65 / 73
馴れ初め編/最終章 その瞳に映るモノ、その唇で紡ぐモノ
65.それは小さなミステリー
しおりを挟む
やけに騒々しく、色んな意味で密な温泉旅行が終わった。
翌日からまたいつもと変わらぬ日常へ身を投じるあまり、あの三日間はただの夢なのではと、時折考えてしまう。
しかし、同じ部署で働く同僚達に買ってきたお土産を渡し、各々の笑顔を前にすれば、すべてが現実と理解する自分がいた。
「…………」
仕事を終え帰宅した夜。早々に食事や入浴を済ませ、ぼんやりとテレビを眺めるが、その内容はあまり頭に入って来ない。
傍にあったクッションを引き寄せ、胸の前で抱えるように抱きしめる。
そのまま体の力を抜いて横たわれば、視界に映る景色が一瞬で変わった。
テレビに流れる映像から、ハードディスクのデッキが収納された棚へ。忙しなく移り変わるものから、静止したものへ。
しばらく、ぼんやりと視線の先にあるものを見つめれば、自然に聞こえてくる音声が耳障りに思えた。
「……っと」
千優は横たわったままテーブルの上へ片手を伸ばしある物を探す。
しばらくして、頭の中に思い描いていたものらしき形に触れれば、そのまま触れた物を掴み、眼前へ引き下ろした。
彼女の瞳がとらえたのは、自らの意思で手にしたテレビのリモコン。
迷うことなく電源ボタンを押すと、連動するようにテレビ画面から映像と音声が消えた。
耳障りな音が無くなり、彼女はホッと息を吐く。そのまま手から力を抜くと、リモコンはコロリと床の上に転がり落ちた。
無意識にその動きを追いかけながら、千優は思い出す。あの日起きた小さな騒動を。
二泊三日の旅行最終日。
旅館を出発し、高速道路に向かって走る車内は、何とも言えぬ緊張感に包まれていた。
事情を知らない者が見れば、特に何の変哲もないと思うだろうが、当人達は違う。
初日は賑やかだった空間が、驚くほど静まり返っているのが何よりの証拠だった。
「…………」
千優は、誰にも気づかれぬよう小さなため息を吐き、窓の外に流れる景色へ目を向ける。
昨夜の一件からすっかりザラついてしまった心は、未だ完治していない。
溜め込んでいた諸々を酒と感情に任せ吐き出したことは、うろ覚えながら記憶している。
篠原にひどい態度をとり、後藤や茅乃に心配をかけてしまったこと。旅館の仲居達にも迷惑をかけたこと。
そして――國枝への恋愛感情を自覚したこと。
すべて覚えているからこそ、朝になって目覚め、次第に脳が覚醒を始めるのと共に、ずっと気分が落ち着かず、どんよりと身体が重い。
普段のキビキビとした行動力まで無くなり、茅乃に促されるままに動き、時々手伝ってもらったりと、いつもの千優からは考えられない状態だった。
初日とは真逆な二人の関係が、少しだけおかしく思えたのは、きっと友人のおかげだろう。
なんとか食事と出発の準備を済ませた後、茅乃に手を引かれるまま向かった車の前では、後藤が一人たたずんでいた。
『あの……二人、は?』
『もうすぐ来るさ。ほら、早く乗れ』
そう言って彼は、顎を後部座席を示し、千優に乗車を促す。
どうして後藤が一人だけ先に。そんな疑問を抱くが、自分を囲むように立つ、恋人達の穏やかな笑みを前にすれば、容易に答えは導き出された。
きっとこれも、二人で考えたことなのだろう。とことん気遣い屋な彼女達の姿に、千優の口元に苦笑いが浮かぶ。
『あぁ! 完全に忘れてた。千優お願い、写真撮らせて!』
『え? えぇ?』
『お願い、一枚だけでいいから。國枝さんからの初プレコート姿の千優を撮らせてー!』
ここは彼らの言葉に甘えるべきかと、荷物を車に乗せようとトランク側へ向かおうとした時、不意に聞こえる茅乃の叫びが、千優の足を止めさせた。
慌ててふり返れば、両手を合わせ、まるで拝むように頭を下げる友人の姿が目につく。
