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【チャプター 27】
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中沢は一度浴室を覗き、妻が死体であることを確認すると自宅をあとにした。
警察署までの道程を歩く。
車を使ってもよかったのだが、徒歩でもそれほどの距離ではないし、出頭するのに車で乗り入れるという気にはなれなかった。
道すがら、どうしてもっと早くにこうしなかったのかと考えた。
だが、そんなことを考えられる心の隙間などわずかながらもなかった。
いや、考えたところでそうする勇気もなかっただろう。
やはりなんども生き返ってくる妻を殺すことの苦痛に精神が疲れきり、その日々から逃れたい一心で、それならば いっそのこと、そう思ったのだ。
あまりにも現実からかけ離れた日々の中で、これは夢なのか、それとも現実ではありえない現実なのか、という問いに囚われ、精神を病み、実はとうに自分は狂ってしまっているのではないかと思い始めていた。
「得体の知れない何者か」の存在を信じること自体がすでに正気ではない証拠なのだが、そんなものが存在しないことは中沢自身、心のどこかではわかっていた。
わかっていながら、その者たちの仕組んだ罠と思いこむことで自分を保ってきたのも事実だった。
けれどそれも、もう終わる。
妻を殺しつづけるという呪縛から解放されるのだ。
そしてそれとともに自分の人生も終わるだろう。
これからは、刑務所での長い生活が待っている。
だが、それでいいと、中沢はほっとする思いだった。
罪を償い、そして残りの人生を、殺人犯という十字架を背負って生きていけばいい。
愛し妻を殺した事実を胸に刻み、愛し愛されたころの思い出とともに生きていけばいいんだと。
「それでいい……」
中沢は息を吐くように呟いた。
町並みはすっかり朝の色に染まっている。
小鳥たちの囀(さえず)る声がそこかしこからふり落ちてくる。
こんなときに、清々しい朝を感じるとはなんと皮肉なことだろうか。
街道を左に折れてわずかに行くと、前方に警察署の建物が見えてきた。
まだ夜の闇を残した建物はどこか冷たく、近寄るものを威圧し、威厳を誇示するような圧迫感を与えてくる。
そんなふうに思うのは、やはり罪の意識があるからかもしれない。
とたんに中沢の足取りは重くなった。
決意を固めたつもりでいたのに、やはり臆してしまう。
緊張からか息苦しさを覚えて、中沢は警察署の前まで来ると足をとめた。
玄関右横には警官がひとり長い警棒を携え、正面に視線を向けたまま直立不動に立っている。
立ち止まっている中沢に、ちらりと一瞥を向けることもない。
その姿を見て、さすがに足が竦んでしまった。
とはいえ、ここまで来てしまったからにはあともどりもできない。
中沢は意を決して警察署の敷地へと足を踏み入れた。
玄関前の階段を上がる。
中沢が横を通りすぎても、警官は彼の存在を無視するかのように正面を向いたまま見向きもしなかった。
自動ドアが開き、中から40代半ばと見える眼つきの鋭い刑事らしき男が出てきてすれ違っていった。
中沢はドアが閉まる前に署内へと入った。
早朝のせいか署内は閑散としている。
受付には人はおらず、その隣の生活安全課に警官がふたりおり、それぞれ離れたデスクに坐っていた。
こんな早朝から人が訪れてくることが少ないからなのか、ふたりは中沢に気づきもせずパソコンのディスプレイに見入ったままでいる。
中沢は声をかけようとし、だが、声を出すことができなかった。
恐れはないはずなのに、なぜかまた臆してしまう。
二の足を踏み、それでも、
「あの、すみません……」
なんとか喉許に引っかかった声を絞り出したが、そう言うのが精一杯だった。
声が小さかったのだろうか、警官はパソコンから顔を上げようとしない。
