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第六章

6-8.喪失

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「ここは……」

 仁は頬に金属のひんやりとした冷たさを感じて目を覚ました。縮こまっていた体を伸ばしてゆっくりと体を起こす。胸と頭がずきずきと痛んだ。仁が顔を上げると、メイド服の若い女性と目が合った。メイドは慌てたように木製の椅子から立ち上がると、わたわたと背後の扉に向かって駆け出す。

 仁はぼんやりとその後ろ姿を眺める。徐々にはっきりと動き始めた脳が、メイドと仁の間にある何本もの金属製の棒を認識した。メイドの背中から目を離して辺りを見回すと、その黒々とした棒は天井と床の金属板を支える柱のように前後左右に屹立しているのがわかった。

「檻の中……?」

 檻の外には金色の刺繍の入った豪華そうな赤い絨毯が広がっていて、天蓋付きの大きなベッドや豪華な調度品が、くどくならない絶妙なハーモニーを保って配置されている。仁には金属製の武骨な檻だけが酷い違和感を放っているように感じられた。

「いったい何が……」

 仁の口から困惑の言葉が零れたとき、メイドが出て行ったドアから金髪碧眼の少女が入ってきた。紫のドレスを身に纏った少女は檻の前まで歩み寄ると、釣り目を眉ごと吊り上げて勝気な笑みを浮かべた。

「気分はいかがかしら。ジン・ハヅキ」
「ジン・ハヅキ……」

 仁の口が少女の言葉をなぞるように動いた。

「それが俺の名前ですか?」
「え?」
「え?」

 仁の予想外の反応に、少女が目を丸くした。少女が思わず上げた驚きの声に、仁がオウム返しのように返す。仁の見つめる先で、少女が何事か考え込むかのように目を細めた。

「ええ、そうよ。ジン・ハヅキ。それがあなたの名前よ」
「そうですか……。それで、あの、あなたは?」
わたくしはコーデリア・グレンシール。あなたの主人よ」
「え」
「あなたはわたくしの奴隷よ。忘れたの?」

 仁は暫しの黙考の末、首を力なく横に振った。

「すみません。何も覚えていないみたいです。俺が何者なのかも、どうしてここにいるのかも……」

 コーデリアの片眉がピクリと動くが、うなだれている仁は気付かない。

「そう。まったく困った奴隷ね。あなたはわたくしの忠実な奴隷だけど、昨夜、一つだけ罪を犯してしまったの。それでお仕置きをしていたのだけど、まさか記憶を失ってしまうなんて思いもしなかったわ」
「記憶を失うほどのお仕置き……。あの、俺はいったい何をして、何をされたのでしょう」
「忘れているというのなら、忘れたままでいる方があなたのためよ。とにかく、あなたはわたくしの奴隷なの。首を触ってごらんなさい」

 仁はコーデリアに言われるまま、右手を首に持っていく。仁の手が首輪に触れた。

「あなたが覚えているかわからないけど、その隷属の首輪が、あなたがわたくしの奴隷である証拠であり、わたくしとあなたの絆よ。わかったかしら」
「絆……」

 恐る恐る触れていた仁の指が、大切なものを撫でるような優しい動きに変わった。絆の存在を確かめるかのように、仁の指が首輪を隅々まで撫でていく。仁の指が首輪の下部に差し掛かったところで、金属製のチェーンに触れた。

「これは……?」

 仁がチェーンを持ち上げると、胸元から銀色の金属板が姿を見せた。

「それは今のあなたには必要のないものよ。それをわたくしに返しなさい」

 コーデリアが目を細めると、仁は慌てて首からチェーンを引き抜き、檻の隙間から金属板を差し出す。コーデリアは金属板を受け取ると、ベッドの脇にある化粧台の引き出しにしまい込んだ。

「俺はあなたの大切なものを盗ってしまったのでしょうか」

 力なく座り込んだ仁の顔が苦渋に歪む。コーデリアは再び檻の前に歩み寄ると、自身を見上げる仁を見下ろす。

「忘れなさい。あなたは罪を記憶ごと失ったの。今も昔も、あなたはわたくしの奴隷。ただそれだけよ。わかったら後一晩、その檻で過ごしなさい。わたくしももう寝るわ」

 コーデリアは仁の返事を待たずに背を向けると、クローゼットの前まで移動して、おもむろにドレスを脱ぎ始めた。コルセットを外し、ゆったりとしたドロワーズを脱ぐ。

「えっ!」

 コーデリアを視線で追っていた仁は思わず声を上げ、顔を伏せた。コーデリアが振り返り、生まれたままの姿で仁に近付いて、檻の前で仁王立ちする。

「顔を上げなさい」
「え、でも」
「上げなさい」

 コーデリアの強い言葉に、仁は恐る恐る顔を上げる。仁の視界のほとんどが肌色で覆い尽くされた。仁は各所に向かいそうになる視線を、必死の思いでコーデリアの顔に固定するが、それでも顔が熱を持つのを感じる。

「あなたは忘れているようだけど、奴隷というのは主人の所有物。云わば、物なのよ。物は女性の裸体を見て恥ずかしがるかしら? わたくしは物に裸を見られたところで、恥ずかしくもなんともないわ。だから、あなたも恥ずかしがるのは止めなさい。いいわね」

 コーデリアはそれだけ言うと、クローゼットの前に戻り、白いネグリジェを身に着けた。仁はその様子を眺めながら、ドキドキと高鳴る心臓を治めようと試みるが、無理な相談だった。コーデリアは照明の魔道具を消すと、そのままベッドに上がり込んだ。

 仁は薄暗くなった檻の中で横になった。金属の床が仁の体を冷やす。仁がもぞもぞと姿勢を変えていると、仁の左手の指輪が床に当たって乾いた音を立てた。仁は眉を顰めて左手を顔に近付けた。

「奴隷の俺が指輪……?」

 指輪を眺めていると、仁の頭と胸の奥がずきりと痛んだ。仁は腕を下ろし、硬い床に体を投げ出す。仁は自らの境遇を思い出そうと記憶を探るが、何の思い出も残っていなかった。自分はどこで生まれてどう生きてきたのか。そしてどういう経緯でコーデリアの奴隷になったのか。仁はぽっかりと空いた大きな心の穴を感じながら、静かに目を閉じる。全身を包む倦怠感が、仁を夢の世界へ誘う。

『仁くん……』

 眠りに落ちる直前、コーデリアのものとは違う、仁を呼ぶ心地よい声が聞こえた気がしたが、すぐに意識を手放した仁の記憶に残ることはなかった。
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