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第二十章

20-26.譲歩

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 仁はラインヴェルト城の地下研究室の扉の前で深呼吸を繰り返す。扉の向こうに玲奈の体を乗っ取った魔王妃がいると思うと足が竦んだが、こればかりは逃げることは許されない。仁は意を決して扉の向こうに足を踏み入れた。

「あ。おかえり、ジーク」
「た、ただいま……。って、え?」

 玲奈のような笑みを浮かべる魔王妃に、仁は思わず挨拶を返してしまってから、呼びかけられた名前が想定外で固まった。仁は以前、記憶を失くしていた奴隷騎士時代にコーデリアによって“ジーク”と名付けられたが、玲奈からも魔王妃からもそう呼ばれるいわれはなかった。

 仁が呆けていると、玲奈が、こてんと首を傾ける。

「あれ? もしかして、まだ戦闘用魔導人形バトルゴーレムと戦ってきたわけじゃないの?」
「え、いや。戦ってきたけど……」

 仁は腑に落ちないものを感じながらも、アイテムリングから戦闘用魔導人形バトルゴーレムの胴を取り出した。黒い金属塊を目にした玲奈が、満面の笑みを浮かべながら駆け寄ってくる。

 その様は仁の知る玲奈そのもので、仁は戸惑いと憤りを感じた。

「これが戦闘用魔導人形バトルゴーレムかぁ。あ、なるほどね。魔鋼まこうでできてるんだね」

 仁の傍らでしゃがみ込んだ玲奈がペタペタと金属の胴に触れながら、うんうんと頷いた。玲奈の口から仁の知らない単語が飛び出し、仁はやはり玲奈ではないと打ちひしがれる。

「あ、魔鋼っていうのはね、すっごく硬くて魔法にも強いっていう、今では失われた技術の産物だよ」

 玲奈は仁の良く知る口調と声で説明を始めるが、魔鋼製であるという戦闘用魔導人形バトルゴーレムの胴体に残された切断面に目を向けて小首を傾げた。

「これって、“消滅エクスティンクション”の跡だよね?」

 顔を上げた玲奈が「相変わらず綺麗だけど……」と仁を窺い見る。上目遣いの玲奈は相変わらずの可愛さだったが、仁は目の前の玲奈は玲奈ではないと自身に言い聞かせる。ともすると玲奈を玲奈だと思ってしまいたい気持ちに呑まれそうになる自分に辟易すると、仁の心の底の黒い感情たちが、もぞもぞと蠢いた。

「そうだけど……」

 仁が暗い顔をしかめつつ頷けば、玲奈は再び首を捻った。

「ということは、ちゃんと魂喰らいの魔剣ソウルイーターを使ったっていうことだよね? だからこそ“消滅エクスティンクション”が使えたっていうことだと思うんだけど、じゃあ、何で……?」

 玲奈が、ますます首の傾きを深くする。仁は玲奈が何を言わんとしているのかわからなかったが、魔導石を用いて何らかの譲歩を引き出さなければならないと思い出し、仁から視線を外してぶつぶつと独り言を言っている魔王妃に呼びかける。

「ナーシャ」

 その瞬間、玲奈が勢いよく顔を上げた。仁の大好きな玲奈の顔に浮かんだ感情が、驚きから歓喜へと変わっていく。仁はその反応に驚きながら、今、自分は何と呼んだのかと頭の中で自身に問いかけるが、答えは出なかった。

 困惑する仁を、玲奈が強く抱きしめた。

「ジーク。ううん、仁くん。もうどっちでもいいや! 大好き!」

 突然の告白と、間近に感じる玲奈の息遣いに、仁の頭が真っ白になる。直後、仁は「これは玲奈じゃない、玲奈じゃない」と脳内で繰り返し、乱れた心のまま玲奈の両肩を掴んで強引に引きはがした。

 玲奈の不満げに唇を尖らせる様から目を逸らしながら、仁は今度こそ魔王妃に要望を突き付ける。

「魔王妃。魔導石が欲しかったら、ルーナたちを解放してほしい」

 仁は“消滅エクスティンクション”を用いなければ傷一つ付けられなかった事実を盾に、魔王妃にルーナリアとヴォルグ、そして二人と魔王妃自身の世話役を命じられているシルフィの解放を訴える。

 魔剣から得た膨大な魔力のおかげか、仁は以前使用できなかった“消滅エクスティンクション”が使えたものの、実のところ、魔導石だけを避けて他を消し去るほどコントロールできる自信はなかった。