彼女の口から飛び出す発言に驚くあまり、千優は首だけを後方に向けた態勢のまま体を凍り付かせた。
『こんな時にどうでもいい事頼むな、アホッ!』
『ギャッ! 叩かなくてもいいじゃんか。だって初プレだよ? 後でねってなかなか着てくれなかった千優が、初旅行に着てくれたんだよ? 激レアじゃん、SSR待ったなしだよ。これを写真におさめず、いつおさめると言うの』
後藤への説明よりも早く、茅乃は被写体である千優の許可なく、スマートフォンのカメラで写真を撮りだす。
許可を出す出さないの問題以前に、驚愕と羞恥のあまり、茹蛸のごとく顔を真っ赤に火照らせ固まった千優に、返答するなど不可能だった。
すっかり固まってしまった千優と、彼女を嬉々として撮影する茅乃。
そんな女達へ呆れた眼差しを向ける後藤が、ようやく止めに入ったのは、すでに茅乃のスマートフォン内に、何十枚もの新規写真が保存された後だった。
その後、後藤に頬を軽く叩かれ、茅乃に反対側の頬をつねられ正気を取り戻した千優は、二人に急かされる形で車のトランクに荷物を詰め込み、来た時と同じ後部座席に腰を落ち着けた。
隣に茅乃が座ったのを確認した千優は、すぐに写真を撮っていないか、撮っていたとしたら消去して欲しいと詰め寄ったが、「大丈夫、大丈夫」とにこやかな笑みを浮かべられ、終始のらりくらりとかわされるのみ。
それから数分後、男達も次々と車に乗り込み、一行は旅館を出発する。
移動中聞こえてくるのは、道案内をする機械音声と、國枝、後藤の話し声くらい。
行きは元気にはしゃいでいた篠原は、こちらが驚くほど静かで、逆に気味悪さを感じる程だった。
皆、それぞれ思うことがあるのかもしれない。
その原因は自分だと理解しているからこそ、余計気が重くなる。
視線を窓の外から自身の膝の上に置かれた両手へ移し、千優は何度目かわからないため息を吐いた。
「……ふふっ」
しばらくして、隣から聞こえる小さな笑い声に導かれ、俯いたままだった顔をあげる。
すると、ブックカバーのかかった本を手に、どこか嬉しそうに笑う友人の姿が目についた。
彼女は出発直後からほぼ変わらぬ体勢で、ずっとその本を読み続けている。己の世界へ没頭する姿は、尊敬しそうになる程、いつも通りだ。
この場にいるほとんどの人間が、どこかしら普段と違う様子を見せているというのに、茅乃だけは我が道を突き進んでいる。
「よく、車の中で読めるね」
千優は、車の中で本を読むという行為が苦手だ。いくら静かに走っている車の中とは言え、走行中に身体へ伝わる振動のせいで気分が悪くなる。
真横で行われている事をしろと言われても、自分は断る以外の選択肢を持っていない。
それを平気な顔で十分以上続ける様子を目の当たりし、驚くなと言う方が無理だ。
「……ふっ、全然余裕」
俯いたままだった顔を上げ、ずれた眼鏡の位置を調整しながら、彼女は口角を上げニンマリと笑みを浮かべる。
キランと眼鏡のレンズが光を放つような錯覚に、思わずゴシゴシと目を擦ってしまう。
そうしている間に、茅乃はまた本の世界へ嬉々としながら旅立った。
傍目からはわかりにくいが、その表情はいつも以上に楽しそうだ。
今彼女が夢中になっているのは、漫画か、はたまた小説か。
一体どんな物を読んでいるのかと、内容が気になった千優は、少しだけ距離を詰め興味本位のまま友人の手元を覗き見る。
「……っ」
しかし、その視線はものの数秒で元に戻り、次の瞬間、彼女の頬はカッと頬が熱くなった。
(び、吃驚……した)
茅乃が夢中になって読んでいるのは、どうやら漫画らしい。しかもその内容は、腐女子な彼女が大好きなモノ。
ただの会話シーンくらいなら、千優とて、ここまで驚きはしない。
以前、何度か強制的に読ませられたことがあるので、彼女も多少耐性はついている。
しかし今目にしたのは、そんな彼女でさえ驚く濃密すぎるシーンだった。
