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第十六章

16-3.夜勤

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 リリーたちが故郷を発った頃、メルニールにはどこか暗い雰囲気が漂っていた。殺人蟻キラーアントの氾濫の傷跡が癒えきっていないのもあるが、それ以上に、冒険者ギルドからの内々の通達による影響が大きかった。

 ルーナリアから仮説を聞いたバランが各ギルドの長などの街の代表者を集めて協議した結果、表立った行動は慎むことになった。帝国の間者が紛れ込んでいる可能性が高いことや、確証のない話で無用な混乱を招くわけにはいかないとの判断だった。

 かといって、ルーナリアからの警告を無視するわけにはいかない。何の対策も取らないまま戦端が開かれれば、被害は計り知れないものになる。ルーナリアによれば帝国軍がかつての規模の軍を動かすことはできないとのことだが、その代わりに未知の魔物を尖兵としているかもしれないとなれば、決して侮ることはできない。

 それどころか、現有するメルニールの戦力で太刀打ちできるのか、はなはだ疑問が残る。だからこそ、代表者会議に参加した者たちはそれぞれのギルド構成員や家族、知人らに内密に知らせ、メルニールを離れる選択肢を与えたのだ。

 それにより、メルニールに残るか、どこか別の場所へ避難するか、メルニールの住人の多くはそもそも帝国再侵攻の話を信じるかどうかということも含め、頭を悩ませることになった。

 ただ、メルニールの他に身寄りのないものも多く、彼らは不安を胸に抱きつつも、その説が外れることを祈って普段通りの生活を送るしかなかった。それに、絶対攻めてくるという確証のある話ではないため、メルニールに生活の基盤を置く大半のものたちも家族総出で逃げ出すようなことはできないでいた。

 そうした中、リリーはルーナリアから仁に所縁ゆかりのある人々に避難を促すよう頼まれたのだった。

 リリーは本音では家族や商会の皆も連れて行きたかったが、従業員だけでもかなりの数になる上に、その家族までとなっては土台無理な話だった。悩むリリーはマルコや両親に諭され、従業員に関しては大人たちに任せることにした。

 他にも、赤子の世話をしなければいけないココの叔母や、鳳雛亭を放置できないフェリシアもリリーの説得に応じず、メルニールに残ることを選んだ。

 それは、もしメルニールが帝国の手に落ちても、今まで通りとは行かないまでも無事暮らしていけるという希望的観測もあっての判断ではあったが、戦争に負けてもすべてが奪われるとは限らないのは確かだ。

 帝国がメルニールを狙う理由はダンジョン――もっと言えばそこから安定的に排出する魔石――だろうが、街が機能していなければそれは叶わない。

 冒険者や探索者がいなければ魔石は取れないし、彼らの生活を支える者たちがいなければ街は機能しないのだ。

 そうしたことからも、思うようにリリーの説得は進まなかったが、あまり人数が多くても問題が出てくるため、リリーは不安を抱きながらも、仕方がないと思うことにしたのだった。

 そして、仁の友人を自認するヴィクターも、メルニールに残ることを決めた一人だった。



「なあ、ヴィクター。その、ジン――さんは戻ってこないのか?」

 リリーたちがこっそりと旅立った翌朝、交代で門番を務めることになっている中年の冒険者が申し訳なさそうにヴィクターに尋ねた。

「さあ。でも、もし僕がジンくんの立場だったなら、頼まれても戻って来ないだろうね」
「そ、そうか……」

 ヴィクターが無表情で告げると、冒険者はヴィクターの視線から逃れるように顔を伏せ、横を通り過ぎていった。その冒険者はユミラや帝国の間者の流した根も葉もない噂を信じて仁を悪し様に罵っていたものの一人だった。

 仁たちがメルニールを去ってからは流石にやり過ぎだったと思ったのか、顔を合わせたヴィクターに謝罪してきたが、謝罪をする相手が違う上に、今更遅いとヴィクターは憤ったわけだが、帝国の再侵攻の可能性が囁かれている今、後悔も一入ひとしおだろうと容易に想像できた。

 ヴィクターは小さく息を吐く。

「リリーや僕らが助けを求めれば、きっとジンくんなら危険を顧みず助けに来てくれそうだけど」

 ヴィクターはここにはいない友人の顔を思い浮かべ、苦笑した。リリーだけでなく自分も含めたのは、仁の側も友人だと思っていてくれているだろうと思ってのことだった。

 以前、人質を取られたからとはいえ、仁を騙したことのあるヴィクターは友人を名乗るなど烏滸おこがましいという思いもあったが、仁を友人だと思う気持ちに偽りはない。

 そして、ヴィクターは異世界からやってきた友人にとって、メルニールがこの世界での居場所になってほしいと願っていた。悪意ある噂のせいでメルニールを去ることになった友人たちに、ヴィクターは誓ったのだ。噂を消し、仁たちが再び戻ってきてくれるのをメルニールで待つと。