 それでも、そんな事実は魔王妃に知るよしはないのだからと、仁は主張を押し通さんと魔王妃を睨みつける。

 魔王妃が玲奈の体をそうやすやすと手放すとは思えなかったが、だからこそ、魔王妃が玲奈の体を使って仲間を、誰かを傷付ける可能性をできる限り低くしたかった。もちろん、ルーナリアたちの安全のためにもだ。

 仁は一歩も引く気はないという意志を瞳に込める。対する玲奈は、きょとんとした後、小さく噴き出した。

「な、何がおかしいんだ……!」

 くすくすと笑う玲奈が唐突に振り返り、腰から剣を抜き放った。火竜鱗の剣を無雑作に振りかぶる玲奈に、仁はビクッと身を震わせる。玲奈はそのまま真っ直ぐに剣を振り下ろし、戦闘用魔導人形バトルゴーレムの胴体部分を中心から少しだけ逸れた辺りで二つに切り分けた。

「な……!」

 目を見開いて驚愕する仁を一顧だにせず、玲奈はそのまま赤い剣を横に薙いだ。玲奈は腰の鞘に剣を収めると、金属の上部に両の手のひらを押し当てる。玲奈が「よいしょっ」と掛け声をかけながら両手に体重をかけ、黒い金属の蓋をずらして床に落とした。

 次に玲奈は僅かに小さい右の金属塊を押しやり、両の切断面が交差した辺りに手を伸ばす。

「はい、これは何でしょう?」

 玲奈の手に、虹色に輝く水晶のようなものが握られていた。玲奈がこれ見よがしに見せつけるそれを、仁は見開いた目で食い入るように見つめた。

「それが、魔導石……」

 仁の呟きに、玲奈が満面の笑みで応じた。魔鋼は魔力を込めれば込めるだけ硬くなって魔法にも強くなるのだと得意げに解説する玲奈の表情は、仁を小馬鹿にするようなものではなく、悪戯に成功したときのような子供っぽいものだった。

「仁くん。ありがとう」

 嬉しそうに玲奈が魔導石を胸に掻き抱き、仁は己の目論見が桜の花よりも早く散ってしまったことに思い至る。交渉と同時に戦闘用魔導人形バトルゴーレムの胴体をアイテムリングに戻すべきだったと後悔した仁は、思わず玲奈の胸元に手を伸ばした。

「きゃっ。仁くんの、えっち」

 わざとらしく身を引いた玲奈に、仁は慌てて自身の手を引き戻す。いつか聞いたセリフだった。仁の顔が絶望に染まる。仁の心の奥底から、黒い感情が鎌首をもたげた。

「もうっ。仁くん、そんな顔しないで」

 困り顔をした玲奈が首を小さく傾げ、可愛らしく「うーん」とうなる。

「仁くんも頑張ってくれたんだし、ご褒美をあげないとね。そうだなぁ……。仁くんが私と一緒に暮らしてくれるなら、ルーナとヴォルグさんは解放してもいいよ。二人が騒いで私の邪魔をするなら許さないけど」

 もしルーナリアたちがアシュレイやミルらに魔王妃のことを話して対抗の姿勢を示した場合、街中に大量の眷属を召喚すると屈託のない笑みで続ける玲奈に、仁は吐き気を感じて胸を強く抑えた。

 魔王妃が玲奈の顔と声で、この体ならメルニールを落としたとき以上の戦力を召喚できると告げる。

 その無情な宣告は、仁を絶望の淵へと追いやった。本当にルーナリアとヴォルグを解放してもらえるのであれば仁にとって悪いことではないが、結局のところ、街にいる人たち全てが人質のようなものなのだ。

 それでも、ルーナリアとヴォルグが牢に囚われているよりは余程良いと、仁は震える体で魔王妃に頭を下げる。

「シルフィさんも解放してほしい」

 そう頼み込む仁に、特にシルフィに思い入れがあるとは思えない魔王妃が、仁の予想に反して難色を示した。

「うーん、どうしようかなぁ……」

 人差し指を頬に当てて考え込んでいた玲奈が、突然、さも良いことを思い付いたと言わんばかりに、七色の魔導石にも負けないくらい瞳を輝かせた。

「うん、いいよ。やっぱりシルフィさんも解放してあげる。でも、その代わり――」

 玲奈が意味ありげな視線を仁に寄越す。仁を試すような、挑発するような、それでいてどこか艶やかな、心の底から楽しそうな視線だった。

「仁くんが私のお世話をしてね。もちろん、着替えやお風呂や、夜のお世話も、ね!」
「な……!?」

 絶句する仁に、玲奈は「だって、仁くんは私の奴隷なんだから!」と満面の笑みで告げたのだった。
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