105 / 616
第六章
6-8.喪失
しおりを挟む
「ここは……」
仁は頬に金属のひんやりとした冷たさを感じて目を覚ました。縮こまっていた体を伸ばしてゆっくりと体を起こす。胸と頭がずきずきと痛んだ。仁が顔を上げると、メイド服の若い女性と目が合った。メイドは慌てたように木製の椅子から立ち上がると、わたわたと背後の扉に向かって駆け出す。
仁はぼんやりとその後ろ姿を眺める。徐々にはっきりと動き始めた脳が、メイドと仁の間にある何本もの金属製の棒を認識した。メイドの背中から目を離して辺りを見回すと、その黒々とした棒は天井と床の金属板を支える柱のように前後左右に屹立しているのがわかった。
「檻の中……?」
檻の外には金色の刺繍の入った豪華そうな赤い絨毯が広がっていて、天蓋付きの大きなベッドや見たこともないような豪華な調度品が、くどくならない絶妙なハーモニーを保って配置されている。仁には金属製の武骨な檻だけが酷い違和感を放っているように感じられた。
「いったい何が……」
仁の口から困惑の言葉が零れたとき、メイドが出て行ったドアから金髪碧眼の少女が入ってきた。紫のドレスを身に纏った少女は檻の前まで歩み寄ると、釣り目を眉ごと吊り上げて勝気な笑みを浮かべた。
「気分はいかがかしら。ジン・ハヅキ」
「ジン・ハヅキ……」
仁の口が少女の言葉をなぞるように動いた。
「それが俺の名前ですか?」
「え?」
「え?」
仁の予想外の反応に、少女が目を丸くした。少女が思わず上げた驚きの声に、仁がオウム返しのように返す。仁の見つめる先で、少女が何事か考え込むかのように目を細めた。
「ええ、そうよ。ジン・ハヅキ。それがあなたの名前よ」
「そうですか……。それで、あの、あなたは?」
「私はコーデリア・グレンシール。あなたの主人よ」
「え」
「あなたは私の奴隷よ。忘れたの?」
仁は暫しの黙考の末、首を力なく横に振った。
「すみません。何も覚えていないみたいです。俺が何者なのかも、どうしてここにいるのかも……」
コーデリアの片眉がピクリと動くが、うなだれている仁は気付かない。
「そう。まったく困った奴隷ね。あなたは私の忠実な奴隷だけど、昨夜、一つだけ罪を犯してしまったの。それでお仕置きをしていたのだけど、まさか記憶を失ってしまうなんて思いもしなかったわ」
「記憶を失うほどのお仕置き……。あの、俺はいったい何をして、何をされたのでしょう」
「忘れているというのなら、忘れたままでいる方があなたのためよ。とにかく、あなたは私の奴隷なの。首を触ってごらんなさい」
仁はコーデリアに言われるまま、右手を首に持っていく。仁の手が首輪に触れた。
「あなたが覚えているかわからないけど、その隷属の首輪が、あなたが私の奴隷である証拠であり、私とあなたの絆よ。わかったかしら」
「絆……」
恐る恐る触れていた仁の指が、大切なものを撫でるような優しい動きに変わった。絆の存在を確かめるかのように、仁の指が首輪を隅々まで撫でていく。仁の指が首輪の下部に差し掛かったところで、金属製のチェーンに触れた。
「これは……?」
仁がチェーンを持ち上げると、胸元から銀色の金属板が姿を見せた。
「それは今のあなたには必要のないものよ。それを私に返しなさい」
コーデリアが目を細めると、仁は慌てて首からチェーンを引き抜き、檻の隙間から金属板を差し出す。コーデリアは金属板を受け取ると、ベッドの脇にある化粧台の引き出しにしまい込んだ。
「俺はあなたの大切なものを盗ってしまったのでしょうか」
力なく座り込んだ仁の顔が苦渋に歪む。コーデリアは再び檻の前に歩み寄ると、自身を見上げる仁を見下ろす。
「忘れなさい。あなたは罪を記憶ごと失ったの。今も昔も、あなたは私の奴隷。ただそれだけよ。わかったら後一晩、その檻で過ごしなさい。私ももう寝るわ」
コーデリアは仁の返事を待たずに背を向けると、クローゼットの前まで移動して、おもむろにドレスを脱ぎ始めた。コルセットを外し、ゆったりとしたドロワーズを脱ぐ。
「えっ!」
