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俺と一緒に新しい生活を歩めるか?

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 残酷に傷つけられた心の傷からは、いまだドクドクと血が流れている。

 非常階段にいても彼女たちの嘲笑が耳の奥にこびりついているようで、今もなんと言われているか気になって仕方がなかった。

 秀弥さんは私の両肩を掴み、顔を覗き込んでくる。

「さっきはワンテンポ遅れて済まなかった。あんな騒ぎにされたら、誰だってトラウマになるよな」

 理解を示してくれ、私はまた泣きそうになってしまう。

「でも会社を辞めて距離をとり、時間が経てば少しずつ心の傷も癒えていく。大事なのは関わらない事だ。……俺が夕貴を庇って言い返しても、法的な措置をとっても、性根の腐った奴の心は変えられないんだよ。そういう奴は訴えられても『どうして自分がこんな目に遭わないといけない』としか思わないし、『誤解なんです。弟とは血は繋がっていないし、本当に想い合っているんです』って説明しても絶対に謝らない。理解を示さないしさらに馬鹿にしてくる」

 私は溜め息をつき、乱れた髪を耳に掛ける。

「掲示板も絶対に見るなよ? 見たら負けだ。ああいう場所は人間のクズしか集まっていないと思え。中には有益な情報を書いている所もあるかもしれないが、誰かを悪く言うための場所はただの便所のクソだし、わざわざ汚物を見に行って傷付くなんて愚の骨頂だ。誰かに見られて話が広まるのが怖いなら、俺が証拠を集めて弁護士に相談する」

 想像するだけでも怖くて堪らなく、私はギュッと秀弥さんに抱きつく。

「……社内で普通にすれ違っていた人が、あんなに攻撃的になると思わなかった。掲示板を見ている人なんて、ごく一部の暇な人だけだと思っていたのに」

 彼は私を抱き締め、トントンと背中を叩く。

「同じ所に所属してるからって周りの人全員が善人じゃないんだよ。近い場所にいても、そいつらがどういう家族構成で何を趣味にしていて、どんな心の傷を持っているか分からない。親や兄弟、親友と思ってる人だって、すべてを語ってくれる訳じゃないし、エスパーじゃないから何を考えているか、裏で何をしているか知るなんて不可能だ」

「……そうだね」

 私はグスッと洟を啜り、頷く。

「底意地の悪い奴って、『私は善人です』っていう顔をしてその辺に紛れてるんだよ。そいつらはストレスの発散方法が分からず、何でも他責思考になり、自分の正義を他人に押しつけ、その通りにできない人を攻撃する。そういう奴らはいざという時に本性を表す。逆に自分で自分の機嫌をとれて精神的に安定してる人は他人を攻撃しない。さっきだって便所でイキる中学生みたいな奴らを見て、ドン引きしてた人は多いと思う。ああいう奴らが〝普通〟と思うな。普通の人はもっと思いやりがある」

 秀弥さんの冷静な言葉で、ゆっくりと恐怖が言語化されていく。

「急に周りから悪し様に言われて怖いだろうし、ショックを受けただろう。でもこれで付き合っていく人を見極めるんだ。この状況になっても付き合いを続けてくれる人は一生付き合っていく価値のある人だし、切り捨てていい奴も大体分かっただろ?」

 尋ねられ、私はコクンと頷く。

「会社を辞めて悠々自適な生活をしていても、自分に誇りを持つ人なら縋ってこない。逆に夕貴を悪く言っていたのに、余裕のある生活をしてそうだと分かった途端近づいてくる奴は、全員切り捨てろ」

「うん」

 少しずつ、恐怖で萎縮していた心に、しっかりとした芯が宿っていく。

「……俺と一緒に新しい生活を歩めるか?」

 そう言われて、秀弥さんとならどこででも生きていけると思えた。

「はい。……会社、辞めます」

 決意した私を見て、秀弥さんは「ん」と微笑んで頭を撫でてきた。

「ごめんな。もっとお前の意志を聞けば違う道もあったかもしれない。でも、これ以上傷付く夕貴を見たくない。……これは俺の我が儘だ」

「……ううん。秀弥さんは私の事を一番に考えてくれてるって分かるから」

 そう言うと、彼はどこか悲しそうな顔で笑った。

 それから秀弥さんは表情を引き締め、これからの事について言う。

「この件について俺から課長と部長に伝えておく。辞めると言ってもこの騒ぎのあとなら何も言われないだろう。退職届を出したあとは、有給をフルに使ってなるべく出社する日数を減らしとけ」

「はい。……でも、引き継ぎとか……」

 そこで秀弥さんはニヤリと笑う。

「俺がプロポーズした辺りから、産休の事も考えて引き継ぎ資料を作り始めてるって言っただろ。お前の作る資料は細やかで定評がある。……プレゼンも痒いところに手が届いてなかなかだしな。……が、それを話半分に聞いて『どうせ誰かがやってくれるだろ』って思ってるキリギリスがいる。お前はいつも通りに仕事をして、普通に引き継ぎをしておけ。辞めたあとにキリギリスを働かせるのは俺の仕事だ」

 秀弥さんの凄みのある笑みを見て、私はいつも仕事を押しつけてくる彼女たちが、どんな目に遭うかを想像して溜め息をついた。

「今日は早退していい。一緒に帰ってやれなくて悪いけど、家でゆっくりしてくれ。あ、ハイヤー呼んで帰れよ? 高瀬対策で交通機関はなるべく使わないでほしい」

「分かった」

「フロアに戻るのは怖いと思う。でもあと少しだ。俺もついてる」

「うん。ありがとう」

 気合いを入れた私は、ゆっくり立ちあがった。
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