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第二章 苦い秘密と手ごわい試験
15.初散歩はビターな香り
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お人好しアイザック協力のもと、セラフィーナは念願だった城内を満喫している。
実験と称し、何度か部屋の外に出た経験はあるものの、あの時はいつ発作が起きるか不安だった。
発作が起きれば、周囲の様子など気にする余裕も無くなっていたため、実質初めて見回るようなものである。
「ザック、向こうには何があるの?」
「あちらには、厨房など、主に使用人達の仕事場がある」
「へぇ……廊下の反対側。向こう側に行けば、いつも行ってるお風呂場があるんだよね」
「そうだ」
こちらに気を遣ってか、アイザックは毎日通う浴室へ向かう道とは逆方向へ進んでくれた。
そのままゆっくりと人気の無い廊下を進みながら、どんな場所へ繋がっているかを説明してくれる。
その歩みは明らかにスローペースだ。理由は、彼の肩にセラフィーナが乗っているからだろう。
最初はアイザックの頭の上へ乗ろうとしたが、数分も経たず却下された。
彼女が頭の上に乗れば、アイザックの視線は自然と上を向き、まるで天井へ話しかけながら歩いている体勢になる。
普通の人間達に、セラフィーナの姿は見えない。
そのため、傍から見れば、アイザックが色々と危ない人間に見えてしまう危険があるのだ。
そんな事になっては、彼の沽券に関わると、二人で話し合い、行きついたのが今の体勢だった。
セラフィーナが彼の肩に座ることで、互いの距離が近くなり小声での会話が可能になる。
そして、あまり意味の無いことかもしれないが、彼の長い髪が、セラフィーナの姿を隠してくれる。
彼女は時折茶色いカーテンを開け、楽しげに目の前に広がる景色を眺めた。
「絵本でしか見たことのない場所に居るなんて、なんだか不思議な気分」
「絵本? セラが住んでいた場所には、城を舞台にした絵本があるのか?」
隠れるように周囲の光景を眺めていれば、不意に懐かしい記憶が蘇り、ポツリと声が零れる。
耳聡く彼女の発言を拾ったアイザックの視線が、一瞬だけこちらへ向き、すぐに元へ戻った。
「うん、そうだよ。小さい頃に読んでもらった絵本の中に、地上についての本があるの。どんな職業に就く人間がいるか、どんな所に住むか。子供達は、まず最初に絵本で地上のことを学ぶんだ。普通に就職する人達もいるけど、天界で暮らす子供のほとんどは、地上への憧れとか、人間達の手助けをしたいって思うんじゃないかな?」
セラフィーナはバランスを取るように、時折放り出した足を揺らしながら、幼い頃のことを懐かしむ。
「なるほど……私も小さな頃は、絵本を教材とし、色々と学んだものだ。……この国以外にも、知っている場所があるのか?」
「うーん……先輩にくっついて、演習目的で何度か地上に降りたことはあるけど、その時はあまり見てまわれなかったんだよね。一応養成所では、国々の特徴について学ぶ授業があるけど。それは資料とか、先生達の話だけ。だから……あたしがちゃんと知ってる場所と言えるのは、ここだけ、かも?」
「クスクス……資料や聞いた話でも構わない。今夜は寝物語代わりに、セラが知っている国の話を聞かせてくれ。私はここから……国からあまり出たことが無い。それ故、他国について興味があるのだ」
「ふふ、いいよ!」
セラフィーナは小首を傾げると、そのまま男の目元を見上げる。
彼の柔らかな声と共に、わずかにあがる口角が視界に端に見えた気がした。
この国について知っている。そう口にしたものの、実際に自分の瞳で見た景色は、あの森とこの城だけ。本当の意味でピスティナ国を知っているとは言い難い。
小さな嘘を吐いたことに、セラフィーナの心にさざ波が広がる。
やってしまったと思う反面、これから知っていけば良いではないかと、己を奮い立たせる。
すぐさま意識を城内探検へ切り替えつつ、彼女は頭の片隅で、今宵アイザックの枕元で語る寝物語の選別を始めた。