コーデリアを視線で追っていた仁は思わず声を上げ、顔を伏せた。コーデリアが振り返り、生まれたままの姿で仁に近付いて、檻の前で仁王立ちする。
「顔を上げなさい」
「え、でも」
「上げなさい」
コーデリアの強い言葉に、仁は恐る恐る顔を上げる。仁の視界のほとんどが肌色で覆い尽くされた。仁は各所に向かいそうになる視線を、必死の思いでコーデリアの顔に固定するが、それでも顔が熱を持つのを感じる。
「あなたは忘れているようだけど、奴隷というのは主人の所有物。云わば、物なのよ。物は女性の裸体を見て恥ずかしがるかしら? 私は物に裸を見られたところで、恥ずかしくもなんともないわ。だから、あなたも恥ずかしがるのは止めなさい。いいわね」
コーデリアはそれだけ言うと、クローゼットの前に戻り、白いネグリジェを身に着けた。仁はその様子を眺めながら、ドキドキと高鳴る心臓を治めようと試みるが、無理な相談だった。コーデリアは照明の魔道具を消すと、そのままベッドに上がり込んだ。
仁は薄暗くなった檻の中で横になった。金属の床が仁の体を冷やす。仁がもぞもぞと姿勢を変えていると、仁の左手の指輪が床に当たって乾いた音を立てた。仁は眉を顰めて左手を顔に近付けた。
「奴隷の俺が指輪……?」
指輪を眺めていると、仁の頭と胸の奥がずきりと痛んだ。仁は腕を下ろし、硬い床に体を投げ出す。仁は自らの境遇を思い出そうと記憶を探るが、何の思い出も残っていなかった。自分はどこで生まれてどう生きてきたのか。そしてどういう経緯でコーデリアの奴隷になったのか。仁はぽっかりと空いた大きな心の穴を感じながら、静かに目を閉じる。全身を包む倦怠感が、仁を夢の世界へ誘う。
『仁くん……』
眠りに落ちる直前、コーデリアのものとは違う、仁を呼ぶ心地よい声が聞こえた気がしたが、すぐに意識を手放した仁の記憶に残ることはなかった。
仁は頬に金属のひんやりとした冷たさを感じて目を覚ました。縮こまっていた体を伸ばしてゆっくりと体を起こす。胸と頭がずきずきと痛んだ。仁が顔を上げると、メイド服の若い女性と目が合った。メイドは慌てたように木製の椅子から立ち上がると、わたわたと背後の扉に向かって駆け出す。
仁はぼんやりとその後ろ姿を眺める。徐々にはっきりと動き始めた脳が、メイドと仁の間にある何本もの金属製の棒を認識した。メイドの背中から目を離して辺りを見回すと、その黒々とした棒は天井と床の金属板を支える柱のように前後左右に屹立しているのがわかった。
「檻の中……?」
檻の外には金色の刺繍の入った豪華そうな赤い絨毯が広がっていて、天蓋付きの大きなベッドや見たこともないような豪華な調度品が、くどくならない絶妙なハーモニーを保って配置されている。仁には金属製の武骨な檻だけが酷い違和感を放っているように感じられた。
「いったい何が……」
仁の口から困惑の言葉が零れたとき、メイドが出て行ったドアから金髪碧眼の少女が入ってきた。紫のドレスを身に纏った少女は檻の前まで歩み寄ると、釣り目を眉ごと吊り上げて勝気な笑みを浮かべた。
「気分はいかがかしら。ジン・ハヅキ」
「ジン・ハヅキ……」
仁の口が少女の言葉をなぞるように動いた。
「それが俺の名前ですか?」
「え?」
「え?」
仁の予想外の反応に、少女が目を丸くした。少女が思わず上げた驚きの声に、仁がオウム返しのように返す。仁の見つめる先で、少女が何事か考え込むかのように目を細めた。
「ええ、そうよ。ジン・ハヅキ。それがあなたの名前よ」
「そうですか……。それで、あの、あなたは?」
「私はコーデリア・グレンシール。あなたの主人よ」
「え」
「あなたは私の奴隷よ。忘れたの?」
仁は暫しの黙考の末、首を力なく横に振った。
「すみません。何も覚えていないみたいです。俺が何者なのかも、どうしてここにいるのかも……」
コーデリアの片眉がピクリと動くが、うなだれている仁は気付かない。
「そう。まったく困った奴隷ね。あなたは私の忠実な奴隷だけど、昨夜、一つだけ罪を犯してしまったの。それでお仕置きをしていたのだけど、まさか記憶を失ってしまうなんて思いもしなかったわ」
「記憶を失うほどのお仕置き……。あの、俺はいったい何をして、何をされたのでしょう」
