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三月 編

内示

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「大きい声を上げますよ」

 私は表情を変えずに言い、スッと息を吸う。

 六条さんが軽く瞠目して一歩引いた瞬間、私は普通の話し声より少し声を張ったぐらいの声量で言った。

「そーれ、どっこいしょー、どっこいしょー」

「なにそれ!」

 彼はプハッと噴きだしたかと思うと、手を打ち鳴らして笑う。

「相変わらず上村さんは面白いね」

「特に面白くないです。早く打ち合わせしますよ」

 私は溜め息をつき、クリアファイルに入った資料をポンと彼の胸元に押しつける。

「上村さん、うちの六条がすみません」

 ペコリと頭を下げたのは同じく営業部の沙根崎さねざき星良せいらちゃんだ。

 ピチピチの二十三歳だけど、営業成績は割といいらしく、エースの六条さんから期待されている。

 今は六条さんからノウハウを学びつつコンビを組んでいるらしく、打ち合わせする時は二人セットがいつもの事になっている。

「いいえ、六条さんがご機嫌なのはいつもの事だから」

 そう言うと、六条さんは「むふふ……っ」と笑いを漏らす。

「上村さんは言葉のチョイスがいいよね。ご機嫌って……」

 彼は笑ったあと、「さて、打ち合わせしますか!」と歩き始めた。

 六条さんとは割と付き合いが長く、壁ドンされるのに不快にならない理由があった。

 まだ尊さんと付き合う前から六条さんとはちょくちょく話していて、雑談の中でドラマの話になり、『壁ドンってされた事ないんですよね』と言ったらする流れになった。

 以降、彼だけはそういう事をされても嫌じゃない人になり、たまに二人でこうしてふざける事がある。

 彼は「冗談ですよ」という表情をしているけれど、私はいつも無の顔で塩対応なので、見る人が見たらびっくりするらしいけど。

 営業ってコミュニケーション能力がものを言う仕事で、六条さんは篠宮フーズの商品を売り込むために、自社の商品をめちゃくちゃ分析している。

 その上で取引先相手の事もじっくり調べて、相手が喜ぶ事を会話に盛り込む。

 イケメンのやり手って同性からは煙たがれる事もあるけれど、六条さんはそこをちゃんと理解しているのか、決して鼻についた言動をしない。

 今みたいなおふざけをしても、六条さんはそれ以上馴れ馴れしい行動をしないし、時沢係長のようにしつこくチョコをねだってこない。

 モテる男は求めなくても、相手からやってくると分かっているらしい。

 打ち合わせ室に入って椅子に腰かけると、六条さんはパンッと手を打って資料を捲り始めた。

「よーし、楽しい打ち合わせをしようか!」

 こういうふうに仕事に対して前向きに楽しんでいるところは、とても評価している。





 いっぽうで、とうとう私に秘書課、副社長秘書の内示がきた。

「……謹んでお受けいたします」

 人事部長に呼び出された私は、会議室でペコリと頭を下げる。

「君は副社長や速水部長と懇意にしているとの事だから、今回の流れをよく理解していると思うけれど……。頑張って」

 五十代の人事部長は、すべてを知った上で、少し同情混じりの目を向けてくる。

「起こりうる事は大体予想しています。一筋縄ではいかないと思いますが、支えるべき人と会社のためにも、頑張っていきたいと思っています」

「何かあったら、すぐに相談しなさい」

「はい」

「人事異動が確定して発表するまでは、内密にするように」

「承知いたしました」

 意志確認メインなので他は特にこれといった話はせず、私は挨拶をしてから会議室を出た。



**



「お疲れさん」

 三月半ば、私たちはダイニングテーブルに向かい合って座り、ビールで乾杯する。

 今日はお刺身の日で、テーブルの中央にはあしらいを使って盛り付けられたお刺身が、綺麗に並んでいる。

 副菜はナスの煮浸しで、キュウリとしらすの酢の物もある。お味噌汁は絹ごし豆腐とあおさで、私はニコニコしてお箸を手にする。

「なんだかんだで、決意してくれてありがとう」

 尊さんに微笑まれ、私はピシッと背筋を伸ばす。
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