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第十八章
18-18.波
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「あれ?」
ラインヴェルト城と湖を繋ぐ門の辺りでしばらく見張りを続けていた仁が、オニキスの背の上で訝し気に顔を顰めた。
『主。どうかしましたか?』
「いや、見間違いかもしれないけど、湖が波打ってない?」
仁がオニキスに少し近付くように指示を出す。湖の中からの襲撃に警戒しつつ、オニキスがゆっくりと歩を進めた。
「やっぱり……!」
静かだった湖面に、微かな、それでいて確かな波が、湖の奥から伝わってきていた。馬上から見下ろす仁の視線の先で、ほんの小さな波が陸と湖の境に到達しては消えていく。
取り立てて強風が吹いているわけでもなく波立つ湖。普段ではありえない目の前の状況に、仁はかつてグレンシール王国の扱いに怒った湖の主が平穏な湖を波立たせたという逸話を思い出す。
もしや、長い眠りについていた湖の主が目覚めたのではないか。仁がそう考える僅かな間に波がどんどん大きくなり、湖面が荒れ模様を見せていた。
『あ、あ、あ、主……!』
仁と同じく湖面に視線を向けていたオニキスが、勢いよく顔を跳ね上げた。オニキスの驚愕と困惑が、念話と同時に仁の心に響く。
仁は、どうしたかと問う気にはならなかった。身の毛もよだつ強烈な存在感が、暴風のように襲い来る。
湖の奥。湖面から激しい水しぶきが立ち上り、その中央に緑がかった灰色の尖塔がそそり立っていた。生きた塔は自身が生物であることを示すが如くその先端を真っ二つに分け、直前に湖面より跳び上がった魚人族と思しき人影をぱっくりと捕らえた。再び1つの塔となった爬虫類染みた巨体はそのまま水中に沈み、水柱と大きな波を生み出す。
「巨大な、ワニ……」
遠目に見ただけで断定できないが、仁の目にはその巨大な生物が元の世界のワニのように映った。殺人鰐がいるのだから鰐型の魔物がいるのはおかしなことではない。しかし、大きさの差によるインパクトは圧倒的だった。
殺人鰐が5メートル超であるのに比べ、魚人族を飲み込んだ巨大ワニの体長は、少なく見積もっても10メートルを超えているように思えた。
水柱が消え、巨大ワニは再び姿を現すことはなかったが、尚も荒れ続ける湖面が水中で大質量の蠢く様を想起させ、今のが見間違いではないことを如実に示している。
一瞬呆然とした仁だが、自身の口から零れ出た言葉にハッとし、即座にメーアの元に戻るよう愛馬に指示を出す。オニキスが馬首を返し、一気に加速した。あっという間に門を越えて転身し、地面を滑るように急ブレーキをかける。
「ジン殿!?」
『勇者のお兄ちゃん?』
不測の事態が起こったことを察したのか、ロゼッタが険しい顔で出迎えた。メーアは綺麗な顔に困惑を浮かべ、ガーネットは巨大ワニの放った強烈な存在感に気付いたのか、ソワソワしつつも臨戦態勢をとっていた。
『メーア、主は鰐型の魔物じゃないよね!?』
仁が鬼気迫った表情で勢い込むと、メーアは戸惑いながらも首を横に振った。巨大ワニが魚人族を襲っていたことから、仁はそうだろうと思ってはいたが、それでも問わずにはいられなかった。
予想通りの答えに仁が奥歯を噛みしめる。メーアはそんな仁に、湖の主はドラゴンのような姿だと告げた。
仁の知るこの世界に実在するドラゴンは火竜と炎竜の2種だが、その見た目はどちらもがワニとは明らかに異なっている。知らない記憶の中に見たドラゴンの大軍団を含めても、それは変わらない。
仁は巨大ワニが湖の主かもしれないという小さな可能性を捨て去り、魚人族にとっても仁たちにとっても間違いなく敵であると断定する。素直に考えれば殺人鰐の仲間だとするのが妥当だった。
以前、魔の森を席巻した猪豚人間を上位種が率いていたように、巨大ワニが殺人鰐の群れのリーダーなのだろうと仁は当たりを付ける。