ひどい後悔に襲われながら再び視線を横に向けると、友人は未だ本の世界に留まっている。
平然とした顔で破廉恥なシーンを読み進める技術は、流石としか言いようがなかった。
読書の邪魔をするわけにもいかず、かといって他の誰かに声をかける気にもなれない。
千優は再び去り行く窓からの景色を眺め、ぼんやりと時が過ぎるのを待つ。
『……発売日に買って堪能したかった』
そんな時、不意に思い出したのは、二日前に聞いた茅乃の言葉。
ひどく落ち込んでいた友人を思い出しながら、もう一度隣に座る影へ視線を向ける。
すると、いまだに彼女は、黙々とBL漫画を読んでいる最中だった。
この旅行中、茅乃のオタク的行動を目にするのは、今回が初めて。
その視線はあまりにも真剣で、数ページ読み進めたと思えば、数ページ分戻り、またじっくりと読み返している。
(……?)
そんな友人の行動は、千優の脳内に小さな疑問を生みだした。
てっきり、いつものように手持ちの本を持ってきているだけと思った。
だが、すでに熟読しているだろう漫画を、あそこまで必死に読むかと、疑問は消えず脳裏に蔓延る。
「茅乃」
「んー?」
気にしなければ特に何も思わないような問題だが、千優はつい口を開き言葉を紡いでしまった。
車内は相変わらずで、少々暇を持て余していたせいかおしれない。
彼女が声をかけると、茅乃は視線は手元に落としたまま、声だけを返してくれる。
集中している時に悪いと思っていたが、その様子から、会話はそれなりに可能と悟った。
「同じ漫画を、そこまで真剣に何度も読み返せるのって……すごいね」
己の中にあらわれた小さな疑問をどうぶつけるべきか。
散々悩んだ挙句、口から零れたのは、純粋な称賛めいた言葉だった。
「いいやー? 違うよ」
「……ん?」
何度も読み返してしまうくらい、登場キャラクター、もしくはストーリーがすばらしいと熱弁される。
そんな予測を立てていた千優の耳に、答えらしき返答が届く。
しかし、聞こえてきたそれは、彼女の予想を裏切るものだった。
「それ……読んだこと無いやつ、なの?」
「そうだよ。ほら、一昨日私が言ってたやつなんだ。ようやく……ようやく読めた!」
(……んん?)
千優が発した声は、隠しきれない戸惑いが滲むせいか、壊れたロボットのようにぎこちない。
しかし、そんな様子など気に留めることなく、茅乃は弾んだ声を出し、ずっと伏せていた顔をあげた。
そのまま彼女は、キラキラ輝く眼差しをこちらへ向けてくる。
その言動を目の当たりにした瞬間、千優の中にあった疑問は勢いよく膨らんでいく。
どうやら今彼女が手にしているモノは、発売日に買えなかったと、サービスエリアで騒いでいた例の漫画らしい。
旅行初日に手元に無いと騒いでいた漫画を、最終日に読み耽る友人。
それは、違和感しかない図式へ変化していく。
この旅行中、千優に茅乃と別行動を取った記憶は無い。
離れていたと言っても、思い出す限り、土産物を見て回っていた時くらいだ。
もちろん、本屋に立ち寄るなんてこともしていない。ならば何故、あるはずの無い漫画の新刊が、今友人の手元にあるのだろう。
それはまるで、小さなミステリー。さながら探偵にでもなった気分で、千優は一人頭を悩ませていた。
翌日からまたいつもと変わらぬ日常へ身を投じるあまり、あの三日間はただの夢なのではと、時折考えてしまう。
しかし、同じ部署で働く同僚達に買ってきたお土産を渡し、各々の笑顔を前にすれば、すべてが現実と理解する自分がいた。
「…………」
仕事を終え帰宅した夜。早々に食事や入浴を済ませ、ぼんやりとテレビを眺めるが、その内容はあまり頭に入って来ない。
傍にあったクッションを引き寄せ、胸の前で抱えるように抱きしめる。
そのまま体の力を抜いて横たわれば、視界に映る景色が一瞬で変わった。
テレビに流れる映像から、ハードディスクのデッキが収納された棚へ。忙しなく移り変わるものから、静止したものへ。