「忘れているというのなら、忘れたままでいる方があなたのためよ。とにかく、あなたは私の奴隷なの。首を触ってごらんなさい」
仁はコーデリアに言われるまま、右手を首に持っていく。仁の手が首輪に触れた。
「あなたが覚えているかわからないけど、その隷属の首輪が、あなたが私の奴隷である証拠であり、私とあなたの絆よ。わかったかしら」
「絆……」
恐る恐る触れていた仁の指が、大切なものを撫でるような優しい動きに変わった。絆の存在を確かめるかのように、仁の指が首輪を隅々まで撫でていく。仁の指が首輪の下部に差し掛かったところで、金属製のチェーンに触れた。
「これは……?」
仁がチェーンを持ち上げると、胸元から銀色の金属板が姿を見せた。
「それは今のあなたには必要のないものよ。それを私に返しなさい」
コーデリアが目を細めると、仁は慌てて首からチェーンを引き抜き、檻の隙間から金属板を差し出す。コーデリアは金属板を受け取ると、ベッドの脇にある化粧台の引き出しにしまい込んだ。
「俺はあなたの大切なものを盗ってしまったのでしょうか」
力なく座り込んだ仁の顔が苦渋に歪む。コーデリアは再び檻の前に歩み寄ると、自身を見上げる仁を見下ろす。
「忘れなさい。あなたは罪を記憶ごと失ったの。今も昔も、あなたは私の奴隷。ただそれだけよ。わかったら後一晩、その檻で過ごしなさい。私ももう寝るわ」
コーデリアは仁の返事を待たずに背を向けると、クローゼットの前まで移動して、おもむろにドレスを脱ぎ始めた。コルセットを外し、ゆったりとしたドロワーズを脱ぐ。
「えっ!」
コーデリアを視線で追っていた仁は思わず声を上げ、顔を伏せた。コーデリアが振り返り、生まれたままの姿で仁に近付いて、檻の前で仁王立ちする。
「顔を上げなさい」
「え、でも」
「上げなさい」
コーデリアの強い言葉に、仁は恐る恐る顔を上げる。仁の視界のほとんどが肌色で覆い尽くされた。仁は各所に向かいそうになる視線を、必死の思いでコーデリアの顔に固定するが、それでも顔が熱を持つのを感じる。
「あなたは忘れているようだけど、奴隷というのは主人の所有物。云わば、物なのよ。物は女性の裸体を見て恥ずかしがるかしら? 私は物に裸を見られたところで、恥ずかしくもなんともないわ。だから、あなたも恥ずかしがるのは止めなさい。いいわね」
コーデリアはそれだけ言うと、クローゼットの前に戻り、白いネグリジェを身に着けた。仁はその様子を眺めながら、ドキドキと高鳴る心臓を治めようと試みるが、無理な相談だった。コーデリアは照明の魔道具を消すと、そのままベッドに上がり込んだ。
仁は薄暗くなった檻の中で横になった。金属の床が仁の体を冷やす。仁がもぞもぞと姿勢を変えていると、仁の左手の指輪が床に当たって乾いた音を立てた。仁は眉を顰めて左手を顔に近付けた。
「奴隷の俺が指輪……?」
指輪を眺めていると、仁の頭と胸の奥がずきりと痛んだ。仁は腕を下ろし、硬い床に体を投げ出す。仁は自らの境遇を思い出そうと記憶を探るが、何の思い出も残っていなかった。自分はどこで生まれてどう生きてきたのか。そしてどういう経緯でコーデリアの奴隷になったのか。仁はぽっかりと空いた大きな心の穴を感じながら、静かに目を閉じる。全身を包む倦怠感が、仁を夢の世界へ誘う。
『仁くん……』
眠りに落ちる直前、コーデリアのものとは違う、仁を呼ぶ心地よい声が聞こえた気がしたが、すぐに意識を手放した仁の記憶に残ることはなかった。
0
お気に入りに追加
703
あなたにおすすめの小説
【完結】ご都合主義で生きてます。-ストレージは最強の防御魔法。生活魔法を工夫し創生魔法で乗り切る-
ジェルミ
ファンタジー
鑑定サーチ?ストレージで防御?生活魔法を工夫し最強に!!
28歳でこの世を去った佐藤は、異世界の女神により転移を誘われる。
しかし授かったのは鑑定や生活魔法など戦闘向きではなかった。
しかし生きていくために生活魔法を組合せ、工夫を重ね創生魔法に進化させ成り上がっていく。
え、鑑定サーチてなに?
ストレージで収納防御て?
