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第十五章

15-9.侮蔑

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「セシル殿。よろしいか?」

 その日の夜更け、ドレックは石灯籠型転移用アーティファクトを囲うように張られた陣の一角にあるセシルのテントの前に立っていた。目の前のテントの隙間から、照明の魔道具の淡い光が漏れている。

 通常、帝国軍の遠征時、隊の指揮官のテントの前には護衛と取り次ぎのために部下が歩哨に立つのだが、魔物の革でできたテントの前には他に誰の姿もなかった。

 この場に陣を張った当初は何と不用心なことかと顔を手で覆ったドレックだったが、今はそれが好都合だとほくそ笑んだ。

「ドレック殿ですか? どうぞお入りください」

 数拍の間の後、テントの中から促され、ドレックは革製の入口を左右に開いてテントの中へと足を踏み入れる。

「ド、ドレック殿。どうかされたのですか?」

 ベッドの前に直立しているセシルが若干焦っているような顔を見せ、ドレックは怪訝そうに目を細めるが、とこに入るところだったのだろうと納得する。兜を除いた甲冑をまとったままだということが引っかかったが、今まさに脱ごうとしていたところだったのであれば何もおかしなことではない。ともかく、それも大事の前の些事さじに過ぎない。

「夜分に失礼する」

 ドレックはぶっきら棒に一言だけ告げると、ずかずかとセシルに歩み寄る。

「ド、ドレック殿?」

 セシルが困惑の表情を浮かべるが、ドレックは構わず距離を詰めた。思わず後ずさったセシルがベッドのへりに足を引っ掛け、背中からベッドに倒れ込む。甲冑の重みも相まってベッドのスプリングが深く沈み込み、木製の脚が軋みを上げた。

「な、何を!?」

 すぐに起き上がろうとしたセシルの肩をドレックが両手で押さえ込む。両者の顔が近付き、セシルは唇をきつく結んで顔を背けた。青い髪の隙間から覗いた小振りの耳に、ドレックの口元が近付いた。

「奴隷風情が、対等な口を利くな」

 ドスの利いた声だった。セシルがビクッと肩を動かす。それと同時にベッドからガタンと音がするが、ドレックはセシルが足をベッドのへりにでもぶつけたのだろうと意に介さない。

「ダ、ダメです……!」
「ダメ、だと? 奴隷風情が上級騎士であるこの私に意見するのか?」

 ドレックが眉間に深く皺を刻むと、セシルはハッとしたような表情を浮かべて、顔を真っ直ぐに上に向けた。

「ドレック殿。あなたがなぜこのようなことをなさるのかわかりませんが、そこを退いていただけませんか? 今なら何もなかったことにできます」
「それはこの私を脅しているのか?」
「そうではありません。私はあなたのためを思って――」

 セシルが言い終えるより早く、ドレックが片手を振り上げて、セシルの頬をかすめるように拳をベッドに叩きつけた。ベッドが大きく揺れた。

「何度言えばわかる? 奴隷如きが、私と対等のつもりか?」
「私は確かに奴隷ですが、奴隷騎士です。奴隷騎士は帝国騎士と同等の権限を有すると定められ――」
「黙れ」

 セシルが言い切る前に、ドレックの低く重い声が遮った。

 そのような戯言は、わざわざ言われずとも百も承知だった。奴隷騎士隊が結成されたと第二皇女からの通達があった際、ドレックは何の冗談かと耳を疑ったのを今でもはっきりと覚えている。

「あ、あなたは帝国の法を犯すつもりですか!」
「黙れと言っている」

 憎しみと怒りに満ちた声音がセシルを押し黙らせる。

「第二皇女殿下のたわむれに付き合うほど、私はおろかではないのだ」

 聞く人が聞けばそれだけで不敬罪で即座に首を刎ねられてもおかしくはない言葉を、ドレックは平然と言ってのけた。ドレックも皇族の間近に仕えるものとして、当然ながら第二皇女に関する宮中の噂を知っている。

 最近こそあからさまな中傷は控えられるようになったが、他者をさげすむ心はそう簡単には変わらない。

 他の皇族に対しては考えられないような態度が第二皇女相手であれば暗黙の了解として許されてしまう空気は、確かにあったのだ。

 自身をキッと睨みつけるセシルを、ドレックは悠然と見下ろす。

「不敬罪で訴えようとしても無駄だぞ? ここには私とお前しかいないのだから、お前の口を封じてしまえば何の問題もない。死人に口なしと昔から言うだろう? だが、その前に……」

 キュッと閉じたセシルの口が、ドレックの嗜虐心に火を点ける。ドレックの口の端が妖しく持ち上がり、顔全体が醜く歪む。

 ドレックはセシルの胸をまさぐるかのように、片手を黒い甲冑の上に這わせた。セシルの頬が引きつる。

「奴隷は奴隷らしく、まずは私の性処理道具にでもなってもらおうか」

 ハッとしたように目を見開いたセシルに、ドレックは気を良くして口角を更に吊り上げた。しかし、セシルが見ていたのはドレックではなかった。セシルの視線は欲望丸出しのドレックの顔を通り過ぎ、その背後に向かっていた。

「まずはこの邪魔な甲冑を剥ぎ取って――」
「ダ、ダメですっ!」

 セシルが叫んだ直後、セシルに覆い被さろうとしていたドレックの体が持ち上がり、そのまま背後に吹き飛んだ。ドレックは背中から地面に叩きつけられ、後頭部をしたたかに打ち付ける。

「ぐっ!」

 ドレックは自身の身に何が起こったのかわからないまま呻き声を上げた。痛みに顔を歪めたドレックの視界に、うねうねとうごめく赤黒い触手のようなものが飛び込んできた。

「……は?」

 初めはセシルが何かしたのかと考えたドレックだったが、濃い赤をこれでもかと凝縮したかのような赤黒い触手の元を視線で辿っていくと、なぜか甲冑に覆われた自身の両の二の腕に行きついた。いや、違う。二の腕はただの通過点に過ぎない。甲冑で一旦途切れた触手はドレックの二の腕を挟んだ反対側から再び伸び、ベッドの下へと続いていた。違う。そうではない。

「なん――」

 ドレックの両目が驚愕で見開かれた。「なんだこれは」と思わず零れ落ちそうになった言葉を言い終えるより先に、ある単純な間違いに思い至ったのだ。

 触手は腕を貫通している。

 その事実にドレックの思考が追い付いたとき、左右の二の腕から、これまでに感じたことのないような激痛が襲い掛かった。

 痛い痛い痛い。ドレックの頭の全てをそれだけが満たしていく。

 痛みにのた打ち回るドレックは、二の腕を貫通していた触手が既に跡形もなく消え失せていることにも、ぽっかりと丸く開いた甲冑から血の一滴も漏れていないことにも、ベッドから起き上がったセシルが困り顔をしていることにも気付かない。

 そしてもちろん、ベッドの下から黒髪の男が這い出てきたことさえも、声無き悲鳴を上げ続けるドレックが気付くことはなかった。
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