しばらく、ぼんやりと視線の先にあるものを見つめれば、自然に聞こえてくる音声が耳障りに思えた。
「……っと」
千優は横たわったままテーブルの上へ片手を伸ばしある物を探す。
しばらくして、頭の中に思い描いていたものらしき形に触れれば、そのまま触れた物を掴み、眼前へ引き下ろした。
彼女の瞳がとらえたのは、自らの意思で手にしたテレビのリモコン。
迷うことなく電源ボタンを押すと、連動するようにテレビ画面から映像と音声が消えた。
耳障りな音が無くなり、彼女はホッと息を吐く。そのまま手から力を抜くと、リモコンはコロリと床の上に転がり落ちた。
無意識にその動きを追いかけながら、千優は思い出す。あの日起きた小さな騒動を。
二泊三日の旅行最終日。
旅館を出発し、高速道路に向かって走る車内は、何とも言えぬ緊張感に包まれていた。
事情を知らない者が見れば、特に何の変哲もないと思うだろうが、当人達は違う。
初日は賑やかだった空間が、驚くほど静まり返っているのが何よりの証拠だった。
「…………」
千優は、誰にも気づかれぬよう小さなため息を吐き、窓の外に流れる景色へ目を向ける。
昨夜の一件からすっかりザラついてしまった心は、未だ完治していない。
溜め込んでいた諸々を酒と感情に任せ吐き出したことは、うろ覚えながら記憶している。
篠原にひどい態度をとり、後藤や茅乃に心配をかけてしまったこと。旅館の仲居達にも迷惑をかけたこと。
そして――國枝への恋愛感情を自覚したこと。
すべて覚えているからこそ、朝になって目覚め、次第に脳が覚醒を始めるのと共に、ずっと気分が落ち着かず、どんよりと身体が重い。
普段のキビキビとした行動力まで無くなり、茅乃に促されるままに動き、時々手伝ってもらったりと、いつもの千優からは考えられない状態だった。
初日とは真逆な二人の関係が、少しだけおかしく思えたのは、きっと友人のおかげだろう。
なんとか食事と出発の準備を済ませた後、茅乃に手を引かれるまま向かった車の前では、後藤が一人たたずんでいた。
『あの……二人、は?』
『もうすぐ来るさ。ほら、早く乗れ』
そう言って彼は、顎を後部座席を示し、千優に乗車を促す。
どうして後藤が一人だけ先に。そんな疑問を抱くが、自分を囲むように立つ、恋人達の穏やかな笑みを前にすれば、容易に答えは導き出された。
きっとこれも、二人で考えたことなのだろう。とことん気遣い屋な彼女達の姿に、千優の口元に苦笑いが浮かぶ。
『あぁ! 完全に忘れてた。千優お願い、写真撮らせて!』
『え? えぇ?』
『お願い、一枚だけでいいから。國枝さんからの初プレコート姿の千優を撮らせてー!』
ここは彼らの言葉に甘えるべきかと、荷物を車に乗せようとトランク側へ向かおうとした時、不意に聞こえる茅乃の叫びが、千優の足を止めさせた。
慌ててふり返れば、両手を合わせ、まるで拝むように頭を下げる友人の姿が目につく。
彼女の口から飛び出す発言に驚くあまり、千優は首だけを後方に向けた態勢のまま体を凍り付かせた。
『こんな時にどうでもいい事頼むな、アホッ!』
『ギャッ! 叩かなくてもいいじゃんか。だって初プレだよ? 後でねってなかなか着てくれなかった千優が、初旅行に着てくれたんだよ? 激レアじゃん、SSR待ったなしだよ。これを写真におさめず、いつおさめると言うの』
後藤への説明よりも早く、茅乃は被写体である千優の許可なく、スマートフォンのカメラで写真を撮りだす。
許可を出す出さないの問題以前に、驚愕と羞恥のあまり、茹蛸のごとく顔を真っ赤に火照らせ固まった千優に、返答するなど不可能だった。
すっかり固まってしまった千優と、彼女を嬉々として撮影する茅乃。
そんな女達へ呆れた眼差しを向ける後藤が、ようやく止めに入ったのは、すでに茅乃のスマートフォン内に、何十枚もの新規写真が保存された後だった。