 だからこそ、ガロンたちと一緒に護衛をしてほしいと言ってきたリリーの頼みを断って、ヴィクターはメルニールに残ることを決めたのだ。よくサポーターをしてくれる子の一人がリリーの誘いを蹴って一緒に残ると言い出したのには驚いたが、後悔はしていない。

「ジンくん。ファムやキャロルのことをよろしく頼むよ」

 門を振り返り、その先の彼方にいるであろう仁に向けて告げると、リリーたち一行の無事を祈りつつ、ヴィクターは大通りへと足を踏み出した。

 不安はある。玲奈やミルたちでさえ苦戦したという魔王妃の眷属が本当に帝国軍の一員として襲ってきた場合、おそらくヴィクターでは相手にならない。数で当たるしか勝ち目はないが、その数が用意できるかどうかという問題もあった。

 表立っての行動は自粛するようきつく言われているため、冒険者たちはあからさまに逃げ出すようなことはしていないが、メルニールから去ることは禁じられてはいない。帝国が攻めてくるまで後どれくらいの猶予があるか不明だが、少しでも多くの戦力が残ることを祈りながら、ヴィクターは仮眠をとるために宿に向かった。



 その後、何事もなく数日が過ぎ去った。暗い雰囲気は相変わらずだが、何となく弛緩した空気も漂い始めているようにヴィクターは感じていた。

 人は総じて今という日がいつまでも同じように続いていくのだと思い込む傾向がある。そして、いつもの日常が理不尽に破壊されたとき、そんなものは錯覚だったのだとようやく悟るのだ。



 平和条約を結んでいる帝国が再び襲ってくるわけがない。

 ――相互不可侵の取り決めを破った帝国が、なぜ今度は条約を守ると思うのか。

 以前、完敗した帝国がそう簡単に攻めてくるとは思えない。

 ――その帝国軍をほとんど一人で撃退した仁を追い出しておいて、どの口が言うのか。



 ヴィクターは内心で怒りを覚えていたが、その感情を表に出すことはしない。バランやルーナリアを中心に、いろいろと陰で動いているものたちがいることを知っているヴィクターは、自身のできることをしようと、毎日、朝から門番の任に就いていた。

 リリーたちを送り出した日は例外だったが、ルーナリアからバラン経由で伝え聞いた魔物の情報から推察するに、ヴィクターは日中の門の開いているときに奇襲をかけられるのが一番危険だと思っていたのだ。

 常軌を逸した脚力で門を閉じる前に飛び込まれないよう、ヴィクターは身分証の確認などの通常業務を行いながらも、遠くから迫るものがいないか目を皿のようにして警戒していた。

 そして、ある晩。急遽体調を崩した知り合いの冒険者に頼まれ、ヴィクターは北門の夜勤に就いた。ヴィクターは翌日も西門の門番の予定が入っていたが、そちらと交代してもらった形だ。

 ヴィクターとしては日中の方が危険だと思っていたが、奇襲と言えば夜が多いことも事実であり、気を引き締める。もっとも、いくら驚異的な跳躍力を持つ魔物と言えど、流石にメルニールの外壁を飛び越えられるとは思えなかった。

 連日気を張っていたことからの疲れもあり、ヴィクターがついつい緩んでしまいそうになる自分自身に喝を入れていると、門の外から何か硬いもの同士がぶつかったかのような音が聞こえてきた。

 ヴィクターが眉をひそめる。音はちょうど門の上の壁辺りから聞こえたような気がした。ヴィクターが何事かと考えている内に、不安を掻き立てる不気味な音が上へと昇っていく。

「まさか!」

 ハッとしたヴィクターが壁の上で見張りをしている同僚に向かって声を張り上げる。ヴィクターと同じ音を聞いていた同僚は、ヴィクターに言われるまま壁の向こう側に顔を出し、下を覗き込んだ。

 その次の瞬間、突然、同僚の冒険者の体が宙に跳ね上がった。

 壁の上を見上げていたヴィクターは、呆然と、壁の内側へ落下してくる同僚を目で追った。意識がないのか、冒険者はそのまま頭から地に落ち、見るも無残な光景を晒した。

 思わず目を覆いそうになったヴィクターだったが、それは許されない。

 冒険者の亡骸の上に、影が降り立った。

 門前を照らす照明の魔道具が照らし出したのは、羽毛を生やした二足歩行の大きな蜥蜴だった。仁の元の世界に暮らす人々なら恐竜と呼ぶであろう陸生大型爬虫類によく似た魔物は、足の親指に、鋭く大きな鉤爪を持っていた。
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