部屋を出てから、ゆうに五分は過ぎただろうか。
いまだ二人は城内の探索をゆったりと続けている。
散策は付近だけと言っていたはずなのに、アイザックが自室へ引き返す気配は一向に感じられない。
彼の相反する発言と行動に、セラフィーナは疑問を抱いた。
しかし、彼女の好奇心を刺激する物が目に止まれば、小さなそれはすぐ頭の片隅へ追いやられる。
まだ足を踏み入れたことの無い部屋や、窓から見える庭に植えられた花など。興味を示したセラフィーナが指させば、簡潔にではあるが、彼は嫌がりもせず口を開き、きちんと説明してくれる。
不意に頭の中を過った疑問について悩むよりも、アイザックの話を聞いている方が、彼女にとっては何十倍も楽しく、何十倍もためになった。
周囲に怪しまれぬよう、互いの耳元で声をひそめながらのやりとり。不思議と胸が躍る会話に、セラフィーナは一層両脚をパタパタと揺らした。
「っ! どうしてアイザック様がこんな所に……」
「……? 先輩、あの方は何方ですか?」
「えっ、知らないの!? 国王様のご子息よ。……まぁ、普段滅多に部屋から出ない方だから、新人じゃ知らなくて当然よね」
一歩、また一歩、二人はアイザックの自室から遠ざかっていく。
部屋を出てしばらくの間、人気など皆無だった廊下に、次第に人々の声が響き始める。
しかし、それらは決して陽気なものではない。気づいた時にはもう、明らかに陰気な空気がそこら中に漂っていた。
自分の姿が人間に見えないのを良しとし、セラフィーナはくっきりと眉間に皺を寄せ顔を顰める。
その様子に唯一気づいたアイザックのたしなめる声が聞こえたが、素直に頷けるはずなどない。
(ちょっと、どうなってんの! ザックって王子様なんでしょう? コソコソ喋ってるつもりなんだろうけど、全部聞こえてるんだから! 王子様の悪口を言う使用人なんてあり得ない!)
フン、とセラフィーナが無言で鼻息を荒くすると、かすかに彼女の姿を隠す茶色が揺れる。
その様子を横目で確認していたらしく、どこかはずんだ小さな笑い声が耳をくすぐる。しかし、すっかり心があらぶってしまった彼女はそれに気づかない。
『あちらには、厨房など、主に使用人達の仕事場がある』
散歩を初めてすぐの頃、アイザックは自分達が進む先にあるものについて説明をしてくれた。
彼の言葉通り、歩みを進めるにつれ人の気配、取り分け使用人達の気配が多くなっていったのは確かだ。
ここへ来るまでにも、何人かの使用人達とすれ違った。
アイザックと対峙すれば、皆、最低限の礼儀とばかりに頭を下げ、廊下の端へ下がる。
それだけなら、何も問題は無かった。
セラフィーナが眉を顰める発端となったのは、その後の出来事。
皆声を揃え、アイザックの陰口を叩くのだ。時に驚愕、時に嫌悪、それらはどこか似通っており、総じてセラフィーナを不快にさせた。
赤の他人である自分でさえ心が荒むのだから、当人であるアイザックの心労は計り知れない。
人気が無い時は、楽しげに交わされていた二人の会話はすっかり途絶えてしまい、チラチラと盗み見る彼の表情も、口角が下がり先程より暗い気がする。
「ザック、もうお部屋に戻ろう。お散歩はまた今度、人がいない時でいいから……」
この場から一秒でも早く、アイザックを遠ざけなければいけないと、警報が頭の中で鳴り響く。
彼が部屋の外へ出るのを渋っていたのは、きっと使用人達の反応を予想していたからだろう。
そんなアイザックの想いに気づかないどころか、自分のわがままに付き合わせ、あげく繊細な彼の心を傷つけてしまった。
数分前の自分に憤りを覚えながら、セラフィーナは尚も小声で引き返そうと進言する。
「なっ! どうしてこのような所にアイザック様が。……アイザック様、何かご入用の物がございましたか?」
尚も使用人達の陰口は止まず、アイザックもその場を動く様子は無い。
どうしてと疑問を抱きながら、セラフィーナは必死に打開策を考えた。
いっそ元の大きさに戻り、強引に引きずって行こうかと頭を悩ませ始めた時、不意にこれまでとは違う声が聞こえた。