その後、後藤に頬を軽く叩かれ、茅乃に反対側の頬をつねられ正気を取り戻した千優は、二人に急かされる形で車のトランクに荷物を詰め込み、来た時と同じ後部座席に腰を落ち着けた。
隣に茅乃が座ったのを確認した千優は、すぐに写真を撮っていないか、撮っていたとしたら消去して欲しいと詰め寄ったが、「大丈夫、大丈夫」とにこやかな笑みを浮かべられ、終始のらりくらりとかわされるのみ。
それから数分後、男達も次々と車に乗り込み、一行は旅館を出発する。
移動中聞こえてくるのは、道案内をする機械音声と、國枝、後藤の話し声くらい。
行きは元気にはしゃいでいた篠原は、こちらが驚くほど静かで、逆に気味悪さを感じる程だった。
皆、それぞれ思うことがあるのかもしれない。
その原因は自分だと理解しているからこそ、余計気が重くなる。
視線を窓の外から自身の膝の上に置かれた両手へ移し、千優は何度目かわからないため息を吐いた。
「……ふふっ」
しばらくして、隣から聞こえる小さな笑い声に導かれ、俯いたままだった顔をあげる。
すると、ブックカバーのかかった本を手に、どこか嬉しそうに笑う友人の姿が目についた。
彼女は出発直後からほぼ変わらぬ体勢で、ずっとその本を読み続けている。己の世界へ没頭する姿は、尊敬しそうになる程、いつも通りだ。
この場にいるほとんどの人間が、どこかしら普段と違う様子を見せているというのに、茅乃だけは我が道を突き進んでいる。
「よく、車の中で読めるね」
千優は、車の中で本を読むという行為が苦手だ。いくら静かに走っている車の中とは言え、走行中に身体へ伝わる振動のせいで気分が悪くなる。
真横で行われている事をしろと言われても、自分は断る以外の選択肢を持っていない。
それを平気な顔で十分以上続ける様子を目の当たりし、驚くなと言う方が無理だ。
「……ふっ、全然余裕」
俯いたままだった顔を上げ、ずれた眼鏡の位置を調整しながら、彼女は口角を上げニンマリと笑みを浮かべる。
キランと眼鏡のレンズが光を放つような錯覚に、思わずゴシゴシと目を擦ってしまう。
そうしている間に、茅乃はまた本の世界へ嬉々としながら旅立った。
傍目からはわかりにくいが、その表情はいつも以上に楽しそうだ。
今彼女が夢中になっているのは、漫画か、はたまた小説か。
一体どんな物を読んでいるのかと、内容が気になった千優は、少しだけ距離を詰め興味本位のまま友人の手元を覗き見る。
「……っ」
しかし、その視線はものの数秒で元に戻り、次の瞬間、彼女の頬はカッと頬が熱くなった。
(び、吃驚……した)
茅乃が夢中になって読んでいるのは、どうやら漫画らしい。しかもその内容は、腐女子な彼女が大好きなモノ。
ただの会話シーンくらいなら、千優とて、ここまで驚きはしない。
以前、何度か強制的に読ませられたことがあるので、彼女も多少耐性はついている。
しかし今目にしたのは、そんな彼女でさえ驚く濃密すぎるシーンだった。
ひどい後悔に襲われながら再び視線を横に向けると、友人は未だ本の世界に留まっている。
平然とした顔で破廉恥なシーンを読み進める技術は、流石としか言いようがなかった。
読書の邪魔をするわけにもいかず、かといって他の誰かに声をかける気にもなれない。
千優は再び去り行く窓からの景色を眺め、ぼんやりと時が過ぎるのを待つ。
『……発売日に買って堪能したかった』
そんな時、不意に思い出したのは、二日前に聞いた茅乃の言葉。
ひどく落ち込んでいた友人を思い出しながら、もう一度隣に座る影へ視線を向ける。
すると、いまだに彼女は、黙々とBL漫画を読んでいる最中だった。
この旅行中、茅乃のオタク的行動を目にするのは、今回が初めて。
その視線はあまりにも真剣で、数ページ読み進めたと思えば、数ページ分戻り、またじっくりと読み返している。
(……?)