お馬鹿な男と、それを支えるヒロインになれない3人の女性達。
スキルを試行錯誤で工夫し、お馬鹿な男女が幸せを掴むまでを描く。
※この作品は「ご都合主義で生きてます。商売の力で世界を変える」を、もしも冒険者だったら、として内容を大きく変えスキルも制限し一部文章を流用し前作を読まなくても楽しめるように書いています。
またカクヨム様にも掲載しております。
田舎暮らしと思ったら、異世界暮らしだった。
けむし
ファンタジー
突然の異世界転移とともに魔法が使えるようになった青年の、ほぼ手に汗握らない物語。
日本と異世界を行き来する転移魔法、物を複製する魔法。
あらゆる魔法を使えるようになった主人公は異世界で、そして日本でチート能力を発揮・・・するの?
ゆる~くのんびり進む物語です。読者の皆様ものんびりお付き合いください。
感想などお待ちしております。
ぐ~たら第三王子、牧場でスローライフ始めるってよ
雑木林
ファンタジー
現代日本で草臥れたサラリーマンをやっていた俺は、過労死した後に何の脈絡もなく異世界転生を果たした。
第二の人生で新たに得た俺の身分は、とある王国の第三王子だ。
この世界では神様が人々に天職を授けると言われており、俺の父親である国王は【軍神】で、長男の第一王子が【剣聖】、それから次男の第二王子が【賢者】という天職を授かっている。
そんなエリートな王族の末席に加わった俺は、当然のように周囲から期待されていたが……しかし、俺が授かった天職は、なんと【牧場主】だった。
畜産業は人類の食文化を支える素晴らしいものだが、王族が従事する仕事としては相応しくない。
斯くして、父親に失望された俺は王城から追放され、辺境の片隅でひっそりとスローライフを始めることになる。
平凡冒険者のスローライフ
上田なごむ
ファンタジー
26歳独身動物好きの主人公大和希は、神様によって魔物・魔法・獣人等ファンタジーな世界観の異世界に転移させられる。
平凡な能力値、野望など抱いていない彼は、冒険者としてスローライフを目標に日々を過ごしていく。
果たして、彼を待ち受ける出会いや試練は如何なるものか……
ファンタジー世界に向き合う、平凡な冒険者の物語。
若返ったおっさん、第2の人生は異世界無双
たまゆら
ファンタジー
事故で死んだネトゲ廃人のおっさん主人公が、ネトゲと酷似した異世界に転移。
ゲームの知識を活かして成り上がります。
圧倒的効率で金を稼ぎ、レベルを上げ、無双します。
祝・定年退職!? 10歳からの異世界生活
空の雲
ファンタジー
中田 祐一郎(なかたゆういちろう)60歳。長年勤めた会社を退職。
最後の勤めを終え、通い慣れた電車で帰宅途中、突然の衝撃をうける。
――気付けば、幼い子供の姿で見覚えのない森の中に……
どうすればいいのか困惑する中、冒険者バルトジャンと出会う。
顔はいかついが気のいいバルトジャンは、行き場のない子供――中田祐一郎(ユーチ)の保護を申し出る。
魔法や魔物の存在する、この世界の知識がないユーチは、迷いながらもその言葉に甘えることにした。
こうして始まったユーチの異世界生活は、愛用の腕時計から、なぜか地球の道具が取り出せたり、彼の使う魔法が他人とちょっと違っていたりと、出会った人たちを驚かせつつ、ゆっくり動き出す――
※2月25日、書籍部分がレンタルになりました。
役立たずと言われダンジョンで殺されかけたが、実は最強で万能スキルでした !
本条蒼依
ファンタジー
地球とは違う異世界シンアースでの物語。
主人公マルクは神聖の儀で何にも反応しないスキルを貰い、絶望の淵へと叩き込まれる。
その役に立たないスキルで冒険者になるが、役立たずと言われダンジョンで殺されかけるが、そのスキルは唯一無二の万能スキルだった。
そのスキルで成り上がり、ダンジョンで裏切った人間は落ちぶれざまあ展開。
主人公マルクは、そのスキルで色んなことを解決し幸せになる。
ハーレム要素はしばらくありません。
キャンピングカーで往く異世界徒然紀行
タジリユウ
ファンタジー
《第4回次世代ファンタジーカップ 面白スキル賞》
【書籍化!】
コツコツとお金を貯めて念願のキャンピングカーを手に入れた主人公。
早速キャンピングカーで初めてのキャンプをしたのだが、次の日目が覚めるとそこは異世界であった。
そしていつの間にかキャンピングカーにはナビゲーション機能、自動修復機能、燃料補給機能など様々な機能を拡張できるようになっていた。
道中で出会ったもふもふの魔物やちょっと残念なエルフを仲間に加えて、キャンピングカーで異世界をのんびりと旅したいのだが…
※旧題)チートなキャンピングカーで旅する異世界徒然紀行〜もふもふと愉快な仲間を添えて〜
※カクヨム様でも投稿をしております
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる