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第二十章

20-28.玲奈

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 玲奈は自分の意志に関係なく視界に飛び込んでくる仁の姿を見つめる。仁は床にへたり込み、絶望と希望の狭間で揺れ動くような目で玲奈を見上げていた。

(仁くん……)

 不安定で今にも壊れてしまいそうな仁の様子に、玲奈の胸が痛む。すぐにでも抱きしめて大丈夫だと背中をポンポンと優しく叩いてあげたいと願うが、今の玲奈の体は玲奈の意志で動かすことは叶わなかった。

 仁が苦しんでいるのは自分のせいだとわかっていても、玲奈にはどうすることもできない。

 玲奈の体が勝手に動き、仁を包み込むように抱きしめる。

(やめて……!)

 望み通りに動いた体に、玲奈は心の中で悲痛な叫びを上げた。

 頭を胸に掻き抱かれた仁が、ビクッと肩を揺らす。一瞬、拒絶の意志が見受けられたが、仁はすぐに抱擁を受け入れたのか、微動だにせず、されるがままになっていた。



 昨日のルーナリアの唐突な口付け以降、玲奈は悪夢を見ているような気分だった。玲奈ではない誰かが玲奈の声で話し、玲奈の意志では指一本動かすことのできない玲奈の体を自在に動かしているのだ。

 それだけでも恐怖以外の何ものでもないのに、その誰かはルーナリアと、異変を感じて地下室に入ってきた護衛のヴォルグを玲奈の力を使って制圧してしまった。

 仁のために、皆のためにと身につけた力が、問答無用に味方を傷付ける。そんな光景を、目を逸らすことすらできずに強制的に見せつけられるのは、玲奈にとって拷問に等しかった。

 そして、心から大切に思っている仁が、仁の心が弄ばれている。



 玲奈はすべて見ていた。聞いていた。感じていた。薄皮1枚を隔てたような、どこかリアルさの欠けた形ではあったが、ルーナリアに触れられた部分から何かが自身の体に侵入してくるような感覚を思い出せば、魔王妃に体を奪われたのだと、夢ではないのだと理解できた。

 夢を見ているとき、夢の中で自分が自分の意志に関係なく自由に動き、それを見ているしかできないということがある。そんなもどかしい夢の中のような出来事が現実に存在するなど、悪夢としか言いようがなかった。

(仁くん……)

 玲奈の全身が仁の温もりを伝えてくる。ドキドキしながらもどこか落ち着くはずの温もりが、今の玲奈には悍ましいまでの恐怖と寂寥を感じさせた。しかし。

(何とかしないと……!)

 玲奈は唯一できる“思考”を始める。

 玲奈の貞操を、尊厳を、心を守ろうとしてくれた仁の姿は、玲奈に現状を打破しようとする勇気を与えていた。

 魔王妃の言動を見るに、玲奈の記憶や感情が知られている可能性が高い。いや、この際100%と言っても過言ではない。となると、もしかしたら今の玲奈の思考すらも覗かれてしまうかもしれないが、だからといって、ここで考えることすら放棄してしまっては、自分は死んだも同然だと玲奈は思う。

(仁くん。私も頑張るから……!)

 そうして玲奈は強制的に与えられる自身の体からの情報に、僅かなヒントも見逃さないように気を配りつつ、思考にふける。



 まず玲奈は、先ほど焦燥の中で感じた違和感を思い出す。

“私だって、前の子の体を奪えたと思ったら行為の最中で、びっくりして思わず相手を殺しちゃったくらいだしね”

 あの魔王妃の言葉は、おそらくユミラがメルニールで起こしたという殺人のことだと玲奈は考えた。しかし、この台詞の中の“奪えたと思ったら”というのが引っかかる。

 玲奈はルーナリアとの物理的な接触を経て、時間を置かずに体の主導権を奪われたのだ。

 以前、仁は封印を解かれた魔王妃の魂はダンジョン攻略の合同パーティにサポーターとして参加していたキャロルに憑りつき、飲食店での接触を経てユミラに乗り移ったと推測していた。