そんな友人の行動は、千優の脳内に小さな疑問を生みだした。
てっきり、いつものように手持ちの本を持ってきているだけと思った。
だが、すでに熟読しているだろう漫画を、あそこまで必死に読むかと、疑問は消えず脳裏に蔓延る。
「茅乃」
「んー?」
気にしなければ特に何も思わないような問題だが、千優はつい口を開き言葉を紡いでしまった。
車内は相変わらずで、少々暇を持て余していたせいかおしれない。
彼女が声をかけると、茅乃は視線は手元に落としたまま、声だけを返してくれる。
集中している時に悪いと思っていたが、その様子から、会話はそれなりに可能と悟った。
「同じ漫画を、そこまで真剣に何度も読み返せるのって……すごいね」
己の中にあらわれた小さな疑問をどうぶつけるべきか。
散々悩んだ挙句、口から零れたのは、純粋な称賛めいた言葉だった。
「いいやー? 違うよ」
「……ん?」
何度も読み返してしまうくらい、登場キャラクター、もしくはストーリーがすばらしいと熱弁される。
そんな予測を立てていた千優の耳に、答えらしき返答が届く。
しかし、聞こえてきたそれは、彼女の予想を裏切るものだった。
「それ……読んだこと無いやつ、なの?」
「そうだよ。ほら、一昨日私が言ってたやつなんだ。ようやく……ようやく読めた!」
(……んん?)
千優が発した声は、隠しきれない戸惑いが滲むせいか、壊れたロボットのようにぎこちない。
しかし、そんな様子など気に留めることなく、茅乃は弾んだ声を出し、ずっと伏せていた顔をあげた。
そのまま彼女は、キラキラ輝く眼差しをこちらへ向けてくる。
その言動を目の当たりにした瞬間、千優の中にあった疑問は勢いよく膨らんでいく。
どうやら今彼女が手にしているモノは、発売日に買えなかったと、サービスエリアで騒いでいた例の漫画らしい。
旅行初日に手元に無いと騒いでいた漫画を、最終日に読み耽る友人。
それは、違和感しかない図式へ変化していく。
この旅行中、千優に茅乃と別行動を取った記憶は無い。
離れていたと言っても、思い出す限り、土産物を見て回っていた時くらいだ。
もちろん、本屋に立ち寄るなんてこともしていない。ならば何故、あるはずの無い漫画の新刊が、今友人の手元にあるのだろう。
それはまるで、小さなミステリー。さながら探偵にでもなった気分で、千優は一人頭を悩ませていた。
0
お気に入りに追加
562
あなたにおすすめの小説
どうせ結末は変わらないのだと開き直ってみましたら
風見ゆうみ
恋愛
「もう、無理です!」
伯爵令嬢である私、アンナ・ディストリーは屋根裏部屋で叫びました。
男の子がほしかったのに生まれたのが私だったという理由で家族から嫌われていた私は、密かに好きな人だった伯爵令息であるエイン様の元に嫁いだその日に、エイン様と実の姉のミルーナに殺されてしまいます。
それからはなぜか、殺されては子どもの頃に巻き戻るを繰り返し、今回で11回目の人生です。
何をやっても同じ結末なら抗うことはやめて、開き直って生きていきましょう。
そう考えた私は、姉の機嫌を損ねないように目立たずに生きていくことをやめ、学園生活を楽しむことに。
学期末のテストで1位になったことで、姉の怒りを買ってしまい、なんと婚約を解消させられることに!
