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第二十章

20-21.無力

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 なぜ玲奈を一人で行かせたのか。なぜサラからのシグナルを軽視してしまったのか。仁の怒りに満ちた心の内に深い後悔の念が入り込む。そして、それは自己嫌悪となって仁の心に真っ黒な影を落とした。

 言い訳ならある。仲間たちの誰もが魔王妃の魂はメルニールのユミラに憑りついていると信じていたのだ。玲奈やミルたちの目の前で、魔王妃の眷属たる恐るべき鉤爪テリブルクローに騎乗したユミラが、同じく眷属である刈り取り蜥蜴リープリザードを召喚して見せたのだから、疑うという方が難しいというものだ。

 事実、仁もその話を聞いて、サラ不在によるルーナリアへの疑惑も一蹴してしまった。今思い起こせば、ほんの僅かだけルーナリアらしからぬ言動があったような気もするが、それをもってルーナリアに魔王妃の魂が憑りついていると断じられるようなものではなかった。何より、シルフィが間近で接しても違和感を覚えないくらいにはルーナリアはルーナリアだった。

 しかし、魔王妃は簡単には本人と見分けがつかないくらい上手くなりきるという話は聞いていたのだ。

 仁は奥歯を強く噛みしめる。

 玲奈を守ると息巻いていたにもかかわらず、玲奈が魔王妃の魂に憑りつかれるなど、仁はどんな理由を並べようと自分を許せそうになかった。

「ジン……冷静に……。レナに、魔王妃に手を出せば、あなたの記憶が……」

 息も絶え絶えに発せられたルーナリアからの警告が、怒りで茹で上がった仁の頭に冷水を浴びせた。仁はハッと息を呑み、以前、コーデリアに召喚された際のことを思い出す。

 あのとき、初対面のコーデリアを気絶させようとした仁は、召喚魔法陣に含まれる隷属魔法の効果によって記憶を封じられてしまったのだ。その後、いくつかの偶然を経て自身の力で隷属を解いて記憶を取り戻したが、そのときの記憶が無くなれば、当然ながら同様の手法を試すこともできなくなってしまう。

 仁は呆然と立ち尽くす。ただでさえ玲奈の体を傷付けたくないというのに、拘束しようとすることすらできない可能性があるのだ。隷属魔法がどの程度まで奴隷の反抗を許しているかわからないが、記憶を失う恐れがある以上、仁にできることは何もなかった。

 もし魔王妃に乗っ取られた玲奈に記憶を失った仁が盲目的に従ってその力を振るえば、おそらく仲間たちの誰にも止められはしない。

 唯一希望があるとすれば、仁は自力で自分にかけられた魔法陣の隷属魔法を解くことができるかもしれないということだ。それができれば、記憶を失うことなく魔王妃に対抗できる可能性はある。

 ただし、以前のコーデリアがそうだったように、隷属状態が解除されたことはあるじに知られてしまうため、ここぞという場面でしか試みることはできない。そして、今のところ、そういった場面が訪れる未来が仁にはまったく想像できなかった。

 仁が絶望に支配されつつ玲奈を窺い見れば、玲奈は、さも残念だと言わんばかりに肩を落とした。

「仁くんって私のことになると考えなしになっちゃうところがあるから、怒らせれば手を出してくれると思ったんだけどなぁ」

 返す言葉が見つからず、仁は無力感にさいなまれながら、ただただ玲奈を見つめることしかできない。

「あ。それとも別の意味でなら手を出してくれるのかな?」

 玲奈が小首を傾げ、妖しく微笑む。男に媚びるような声と仕草。普段の玲奈が絶対にしないようなその声と姿が、玲奈が玲奈ではないという事実を仁に突き付ける。

 仁はチラリと背後を振り向く。ルーナリアはかなり衰弱した様子ではあるものの、魔王妃から解放されて元に戻っているようだった。

 既にルーナリアに魔王妃の魂が乗り移っていたと推測される魔の森での遭遇時点で、ユミラがなぜ自身を魔王妃であると仄めかし、眷属召喚が使えたのかは不明だが、魔王妃の魂が増殖、または分裂して居座るようなことがないのであれば、玲奈を救う手立てはきっとある。

