くない方だと思っている。
 今までの女性のように、それらに惹かれただけかもしれないし、もしかしたらボランティア精神で、姪っ子のお礼に一夜を共に過ごそうと思っただけかもしれない。
 そうだ、そんなに何もかも上手くいく訳がない。
「よし」
 大分頭を冷静にさせ、それでも据え膳食わぬは男の恥だとも思う。
 この一夜の魔法にかかったのなら、お互いいい気分で夢をみられれば、それで気持ちよく明日の朝このマンションを出られる。
 バスチェアをシャワーで流して、スクイージーで洗い場の水気を取っておく。
 下半身の熱は先ほどよりも収まりつつある。
 バスルームから出ると、どこぞのブランドの物らしいふわふわのバスタオルが置いてあった。
 有り難くそれで体と髪を拭いて、脱衣籠には買ったままの袋に入った下着と、シンプルなTシャツとハーフパンツがある。
(お兄さんがいるんだ)
 それならば、こんな風に用意が出来てあるのも理解出来る。
 果たしてどんな兄なのかと想像して、自分が気に入られるかどうかを妄想しかけてそれを取っ払い、洗面所の鏡に映っている自分の顔を見て大きな溜息をついた。
「……」
 いつもの自分だ。
 詰まらない顔をしている。
 退屈だ、とかそういう顔じゃなくて、自分にとっては何ら魅力のない見飽きた顔。
 彼女のあの感情を大きく映す大きな目とは違う。
 目の前にあるザルに、大量に詰まれた豆を数える様な顔。
 造作はいいのかもしれない。
 大学の女子学生に俳優の誰それに似ていると言われて、「ふぅん」という気持ちと同時に、自分は自分一人しかいないのだから、認知度がその有名人の方が世間的に高いとしても、他人にそういう事をいうのは些か失礼ではないかとも思う。
 彼女はそういう失礼な事は言わない。
 彼女は目の前にいる、一個人だけを見る誠実な人だ。
 他の何かと比べる事をせず、目の前の存在がどれほど欠けたものだとしても、受け入れて、自分なりに両手で大切そうに包もうとする。
 
 そこまで考えて、暴走しそうになっている思考にブレーキをかけた。
 
 気持ちをクールダウンさせた筈なのに。
 童貞みたいに彼女を思って一喜一憂するのはやめようと思ったのに。
 
「……何なんだ、この気持ち」
 自分が嫌になる。

 期待する事はやめた筈だ。

 どれだけ願っても、『美味しい』は叶えられない。
 どれだけ願っても、父は血を美味いと言う化け物だ。
 そして自分にはその血が流れている。
 『あの日』、『あれ』を飲んでしまった罪悪感。
 あの時に自分はもう一生綺麗な人間にはなれないと、子供心に覚悟をした筈だ。
 どろりとした『あれ』を飲んだ事を散々後悔した後に、『あれ』は罪を飲んだのだと思う様にした。
 罪は消化されない。
 他人が許しても自分の中に一生残り続けて、一時的に忘れていても、思い出す度に心の底から毒を送り込んでくる。

 あの時ああしなければ、
 あの時ああしておけば、

 そんな風に後悔で真っ黒に塗りつぶされた心の中で、自分は後ろを振り向いて遥か遠くに見える分岐点を物欲しげに見るだけだ。

 あの時はああしておけばベストだった。
 あの時もっと冷静になるべきだった。
 もっと事前に調べておくべきだった。
 もっと期待に沿える様にしておくべきだった。

 そういう後悔が、失敗を気にする日本人というものを形成している様な気がしてならない。
「……忠臣さん?」
 向こうから桜の声がする。
 それにハッとして忠臣が我に返り、裸足の足を動かした。

 心にあるのは自分でもよく分からない、絵の具のセットのチューブを全部ぶちまけてしまった様な感情。
 赤や黄、オレンジなどの恋心が勝つのか。
 緑、青などの冷静な気持ちが勝つのか。
 茶色、グレー、黒などが勝って何もかもグチャグチャなままに、彼女を抱いてしまうのか。
 白が勝つという事はない。
 すぐに染められてしまうし、複雑な感情を持つ人間だからこそ、いつまでも純粋ではいられない。

 リビングのテーブルの上にはドライヤーが置いてあって、彼女が髪を乾かしたのが分かった。
「お茶、どうぞ」
 桜がコップに冷たいお茶を入れてくれ、有り難くそれを喉に通す。
 テレビはついていない。

 チッ、チッ、チッ、チッ、……
 
 また壁時計の音だけがやけに大きく響き、その中に忠臣がゴクッ、ゴクッと喉を鳴らす音が聞こえる。
 桜は黙ってもじもじしていて、隣に座っているのにその緊張がビシビシと伝わって来る気がする。
 俺が男としてしっかりしないと。
 そう思って自分を奮い立たせ、空になったコップをテーブルに戻して、そっと忠臣が桜の手を握った。
 ピクッ、と華奢な手が震える。
「……本当に、いいんですか?」
 前を向いたまま忠臣が尋ねた。
 その声が桜の耳に心地良く滑り込み、彼女は敬虔な信者の様に「はい」と頷く。
 重なった手が絡み合って恋人繋ぎになり、二人は緊張と不安、期待と喜びで無言になりながらベッドルームへ向かう。
 その直前まで忠臣の心は相変わらず絵の具の混ざった状態だったが、桜がちょこんとベッドの上に正座をして、「どうぞよろしゅう」と恥ずかしそうに頭を下げた時点で、年頃の男性らしく理性が吹っ飛んでしまった。

 歯磨きをしてミントの香りがする唇が、何故か甘く感じる気がした。
 その素肌はすべすべとしていて。
 布の下から出た下着は、ヨーロッパの貴族が好んだ様な繊細な砂糖細工のようで。
 そして、彼女の秘密を暴いた。

 明かりを落とした室内で湿った吐息と、ベッドが軋む音。
 透明な真珠の様な彼女の涙を唇で吸い取って、熱に浮かされた頭の中でそれは一体何の涙なのだろうかと思う。
 だがそれも気が遠くなる様な愛しさと、このまま死んでもいいという快楽の中に溺れていった。
 律動と共に甘美な声が耳を打ち、細胞が生まれ変わる様な感動を覚えながら、快楽が脳に刻まれてゆく。
 全身が総毛だって、知らずと忠臣の目からも涙が零れていた。
 愛しい。
 人を愛しいと思う事が、こんなに素晴らしい事だなんて。
 二人で涙を流し、蓮華の花が咲く幻想をみた。 
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