「ロゼ。メーアを連れて、ここから離れてほしい」
メーアを抱き抱えたままではロゼッタが満足に戦えるはずがなく、仁はガーネットに護衛を頼む。
何が起こったのか問うロゼッタに、仁は魚人族が巨大な鰐型の魔物に襲われていたとだけ簡潔に告げた。仁は通訳してほしいと願うメーアに伝えるべきかどうか逡巡するが、そのまま魚人族の言葉で繰り返す。メーアが目を見開いた。
「ジン殿は戦われるおつもりですか?」
仁は眉間に深い皺を作りながら頷く。陸上ならともかく、水中にいる魔物を相手にどう戦えばいいのか、仁には皆目見当がつかなかった。
もし巨大ワニが水中で戦い続けた場合、仁が残っても何もできないかもしれない。しかし、それでも陸に上がってくる可能性がある以上、この場を離れるわけにはいかなかった。あの巨大ワニがこの後どこまで生息圏を広げるつもりかわからないが、野放しにしたままではエルフの里の人々の移住計画を進めることなどできはしない。
仁の頼みにすぐに頷いたガーネットと違い、ロゼッタはやや不満げな顔を見せていたが、有無を言わせない仁の気迫に負けて反論の言葉を飲み込んだ。ロゼッタとしてもメーアの身の安全を思えば、自身も残りたいとは言い出せないことは想像に難くない。
『勇者のお兄ちゃん』
ロゼッタに抱えられたメーアが、仁に縋るような目を向けた。
『お兄ちゃんは強いんだよね? お姉ちゃんたち、この街に暮らしていた陸の人たちの希望だったんだよね?』
守れなかった仁はその言葉に頷くことができない。唇を噛みしめて一文字に結んだ仁の様子に、メーアが瞳を潤ませる。
『お願い、お兄ちゃん。みんなを助けて……』
僅かな波音にも掻き消されてしまうような小さな声。
魚人族の女性も戦えないわけではないが、男性と比べて戦闘力が大幅に劣る。巫女の一族であるメーアも例外ではない。そのため、メーア自身が駆け付けたところで何もできないばかりか、戦闘の邪魔にしかならない。
それがわかっているからこそ、メーアは自身が到底敵わないであろう相手と戦ってくれるように望むことの身勝手さを理解した上で、それでも仲間たちを守るためには他者に縋るしかなかった。そんな想いが仁の心を動かす。
仁は胸を張り、真摯な瞳でメーアを見つめ返した。
『正直、水中の魔物を相手に魚人族の手助けがどこまでできるかわからない』
仁は元々魚人族を助けたいと思っていたが、どちらかというと自身の役目は巨大ワニを陸上に上げないこと、もしくは陸に上がったときだと考えていた。
しかし、もし巨大なワニの魔物が水中から出てこなくても、どうにかして戦う術を考えなければならないと強く思う。だから仁は宣言する。
「それでも、俺は全力を尽くすよ」
メーアの目尻から涙が流れ落ちた。
『お願い、します……』
そう言い残し、メーアはロゼッタに抱えられてこの場を後にした。
「オニキスもメーアとロゼッタの護衛をお願いしようか迷ったんだけど」
仁がオニキスに桟橋の手前まで戻るように指示しながら告げると、オニキスは『ボクは主と一緒に戦えるのは嬉しいですよ』と念話で返す。
『主。知ってますか? ボク、泳ぎは得意なんです』
仁はそっと逞しい首筋に手を置いて、ありがとうと伝える。仁が冗談だと捉えたと思ったのか、オニキスは『本当ですよ!?』と繰り返した。
馬や馬の魔物が得意なのか、オニキスだけが特別なのか仁には判断できなかったが、少なくともオニキスが湖の毒に耐えられるとわからない以上、その手は使えない。
「さて。メーアに、ああは言ったけど、どうしたものか……」
頼もしい黒い馬体に跨ったまま桟橋の手前まで戻ってきた仁は、荒れた湖を見つめる。その先で、再び巨大ワニが水上に顔を見せた。遠目ではっきりとは観察できないが、口先が逆V字に尖っている殺人鰐と違い、先端が膨らみ、丸みを帯びているように見えた。
仁の左目が青白い光を放つ。
巨大ワニが再び水中に消えるまでの僅かな時間。仁の鑑定の魔眼が、体長10メートルを優に超える巨大な鰐型の魔物の正体を暴き出した。
ラインヴェルト城と湖を繋ぐ門の辺りでしばらく見張りを続けていた仁が、オニキスの背の上で訝し気に顔を顰めた。
『主。どうかしましたか?』
「いや、見間違いかもしれないけど、湖が波打ってない?」
仁がオニキスに少し近付くように指示を出す。湖の中からの襲撃に警戒しつつ、オニキスがゆっくりと歩を進めた。
「やっぱり……!」
静かだった湖面に、微かな、それでいて確かな波が、湖の奥から伝わってきていた。馬上から見下ろす仁の視線の先で、ほんの小さな波が陸と湖の境に到達しては消えていく。
取り立てて強風が吹いているわけでもなく波立つ湖。普段ではありえない目の前の状況に、仁はかつてグレンシール王国の扱いに怒った湖の主が平穏な湖を波立たせたという逸話を思い出す。
もしや、長い眠りについていた湖の主が目覚めたのではないか。仁がそう考える僅かな間に波がどんどん大きくなり、湖面が荒れ模様を見せていた。
『あ、あ、あ、主……!』
仁と同じく湖面に視線を向けていたオニキスが、勢いよく顔を跳ね上げた。オニキスの驚愕と困惑が、念話と同時に仁の心に響く。
仁は、どうしたかと問う気にはならなかった。身の毛もよだつ強烈な存在感が、暴風のように襲い来る。
湖の奥。湖面から激しい水しぶきが立ち上り、その中央に緑がかった灰色の尖塔がそそり立っていた。生きた塔は自身が生物であることを示すが如くその先端を真っ二つに分け、直前に湖面より跳び上がった魚人族と思しき人影をぱっくりと捕らえた。再び1つの塔となった爬虫類染みた巨体はそのまま水中に沈み、水柱と大きな波を生み出す。
「巨大な、ワニ……」
遠目に見ただけで断定できないが、仁の目にはその巨大な生物が元の世界のワニのように映った。殺人鰐がいるのだから鰐型の魔物がいるのはおかしなことではない。しかし、大きさの差によるインパクトは圧倒的だった。
殺人鰐が5メートル超であるのに比べ、魚人族を飲み込んだ巨大ワニの体長は、少なく見積もっても10メートルを超えているように思えた。
水柱が消え、巨大ワニは再び姿を現すことはなかったが、尚も荒れ続ける湖面が水中で大質量の蠢く様を想起させ、今のが見間違いではないことを如実に示している。
一瞬呆然とした仁だが、自身の口から零れ出た言葉にハッとし、即座にメーアの元に戻るよう愛馬に指示を出す。オニキスが馬首を返し、一気に加速した。あっという間に門を越えて転身し、地面を滑るように急ブレーキをかける。
「ジン殿!?」
『勇者のお兄ちゃん?』
不測の事態が起こったことを察したのか、ロゼッタが険しい顔で出迎えた。メーアは綺麗な顔に困惑を浮かべ、ガーネットは巨大ワニの放った強烈な存在感に気付いたのか、ソワソワしつつも臨戦態勢をとっていた。
『メーア、主は鰐型の魔物じゃないよね!?』
仁が鬼気迫った表情で勢い込むと、メーアは戸惑いながらも首を横に振った。巨大ワニが魚人族を襲っていたことから、仁はそうだろうと思ってはいたが、それでも問わずにはいられなかった。
予想通りの答えに仁が奥歯を噛みしめる。メーアはそんな仁に、湖の主はドラゴンのような姿だと告げた。
仁の知るこの世界に実在するドラゴンは火竜と炎竜の2種だが、その見た目はどちらもがワニとは明らかに異なっている。知らない記憶の中に見たドラゴンの大軍団を含めても、それは変わらない。
仁は巨大ワニが湖の主かもしれないという小さな可能性を捨て去り、魚人族にとっても仁たちにとっても間違いなく敵であると断定する。素直に考えれば殺人鰐の仲間だとするのが妥当だった。
以前、魔の森を席巻した猪豚人間を上位種が率いていたように、巨大ワニが殺人鰐の群れのリーダーなのだろうと仁は当たりを付ける。
「ロゼ。メーアを連れて、ここから離れてほしい」
メーアを抱き抱えたままではロゼッタが満足に戦えるはずがなく、仁はガーネットに護衛を頼む。
何が起こったのか問うロゼッタに、仁は魚人族が巨大な鰐型の魔物に襲われていたとだけ簡潔に告げた。仁は通訳してほしいと願うメーアに伝えるべきかどうか逡巡するが、そのまま魚人族の言葉で繰り返す。メーアが目を見開いた。
「ジン殿は戦われるおつもりですか?」
仁は眉間に深い皺を作りながら頷く。陸上ならともかく、水中にいる魔物を相手にどう戦えばいいのか、仁には皆目見当がつかなかった。
もし巨大ワニが水中で戦い続けた場合、仁が残っても何もできないかもしれない。しかし、それでも陸に上がってくる可能性がある以上、この場を離れるわけにはいかなかった。あの巨大ワニがこの後どこまで生息圏を広げるつもりかわからないが、野放しにしたままではエルフの里の人々の移住計画を進めることなどできはしない。
仁の頼みにすぐに頷いたガーネットと違い、ロゼッタはやや不満げな顔を見せていたが、有無を言わせない仁の気迫に負けて反論の言葉を飲み込んだ。ロゼッタとしてもメーアの身の安全を思えば、自身も残りたいとは言い出せないことは想像に難くない。
『勇者のお兄ちゃん』
ロゼッタに抱えられたメーアが、仁に縋るような目を向けた。
『お兄ちゃんは強いんだよね? お姉ちゃんたち、この街に暮らしていた陸の人たちの希望だったんだよね?』
守れなかった仁はその言葉に頷くことができない。唇を噛みしめて一文字に結んだ仁の様子に、メーアが瞳を潤ませる。
『お願い、お兄ちゃん。みんなを助けて……』
僅かな波音にも掻き消されてしまうような小さな声。
魚人族の女性も戦えないわけではないが、男性と比べて戦闘力が大幅に劣る。巫女の一族であるメーアも例外ではない。そのため、メーア自身が駆け付けたところで何もできないばかりか、戦闘の邪魔にしかならない。
それがわかっているからこそ、メーアは自身が到底敵わないであろう相手と戦ってくれるように望むことの身勝手さを理解した上で、それでも仲間たちを守るためには他者に縋るしかなかった。そんな想いが仁の心を動かす。
仁は胸を張り、真摯な瞳でメーアを見つめ返した。
『正直、水中の魔物を相手に魚人族の手助けがどこまでできるかわからない』
仁は元々魚人族を助けたいと思っていたが、どちらかというと自身の役目は巨大ワニを陸上に上げないこと、もしくは陸に上がったときだと考えていた。
しかし、もし巨大なワニの魔物が水中から出てこなくても、どうにかして戦う術を考えなければならないと強く思う。だから仁は宣言する。
「それでも、俺は全力を尽くすよ」
メーアの目尻から涙が流れ落ちた。
『お願い、します……』
そう言い残し、メーアはロゼッタに抱えられてこの場を後にした。
「オニキスもメーアとロゼッタの護衛をお願いしようか迷ったんだけど」
仁がオニキスに桟橋の手前まで戻るように指示しながら告げると、オニキスは『ボクは主と一緒に戦えるのは嬉しいですよ』と念話で返す。
『主。知ってますか? ボク、泳ぎは得意なんです』
仁はそっと逞しい首筋に手を置いて、ありがとうと伝える。仁が冗談だと捉えたと思ったのか、オニキスは『本当ですよ!?』と繰り返した。
馬や馬の魔物が得意なのか、オニキスだけが特別なのか仁には判断できなかったが、少なくともオニキスが湖の毒に耐えられるとわからない以上、その手は使えない。
「さて。メーアに、ああは言ったけど、どうしたものか……」
頼もしい黒い馬体に跨ったまま桟橋の手前まで戻ってきた仁は、荒れた湖を見つめる。その先で、再び巨大ワニが水上に顔を見せた。遠目ではっきりとは観察できないが、口先が逆V字に尖っている殺人鰐と違い、先端が膨らみ、丸みを帯びているように見えた。
仁の左目が青白い光を放つ。
巨大ワニが再び水中に消えるまでの僅かな時間。仁の鑑定の魔眼が、体長10メートルを優に超える巨大な鰐型の魔物の正体を暴き出した。
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