 しかし、おそらくキャロルは憑りつかれたことに気付いていないし、魔王妃の言葉を信じるのであれば、ユミラも接触からしばらくして体を奪われたことになる。

 おかしい。

 なぜ自分はこうもあっさりと主導権を奪われてしまったのか。玲奈は心の中で首を傾げる。詳しい状況のわからないキャロルはともかく、ユミラと違うのは、なぜかキスをされたことくらいだった。

(私をビックリさせて、心の隙に付け込んだとか……?)

 玲奈は何となく思い浮かんだことを心の中で口にする。そう考えれば、ユミラがどうして冒険者との行為に及んでいたかはわからないが、その最中に体を奪われたというのにも少しだけ繋がるような気がした。

(ルーナはどうだったのかな?)

 今となってはサラの意図はわからないが、仁や玲奈は元より、ルーナリアをよく知るシルフィの目をあざむけるくらいルーナリアはルーナリアだった。けれど、ルーナリアの体は完全に魔王妃に乗っ取られていたのだと、今ならわかる。

 なぜなら、魔の森で出会ったユミラは魔王妃ではなく、魔王妃を演じるユミラだったのだから。

 ユミラに魔王妃の眷属を召喚できるはずがない。だとするならば、あの場にいたルーナリアに憑りついていた魔王妃が召喚したのは間違いない。ゆえに、ユミラが魔王妃に従って魔王妃を演じていた理由は不明でも、少なくともあの時点でルーナリアは完全に体の主導権を奪われていたと考えるのが自然だ。

 そして、ヴォルグはそのことに気付いていなかった。

 玲奈は感じるはずのない薄ら寒さで、心が、ぶるぶると震えた。

 魔王妃が本気で玲奈を演じていたら。

 もしそうであったなら、仁も、誰も玲奈の体が魔王妃に乗っ取られたことに気付かなかったかもしれない。今の魔王妃からは、玲奈を演じながらも仁を本気で騙そうという意図は感じられなかった。そのことを救いに思いたくはないが、玲奈は最悪の事態に陥らなかった事実に感謝した。

 しかし、その方が仁にとっては幸せだったかもしれないと考えると、玲奈は心が引き裂かれそうになる思いだった。

 仁への想いを隠さない魔王妃。それは玲奈を演じつつ仁を揶揄からかっているだけとも考えられるが、なぜか玲奈にはそれがただの演技だとは思えなかった。

 仁は魔王妃を拒んだが、もし魔王妃ではなく玲奈の言動だと仁が信じていた場合、果たして仁はどうしていたのか。

 結果がどうあれ、玲奈の心が穏やかではいられなかったのだけは確かだった。

(いけない)

 玲奈は心の痛みで思考が脇に逸れていることに気付き、今は体を取り戻す方法だけに集中しようと自身に言い聞かせる。

 仁は自分を大切に思ってくれている。玲奈はそれだけわかっていれば大丈夫だと、再び思考に自らのすべてを注ぐ。

 結局のところ、魔王妃が仁を求める理由はわからない。イムの父親によれば、魔王妃は魔王の復活を目論んでいるとのことだった。そして、魔王妃は仁を“ジーク”と呼び、仁に“ナーシャ”と呼ばれるのを喜んでいた。

 その事実が指し示すのは、“ジーク”というのが魔王の名で、いにしえの魔王のものらしき記憶を持つ仁は、やはり魔王と何らかの関係があるのではないかということだが、そんなことは今の玲奈にとってはどうでもいいことだった。

 魔王妃から自らの体を取り戻し、再び仁の隣で仲間たちと共に歩む。そのためだけに玲奈は孤独なようで孤独ではない戦いを始める。

 仁の隣に立つのは自分が最も相応しいのだと信じて。
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