燕尾服を着こなし、落ち着きのある灰色の髪を後ろへ撫でつける特徴的な髪型が印象的な男が、二人の方へ駆け寄ってくる。
彼はどこか慌てた様子でアイザックの前に立ち止まると、恭しく頭を下げた。
そして、周囲の使用人達とは真逆の態度を示す。
主に真正面から向き合う真摯な対応に、セラフィーナは思わず息を呑む。
自身の後方を気にしているらしく、時折視線が逸れる所が気になるものの、それを圧倒する程の衝撃が襲い掛かる。
(ちゃ、ちゃんとした人が居てくれてよかったー)
もしかしたら、この城で働く使用人達全員が、アイザックに対し負の感情を抱いているのかもしれない。
なんて可能性を考えていた手前、名も知らぬ渋いおじ様使用人の登場は、セラフィーナの荒んだ心に一滴の潤いをもたらした。
「いや、単に散歩をしていただけだ。そろそろ部屋に戻って、残っている仕事を片付けるさ」
「左様でございますか。それでは後程、紅茶と茶菓子をお持ちいたしましょう。ささ、お部屋はこちらでございます」
「あ、あぁ……すまないな、チャド」
アイザックの方へ視線を向けると、今しがたまで下がっていた口角が普段通りになっていた。
彼にチャド、と呼ばれた男は、目尻に皺を寄せ微笑みながら、小さく頷いている。
(この人、毎日食事を持ってきてくれる人かな? ちょっとしか聞いたこと無いけど、声が似てる)
セラフィーナは二人のやりとりを聞きながら、記憶の中にあるここ数日で聞いたアイザック以外の声とチャドの声を照らし合わせる。
その間に、チャドはアイザックの背中に軽く手を当て、たった今セラフィーナ達が通ってきた道を空いている手で示す。
やはり、この男性は他の人達とは何かが違う。この場で初めて感じたあたたかな空気に、ホッと胸を撫でおろした。
「何やら騒々しいと思って来てみれば……これは一体どういうことですの?」
「……っ!」
不意に、アイザックの周囲に漂い始めたぬくもりをつんざく冷ややかな声が、その場に響き渡った。
まるで氷の刃を背に突きつけらているような感覚に、セラフィーナの身体は震えあがり一気に強張る。
ようやくほんわりと優しい気持ちになれたはずが、再び彼女の心に暗雲が立ち込める。
使用人達に散々陰口を叩かれた時は特別反応しなかったアイザックの両肩が、ビクンと一際大きく上下するのがわかった。
そこへ腰かけていたため、セラフィーナは、慌ててバランスをとり、落下を回避する。
出会ってから初めて、彼女は彼の動揺を目の当たりにした。
その身に起きたたった一つの変化が、二人の心に暗い影を落とす。
実験と称し、何度か部屋の外に出た経験はあるものの、あの時はいつ発作が起きるか不安だった。
発作が起きれば、周囲の様子など気にする余裕も無くなっていたため、実質初めて見回るようなものである。
「ザック、向こうには何があるの?」
「あちらには、厨房など、主に使用人達の仕事場がある」
「へぇ……廊下の反対側。向こう側に行けば、いつも行ってるお風呂場があるんだよね」
「そうだ」
こちらに気を遣ってか、アイザックは毎日通う浴室へ向かう道とは逆方向へ進んでくれた。
そのままゆっくりと人気の無い廊下を進みながら、どんな場所へ繋がっているかを説明してくれる。
その歩みは明らかにスローペースだ。理由は、彼の肩にセラフィーナが乗っているからだろう。
最初はアイザックの頭の上へ乗ろうとしたが、数分も経たず却下された。
彼女が頭の上に乗れば、アイザックの視線は自然と上を向き、まるで天井へ話しかけながら歩いている体勢になる。
普通の人間達に、セラフィーナの姿は見えない。
そのため、傍から見れば、アイザックが色々と危ない人間に見えてしまう危険があるのだ。
そんな事になっては、彼の沽券に関わると、二人で話し合い、行きついたのが今の体勢だった。
セラフィーナが彼の肩に座ることで、互いの距離が近くなり小声での会話が可能になる。
そして、あまり意味の無いことかもしれないが、彼の長い髪が、セラフィーナの姿を隠してくれる。
彼女は時折茶色いカーテンを開け、楽しげに目の前に広がる景色を眺めた。