これで死なずにすむのでは!?
ウキウキしていた私の前に元婚約者のエイン様が現れ――
あなたへの愛情なんてとっくに消え去っているんですが?
皆さん勘違いなさっているようですが、この家の当主はわたしです。
和泉 凪紗
恋愛
侯爵家の後継者であるリアーネは父親に呼びされる。
「次期当主はエリザベスにしようと思う」
父親は腹違いの姉であるエリザベスを次期当主に指名してきた。理由はリアーネの婚約者であるリンハルトがエリザベスと結婚するから。
リンハルトは侯爵家に婿に入ることになっていた。
「エリザベスとリンハルト殿が一緒になりたいそうだ。エリザベスはちょうど適齢期だし、二人が思い合っているなら結婚させたい。急に婚約者がいなくなってリアーネも不安だろうが、適齢期までまだ時間はある。お前にふさわしい結婚相手を見つけるから安心しなさい。エリザベスの結婚が決まったのだ。こんなにめでたいことはないだろう?」
破談になってめでたいことなんてないと思いますけど?
婚約破棄になるのは構いませんが、この家を渡すつもりはありません。
(完結)親友の未亡人がそれほど大事ですか?
青空一夏
恋愛
「お願いだよ。リーズ。わたしはあなただけを愛すると誓う。これほど君を愛しているのはわたしだけだ」
婚約者がいる私に何度も言い寄ってきたジャンはルース伯爵家の4男だ。
私には家族ぐるみでお付き合いしている婚約者エルガー・バロワ様がいる。彼はバロワ侯爵家の三男だ。私の両親はエルガー様をとても気に入っていた。優秀で冷静沈着、理想的なお婿さんになってくれるはずだった。
けれどエルガー様が女性と抱き合っているところを目撃して以来、私はジャンと仲良くなっていき婚約解消を両親にお願いしたのだった。その後、ジャンと結婚したが彼は・・・・・・
※この世界では女性は爵位が継げない。跡継ぎ娘と結婚しても婿となっただけでは当主にはなれない。婿養子になって始めて当主の立場と爵位継承権や財産相続権が与えられる。西洋の史実には全く基づいておりません。独自の異世界のお話しです。
※現代的言葉遣いあり。現代的機器や商品など出てくる可能性あり。
【完結】嗤われた王女は婚約破棄を言い渡す
干野ワニ
恋愛
「ニクラス・アールベック侯爵令息。貴方との婚約は、本日をもって破棄します」
応接室で婚約者と向かい合いながら、わたくしは、そう静かに告げました。
もう無理をしてまで、愛を囁いてくれる必要などないのです。
わたくしは、貴方の本音を知ってしまったのですから――。
嘘つきな唇〜もう貴方のことは必要ありません〜
みおな
恋愛
伯爵令嬢のジュエルは、王太子であるシリウスから求婚され、王太子妃になるべく日々努力していた。
そんなある日、ジュエルはシリウスが一人の女性と抱き合っているのを見てしまう。
その日以来、何度も何度も彼女との逢瀬を重ねるシリウス。
そんなに彼女が好きなのなら、彼女を王太子妃にすれば良い。
ジュエルが何度そう言っても、シリウスは「彼女は友人だよ」と繰り返すばかり。
堂々と嘘をつくシリウスにジュエルは・・・
もう彼女でいいじゃないですか
キムラましゅろう
恋愛
ある日わたしは婚約者に婚約解消を申し出た。
常にわたし以外の女を腕に絡ませている事に耐えられなくなったからだ。
幼い頃からわたしを溺愛する婚約者は婚約解消を絶対に認めないが、わたしの心は限界だった。
だからわたしは行動する。
わたしから婚約者を自由にするために。
わたしが自由を手にするために。
残酷な表現はありませんが、
性的なワードが幾つが出てきます。
苦手な方は回れ右をお願いします。
小説家になろうさんの方では
ifストーリーを投稿しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる