甦る妻

星 陽月

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【チャプター 54】

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 中沢は瞼を開けた。
 そこはリビングの中だった。
 灯りがやけに眩しかった。
 その光景がぼやけている。
 意識が薄く、焦点が定まらない。
 首に違和感がある。

(そうか……)

 妖鬼が血を吸いつづけている。
 だが、痛みはない。
 中沢は薄い意識の中で、すべてを思い出していた。

 何もかもを――
 そうだったのか――

 僕は、一度も、妻の礼子を殺してなどいなかった……。
 この僕が、殺されていたんだ……。
 だから、ここは醒めることのない夢の中ではなかった……。
 ここは現実の世界……。
 その現実の中で僕だけが現実ではなかった……。

 だから――

 どこにいても、無視されているように感じられていた……。
 例をあげればきりがないほどに、僕は無視されつづけた……。
 自分だけが孤立しているような感覚……。
 それは、しかたのないことだった……。
 彼らには、僕が見えていなかった……。
 そう、あの喫茶店でも、そして早朝の警察署でも……。
 いや、僕は存在していなかった……。
 僕は、いつ殺されたのだろう……。
 きっとあのときだ……。
 妻を殺そうと思い立ったあのとき……。
 それなのに僕は、ワインで急激に酔ってしまい、眠ってしまった……。

 僕は、薬を飲まされた――

 ワインの中に、薬は混入されていたのだろう……。
 僕は意識を取りもどしながらも、覚醒することができなかった……。
 半覚醒のまま漂っていた……。
 そして僕は、殺されたことも知らずに死んだ……。
 殺された記憶はあったのか、それともなかったのか……。
 それでも、僕の深層意識にはそれが刻みこまれていた……。
 だから、その深層意識の記憶が幻を創りあげた……。
 そして、その幻の中で……。
 礼子を殺すという同じ日がくり返されることとなった……。

 そう、すべては幻だった――

 僕が創りあげた幻影……。
 礼子も、いま僕の血を吸いつづけているこの妖鬼も……。
 現実の中にあって、だれともかかわり合うことのない僕だけの世界……。
 だとすれば、公園のあの浮浪者も幻影だったのか……。
 いや、違う……。
 あの浮浪者もきっと、ぼくとおなじ現実では存在しない者……。
 だから彼も、無視されつづけてきたのだろう……
 ならば、老紳士はどうだ……
 浮浪者の守護天使だと言っていたが、ほんとうだろうか……。
 彼の意思に委ねるしかないと老紳士は言っていた……。
 それは天国へ導くためになのか……。
 僕の守護天使もいるのだろうか……。
 いるならば、どこに……。
 まさか、脳裡に響いてきたあの声……。
 いや……。
 もういい……。
 考えることにも疲れた……。

 意識が薄れていく――

 僕の愛した妻、礼子……。
 君はほんとうに、僕を裏切っていたんだね……。
 その相手が、後輩の前島だったなんて……。
 だけどそれも、もうどうでもいい……。
 僕は君を許すよ……。

 僕は死んだ――

 どこかの山林の奥深くの地中の中で、僕は眠っている……。
 永遠にその眠りから醒めることはない……。
 ただひとり、きっと、だれに気づかれることもなく……。
 ゆっくりと爛(ただ)れてながら、蛆(うじ)に喰われ、腐乱し、朽ち果てていく……。
 そして最後には、僕は土塊(つちくれ)と化すだろう……。
 それでいい……。
 僕は死んだ……。
 そして、僕の創り出したこの幻影の中で……。
 妖鬼と化した礼子に、もう一度殺されるのだ……。
 それでいい……。
 それで……。
 僕はもう疲れた……。

 意識が遠のいていく――

 闇が近づいてきている……。
 何ものも存在しない、真の闇が……。
 とても静かに、僕を包みこんでいく……。
 僕は闇に溶けていく……。
 僕が消えていく……。
 僕という存在が失われ、もうどこにもいなくなる……。

 そこには闇だけが――
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