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【チャプター 37】
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若草の萌ゆる草原に、彼はひとり佇んでいる。
どうしてそこにいるのか。
彼はそんなことを考えることもなく、辺りを見渡している。
清涼な風が草原の上を渡り来て、彼の頬をなでていく。
とてもいい気分だ。
ふと見上げれば蒼穹(そうきゅう)の空がどこまでも高く広がっていて、眼を閉じて耳をすますと、小鳥の囀(さえず)りが聴こえてくる。
そこに存在するすべてが息づき、鮮明に彩られている。
心は穏やかに満たされていた。
不安や恐れは微塵もない。
自分が自由なのだということが実感できる。
大きく息を吸ってみると、なんとも清々しい空気が肺の中に浸透していった。
彼は草原の中を歩き出す。
どうして歩くのか。
そんなことも彼は考えたりしない。
歩きたいから歩く。
ただそれだけだ。
しばらく行くと、前方に小さく人影が見えた。
彼は陽の光りに眼を細めて、人影に向かって歩いていく。
その人影も、彼のほうに向かって歩いてきているようだ。
歩みゆくごとに人影の姿がはっきりとしてくる。
どうやら、その人影は女性のようだった。
長い黒髪をした彼女は、水色のワンピースを着ている。
彼はその彼女を知っていると感じている。
だが、それはあくまでそう感じるというだけで、彼女に見覚えなどなかった。
美しい黒髪を風になびかせ、彼女は微笑みを浮かべた。
彼も微笑みを返す。
彼女は3メートルほど手前まで歩いてくると、
「ごきげんよう」
足を止めてそう声をかけてきた。
微笑みは崩さない。
彼は返事を返そうか迷い、それでも、
「こんにちは」
照れくさそうにそう返した。
「とてもいい日和だわ」
風になびく黒髪を掻き揚げながら、彼女は空を見上げた。
「そうだね」
彼も同じように空を見上げる。
「あなたは、どちらからいらしたの?」
彼女が問う。
「それが、僕にもわからないんだ」
彼は、ほんとうにわからなかった。
彼女が小首を傾げ、
「自分がどこから来たのかがわからないなんて、おかしな人だわ」
不思議そうに彼を見つめた。
「確かにそうかもしれないね。なら、君はどこから来たの?」
彼も同じ問いを投げかけた。
「わたしはどこからも来ていないわ。ずっとここにいたんですもの」
「ずっとここに?」
「そう。ここでずっと、あなたを待っていたの」
「僕を待っていた? 君は僕を知っているの?」
「知っているわ。あなたのことを」
「でも君は、僕がどこから来たのかを訊ねたじゃないか」
「そのときはあなたを知らなかったの。でもいまは知っているわ。そしてわたしは、あなたを待っていたの」
「ちょっと待ってくれ。君はいままで僕のことを知らなかったというのに、どうしていまは知っているのかな」
「それは、あなたがあなたであるからだわ。あなた以外のあなたなら、わたしはあなたを知らないはずだもの」
「僕にはよくわからないよ。もう少しわかりやすく教えてくれないか」
「ほんとにおかしな人ね。それを知ったとしても、なんの意味もないのに」
「意味があるかどうかは僕が決めるよ。だから、どういうことなのか教えてほしいんだ」
それに彼女は、どうしてそんなことを訊くのかわからない、といった表情を浮かべ、
「わたしが教えるまでもないはずよ。あなたがあなたである以上、あなたはすべてを知っているはずだもの」
そう答えた。
どうしてそこにいるのか。
彼はそんなことを考えることもなく、辺りを見渡している。
清涼な風が草原の上を渡り来て、彼の頬をなでていく。
とてもいい気分だ。
ふと見上げれば蒼穹(そうきゅう)の空がどこまでも高く広がっていて、眼を閉じて耳をすますと、小鳥の囀(さえず)りが聴こえてくる。
そこに存在するすべてが息づき、鮮明に彩られている。
心は穏やかに満たされていた。
不安や恐れは微塵もない。
自分が自由なのだということが実感できる。
大きく息を吸ってみると、なんとも清々しい空気が肺の中に浸透していった。
彼は草原の中を歩き出す。
どうして歩くのか。
そんなことも彼は考えたりしない。
歩きたいから歩く。
ただそれだけだ。
しばらく行くと、前方に小さく人影が見えた。
彼は陽の光りに眼を細めて、人影に向かって歩いていく。
その人影も、彼のほうに向かって歩いてきているようだ。
歩みゆくごとに人影の姿がはっきりとしてくる。
どうやら、その人影は女性のようだった。
長い黒髪をした彼女は、水色のワンピースを着ている。
彼はその彼女を知っていると感じている。
だが、それはあくまでそう感じるというだけで、彼女に見覚えなどなかった。
美しい黒髪を風になびかせ、彼女は微笑みを浮かべた。
彼も微笑みを返す。
彼女は3メートルほど手前まで歩いてくると、
「ごきげんよう」
足を止めてそう声をかけてきた。
微笑みは崩さない。
彼は返事を返そうか迷い、それでも、
「こんにちは」
照れくさそうにそう返した。
「とてもいい日和だわ」
風になびく黒髪を掻き揚げながら、彼女は空を見上げた。
「そうだね」
彼も同じように空を見上げる。
「あなたは、どちらからいらしたの?」
彼女が問う。
「それが、僕にもわからないんだ」
彼は、ほんとうにわからなかった。
彼女が小首を傾げ、
「自分がどこから来たのかがわからないなんて、おかしな人だわ」
不思議そうに彼を見つめた。
「確かにそうかもしれないね。なら、君はどこから来たの?」
彼も同じ問いを投げかけた。
「わたしはどこからも来ていないわ。ずっとここにいたんですもの」
「ずっとここに?」
「そう。ここでずっと、あなたを待っていたの」
「僕を待っていた? 君は僕を知っているの?」
「知っているわ。あなたのことを」
「でも君は、僕がどこから来たのかを訊ねたじゃないか」
「そのときはあなたを知らなかったの。でもいまは知っているわ。そしてわたしは、あなたを待っていたの」
「ちょっと待ってくれ。君はいままで僕のことを知らなかったというのに、どうしていまは知っているのかな」
「それは、あなたがあなたであるからだわ。あなた以外のあなたなら、わたしはあなたを知らないはずだもの」
「僕にはよくわからないよ。もう少しわかりやすく教えてくれないか」
「ほんとにおかしな人ね。それを知ったとしても、なんの意味もないのに」
「意味があるかどうかは僕が決めるよ。だから、どういうことなのか教えてほしいんだ」
それに彼女は、どうしてそんなことを訊くのかわからない、といった表情を浮かべ、
「わたしが教えるまでもないはずよ。あなたがあなたである以上、あなたはすべてを知っているはずだもの」
そう答えた。
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