「絵本でしか見たことのない場所に居るなんて、なんだか不思議な気分」
「絵本? セラが住んでいた場所には、城を舞台にした絵本があるのか?」
隠れるように周囲の光景を眺めていれば、不意に懐かしい記憶が蘇り、ポツリと声が零れる。
耳聡く彼女の発言を拾ったアイザックの視線が、一瞬だけこちらへ向き、すぐに元へ戻った。
「うん、そうだよ。小さい頃に読んでもらった絵本の中に、地上についての本があるの。どんな職業に就く人間がいるか、どんな所に住むか。子供達は、まず最初に絵本で地上のことを学ぶんだ。普通に就職する人達もいるけど、天界で暮らす子供のほとんどは、地上への憧れとか、人間達の手助けをしたいって思うんじゃないかな?」
セラフィーナはバランスを取るように、時折放り出した足を揺らしながら、幼い頃のことを懐かしむ。
「なるほど……私も小さな頃は、絵本を教材とし、色々と学んだものだ。……この国以外にも、知っている場所があるのか?」
「うーん……先輩にくっついて、演習目的で何度か地上に降りたことはあるけど、その時はあまり見てまわれなかったんだよね。一応養成所では、国々の特徴について学ぶ授業があるけど。それは資料とか、先生達の話だけ。だから……あたしがちゃんと知ってる場所と言えるのは、ここだけ、かも?」
「クスクス……資料や聞いた話でも構わない。今夜は寝物語代わりに、セラが知っている国の話を聞かせてくれ。私はここから……国からあまり出たことが無い。それ故、他国について興味があるのだ」
「ふふ、いいよ!」
セラフィーナは小首を傾げると、そのまま男の目元を見上げる。
彼の柔らかな声と共に、わずかにあがる口角が視界に端に見えた気がした。
この国について知っている。そう口にしたものの、実際に自分の瞳で見た景色は、あの森とこの城だけ。本当の意味でピスティナ国を知っているとは言い難い。
小さな嘘を吐いたことに、セラフィーナの心にさざ波が広がる。
やってしまったと思う反面、これから知っていけば良いではないかと、己を奮い立たせる。
すぐさま意識を城内探検へ切り替えつつ、彼女は頭の片隅で、今宵アイザックの枕元で語る寝物語の選別を始めた。
部屋を出てから、ゆうに五分は過ぎただろうか。
いまだ二人は城内の探索をゆったりと続けている。
散策は付近だけと言っていたはずなのに、アイザックが自室へ引き返す気配は一向に感じられない。
彼の相反する発言と行動に、セラフィーナは疑問を抱いた。
しかし、彼女の好奇心を刺激する物が目に止まれば、小さなそれはすぐ頭の片隅へ追いやられる。
まだ足を踏み入れたことの無い部屋や、窓から見える庭に植えられた花など。興味を示したセラフィーナが指させば、簡潔にではあるが、彼は嫌がりもせず口を開き、きちんと説明してくれる。
不意に頭の中を過った疑問について悩むよりも、アイザックの話を聞いている方が、彼女にとっては何十倍も楽しく、何十倍もためになった。
周囲に怪しまれぬよう、互いの耳元で声をひそめながらのやりとり。不思議と胸が躍る会話に、セラフィーナは一層両脚をパタパタと揺らした。
「っ! どうしてアイザック様がこんな所に……」
「……? 先輩、あの方は何方ですか?」
「えっ、知らないの!? 国王様のご子息よ。……まぁ、普段滅多に部屋から出ない方だから、新人じゃ知らなくて当然よね」
一歩、また一歩、二人はアイザックの自室から遠ざかっていく。
部屋を出てしばらくの間、人気など皆無だった廊下に、次第に人々の声が響き始める。
しかし、それらは決して陽気なものではない。気づいた時にはもう、明らかに陰気な空気がそこら中に漂っていた。
自分の姿が人間に見えないのを良しとし、セラフィーナはくっきりと眉間に皺を寄せ顔を顰める。
その様子に唯一気づいたアイザックのたしなめる声が聞こえたが、素直に頷けるはずなどない。
(ちょっと、どうなってんの! ザックって王子様なんでしょう? コソコソ喋ってるつもりなんだろうけど、全部聞こえてるんだから! 王子様の悪口を言う使用人なんてあり得ない!)