 仁はくじけている場合ではないと自身を叱咤する。

「ああ、ジンくん。ルーナが気になる? ルーナなら大丈夫だよ。ちょっと魔力をもらっただけだから」
「もらった……?」
「うん。この体、本当にすごいね。昔の私にはそんなことできなかったもん」

 確かに他者の魔力と親和性の高い玲奈に、魔法修得に苦戦しているリリーの一助となるかもしれないからと魔力譲渡の逆はできないか持ち掛けたことはある。もちろん、仁自身や他の人が玲奈の魔力貯蔵庫の役目を担うことができるようになることもメリットの一つだと考えていたが、他者が衰弱するまで強制的に魔力を奪い取ることは想定していなかった。

 以前、仁がドラゴンに対して“消滅エクスティンクション”の魔法を使ったときのように、魔力の枯渇は命にかかわるのだ。

 おそらく接触しなければ使われることはないだろうが、もし玲奈が、魔王妃が既にその技術を技能化しているのであれば、僅かな時間で魔力を根こそぎ奪われてしまう恐れがある。

「あ。でも、心配しなくていいよ。仁くんが私のお願いを聞いてくれるなら、誰も殺したりしないから」

 愕然とする仁に、玲奈が追い打ちをかける。決して玲奈に危害を加えられない状況で、更にルーナリアや仲間たちを人質にされてしまったのだ。

 いや、それだけではない。例えば見ず知らずの人や、それこそ敵対している帝国軍の騎士や兵士でさえ、玲奈に殺してほしくないと思っている仁にとって、それは奴隷である自身を傷付けられるよりも効果的な脅しとなった。

 例え実行したのが魔王妃だったとしても、玲奈が気に病まないはずがない。仁は「今のところは」とニッコリと付け加える玲奈に逆らうことなどできないと心の中で白旗を上げるしかなかった。

「お願いって、俺に何をさせる気?」

 無力感が全身を満たし、仁は立っているのがやっとの状態になりながら、かすれた声で尋ねた。

「そんなに難しいことじゃないよ。というか、仁くんが悪いんだよ? ルーナからお願いされたのに、全然真剣に取り合わないんだから」

 玲奈が人差し指を立て、「メッ」と叱るように言った。仁はその玲奈がしそうな仕草に目を覆いたくなるが、思考停止はダメだと、ほとんど尽きている気力を振り絞って無理やり脳を働かせる。

「ルーナから……?」

 ルーナリアから頼まれていたことと言えば、魔導石の件以外、心当たりがなかった。今となってはルーナリアというよりルーナリアの体を奪っていた魔王妃からの依頼だったということは想像に難くないが、魔王妃が仁や玲奈を元の世界に戻すために魔導石を欲したとは思えない。その理由自体が嘘だったのか、それとも。

「まさか、玲奈ちゃんの体を奪って、俺たちの元々いた世界に行くつもりか!?」

 ぞわっと全身の毛が逆立つような感覚が仁を襲った。しかし、戦々恐々として玲奈を見れば、何を言っているんだと言いたげに、きょとんとした表情をしていた。

「うーん。それもいいかもしれないけど、とりあえずは違うかな?」

 玲奈が、いっそ憎らしいくらいに可愛らしく小首を傾げる。仁が魔導石を求める理由を尋ねると、玲奈は「内緒」と語尾に音符でも付きそうな調子で答えた。

「そうだなぁ。3日以内に持ってきてくれたら理由を教えてあげるよ。その代わり――」

 仁は固唾を呑んで続く言葉に耳を傾ける。

「もし間に合わなかったり、アシュレイさんとかに告げ口したり、隷属を勝手に解除したり、私の邪魔をするようなら、ルーナかシルフィさん、それかヴォルグさんの誰かを殺しちゃうから気を付けてね」

 天使のような悪魔の微笑みで、何でもないことのように殺人を仄めかす玲奈に、仁は愕然としながらも頷く以外の選択肢を持ち得なかった。
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