そうなるともう声をかけるきっかけを失ってしまい、するととつぜんのように、罪を犯した人間特有の逃走しようとする本能が胸を突き上げた。
警察署までの道程を歩く。
車を使ってもよかったのだが、徒歩でもそれほどの距離ではないし、出頭するのに車で乗り入れるという気にはなれなかった。
道すがら、どうしてもっと早くにこうしなかったのかと考えた。
だが、そんなことを考えられる心の隙間などわずかながらもなかった。
いや、考えたところでそうする勇気もなかっただろう。
やはりなんども生き返ってくる妻を殺すことの苦痛に精神が疲れきり、その日々から逃れたい一心で、それならば いっそのこと、そう思ったのだ。
あまりにも現実からかけ離れた日々の中で、これは夢なのか、それとも現実ではありえない現実なのか、という問いに囚われ、精神を病み、実はとうに自分は狂ってしまっているのではないかと思い始めていた。
「得体の知れない何者か」の存在を信じること自体がすでに正気ではない証拠なのだが、そんなものが存在しないことは中沢自身、心のどこかではわかっていた。
わかっていながら、その者たちの仕組んだ罠と思いこむことで自分を保ってきたのも事実だった。
けれどそれも、もう終わる。
妻を殺しつづけるという呪縛から解放されるのだ。
そしてそれとともに自分の人生も終わるだろう。
これからは、刑務所での長い生活が待っている。
だが、それでいいと、中沢はほっとする思いだった。
罪を償い、そして残りの人生を、殺人犯という十字架を背負って生きていけばいい。
愛し妻を殺した事実を胸に刻み、愛し愛されたころの思い出とともに生きていけばいいんだと。
「それでいい……」
中沢は息を吐くように呟いた。
町並みはすっかり朝の色に染まっている。
小鳥たちの囀(さえず)る声がそこかしこからふり落ちてくる。
こんなときに、清々しい朝を感じるとはなんと皮肉なことだろうか。
街道を左に折れてわずかに行くと、前方に警察署の建物が見えてきた。
まだ夜の闇を残した建物はどこか冷たく、近寄るものを威圧し、威厳を誇示するような圧迫感を与えてくる。
そんなふうに思うのは、やはり罪の意識があるからかもしれない。
とたんに中沢の足取りは重くなった。
決意を固めたつもりでいたのに、やはり臆してしまう。
緊張からか息苦しさを覚えて、中沢は警察署の前まで来ると足をとめた。
玄関右横には警官がひとり長い警棒を携え、正面に視線を向けたまま直立不動に立っている。
立ち止まっている中沢に、ちらりと一瞥を向けることもない。
その姿を見て、さすがに足が竦んでしまった。
とはいえ、ここまで来てしまったからにはあともどりもできない。
中沢は意を決して警察署の敷地へと足を踏み入れた。
玄関前の階段を上がる。
中沢が横を通りすぎても、警官は彼の存在を無視するかのように正面を向いたまま見向きもしなかった。
自動ドアが開き、中から40代半ばと見える眼つきの鋭い刑事らしき男が出てきてすれ違っていった。
中沢はドアが閉まる前に署内へと入った。
早朝のせいか署内は閑散としている。
受付には人はおらず、その隣の生活安全課に警官がふたりおり、それぞれ離れたデスクに坐っていた。
こんな早朝から人が訪れてくることが少ないからなのか、ふたりは中沢に気づきもせずパソコンのディスプレイに見入ったままでいる。
中沢は声をかけようとし、だが、声を出すことができなかった。
恐れはないはずなのに、なぜかまた臆してしまう。
二の足を踏み、それでも、
「あの、すみません……」
なんとか喉許に引っかかった声を絞り出したが、そう言うのが精一杯だった。
声が小さかったのだろうか、警官はパソコンから顔を上げようとしない。
そうなるともう声をかけるきっかけを失ってしまい、するととつぜんのように、罪を犯した人間特有の逃走しようとする本能が胸を突き上げた。
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