フン、とセラフィーナが無言で鼻息を荒くすると、かすかに彼女の姿を隠す茶色が揺れる。
その様子を横目で確認していたらしく、どこかはずんだ小さな笑い声が耳をくすぐる。しかし、すっかり心があらぶってしまった彼女はそれに気づかない。
『あちらには、厨房など、主に使用人達の仕事場がある』
散歩を初めてすぐの頃、アイザックは自分達が進む先にあるものについて説明をしてくれた。
彼の言葉通り、歩みを進めるにつれ人の気配、取り分け使用人達の気配が多くなっていったのは確かだ。
ここへ来るまでにも、何人かの使用人達とすれ違った。
アイザックと対峙すれば、皆、最低限の礼儀とばかりに頭を下げ、廊下の端へ下がる。
それだけなら、何も問題は無かった。
セラフィーナが眉を顰める発端となったのは、その後の出来事。
皆声を揃え、アイザックの陰口を叩くのだ。時に驚愕、時に嫌悪、それらはどこか似通っており、総じてセラフィーナを不快にさせた。
赤の他人である自分でさえ心が荒むのだから、当人であるアイザックの心労は計り知れない。
人気が無い時は、楽しげに交わされていた二人の会話はすっかり途絶えてしまい、チラチラと盗み見る彼の表情も、口角が下がり先程より暗い気がする。
「ザック、もうお部屋に戻ろう。お散歩はまた今度、人がいない時でいいから……」
この場から一秒でも早く、アイザックを遠ざけなければいけないと、警報が頭の中で鳴り響く。
彼が部屋の外へ出るのを渋っていたのは、きっと使用人達の反応を予想していたからだろう。
そんなアイザックの想いに気づかないどころか、自分のわがままに付き合わせ、あげく繊細な彼の心を傷つけてしまった。
数分前の自分に憤りを覚えながら、セラフィーナは尚も小声で引き返そうと進言する。
「なっ! どうしてこのような所にアイザック様が。……アイザック様、何かご入用の物がございましたか?」
尚も使用人達の陰口は止まず、アイザックもその場を動く様子は無い。
どうしてと疑問を抱きながら、セラフィーナは必死に打開策を考えた。
いっそ元の大きさに戻り、強引に引きずって行こうかと頭を悩ませ始めた時、不意にこれまでとは違う声が聞こえた。
燕尾服を着こなし、落ち着きのある灰色の髪を後ろへ撫でつける特徴的な髪型が印象的な男が、二人の方へ駆け寄ってくる。
彼はどこか慌てた様子でアイザックの前に立ち止まると、恭しく頭を下げた。
そして、周囲の使用人達とは真逆の態度を示す。
主に真正面から向き合う真摯な対応に、セラフィーナは思わず息を呑む。
自身の後方を気にしているらしく、時折視線が逸れる所が気になるものの、それを圧倒する程の衝撃が襲い掛かる。
(ちゃ、ちゃんとした人が居てくれてよかったー)
もしかしたら、この城で働く使用人達全員が、アイザックに対し負の感情を抱いているのかもしれない。
なんて可能性を考えていた手前、名も知らぬ渋いおじ様使用人の登場は、セラフィーナの荒んだ心に一滴の潤いをもたらした。
「いや、単に散歩をしていただけだ。そろそろ部屋に戻って、残っている仕事を片付けるさ」
「左様でございますか。それでは後程、紅茶と茶菓子をお持ちいたしましょう。ささ、お部屋はこちらでございます」
「あ、あぁ……すまないな、チャド」
アイザックの方へ視線を向けると、今しがたまで下がっていた口角が普段通りになっていた。
彼にチャド、と呼ばれた男は、目尻に皺を寄せ微笑みながら、小さく頷いている。
(この人、毎日食事を持ってきてくれる人かな? ちょっとしか聞いたこと無いけど、声が似てる)
セラフィーナは二人のやりとりを聞きながら、記憶の中にあるここ数日で聞いたアイザック以外の声とチャドの声を照らし合わせる。
その間に、チャドはアイザックの背中に軽く手を当て、たった今セラフィーナ達が通ってきた道を空いている手で示す。
やはり、この男性は他の人達とは何かが違う。この場で初めて感じたあたたかな空気に、ホッと胸を撫でおろした。
「何やら騒々しいと思って来てみれば……これは一体どういうことですの?」
「……っ!」
不意に、アイザックの周囲に漂い始めたぬくもりをつんざく冷ややかな声が、その場に響き渡った。
まるで氷の刃を背に突きつけらているような感覚に、セラフィーナの身体は震えあがり一気に強張る。
ようやくほんわりと優しい気持ちになれたはずが、再び彼女の心に暗雲が立ち込める。
使用人達に散々陰口を叩かれた時は特別反応しなかったアイザックの両肩が、ビクンと一際大きく上下するのがわかった。
そこへ腰かけていたため、セラフィーナは、慌ててバランスをとり、落下を回避する。
出会ってから初めて、彼女は彼の動揺を目の当たりにした。
その身に起きたたった一つの変化が、二人の心に暗い影を落とす。
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