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【第34話】
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そのときのお父さんといったら、呆けたように口を開け、悪夢を観ているのだと言わんばかりにうろたえて、でもすぐに、私を見ていながらも見ていない無機質な眼になって、
「そんな子供、産んだからといって、俺は認めないからな」
冷め切った口調でそう言い、いつものように背を向けたのです。
その瞬間、私の中でとてつもない怒りがこみ上げて、
「だったら、別れてください」
それまで一度として口にできなかった言葉を、その背にぶつけていました。
怒りに任せてとはいえ、言えずにいた言葉を口にしたことで、私は腹が据わって、
「私はこの子と生きていきます」
強い意志でそう言うと、自分のものをまとめ始めたのでした。
手に持てるだけのものをバッグに詰め、無言の背に、何も告げずに部屋を出ようとしたそのとき、ふいにふり返ったお父さんの手が、私の腕を取って止めたのです。
「その身体で、どこへ行くって言うんだ。お義母さんのところにも行けやしないだろう」
思ってもみない優しい声にふり向くと、はっきりと私に焦点を合わせたお父さんの眼があって、その愁眉に翳った表情を私は信じられない思いで見つめました。
お父さんのそんな人間らしい顔を見たのはずいぶんと久しぶりだったからです。
そしてその哀しみに暮れたような眼は、
「行くな」
そう言っていました。
そんなお父さんを見ていたら、この人はずっと、背を向けながら私に想いを向けつづけていたのだ。
背を向けていたのは私のほうだった。私は心で背を向けていたのだ。そう思えて、私までが哀しくなって泣き崩れたのでした。
それからのお父さんは、少しずつではありましたが、私と正面から向き合うようになってくれ、身重の身体を気遣ってくれるようにもなったのです。
それまでの眼を背けられた日々を思えば、出産までのわずか2ヵ月たらずの生活は、幸福ともいえるものだったでしょう。
そう、それはほんとうにわずか2ヵ月の幸福でしかありませんでした。
出産をし、退院をしたその日には、残酷きわまりない仕打ちが私を待っていたのですから。
10ヵ月目に入り、私は予定日よりも早く陣痛が始まって、9時間もの長い苦痛との戦いの末に産声をあげたのは男の子でした。
白布に包まれた我が子を抱いたあの歓びは、他にたとえようのない至福のときでした。
だからまさか、その小さな至福さえも奪われてしまうなどとは、そのときの私は夢にも思わなかったのです。
翌日、授乳を済ませた我が子を看護師さんに預け、半身を起こしたまま朝の陽射しの溢れる窓に眼を投げていると、病室のドアが開いて姿を見せたのは母でした。
出産のお祝いに来てくれたのだと思い、けれども、私を一瞥したときの、母のその厳しい表情に言いようのない胸騒ぎを覚えたのです。
母はベッドの横に立つなり、
「いったい、どういうことなの」
激した口調でそう言ったのでした。
私には母のその怒りの意味が呑みこめず、けれど、
「お前が産んだのは、富広さんの子じゃないっていうじゃないか。夕べ遅くに、富広さんが家に来てそう言ってたけど、まさか事実じゃないだろうね」
思いもよらぬその言葉に胸を貫かれ、愕然とただ母の顔を見つめていました。
産院までつき添ってくれたお父さんが、出産後に姿が見えないと思っていたら、母に会いに行っていたとは思いもしませんでした。
愕然とする私に、母は事実を確かめるまでもないというように、
「誰の子なの、お前の産んだ子は」
そう訊きました。
それに答えることなどできるわけがありません。
私は母から顔を背けるように眼を伏せました。
「そんな態度じゃ、お前をかばうことはできないよ。どうしても言えないっていうなら仕方がない。だけどね、富広さんは、不貞でできた子を育てるつもりはないって言ってるんだ。その覚悟はできてるんだろうね」
私は唇をきつく結びました。
お父さんに裏切られたような気持ちになって、悔しくてならなりませんでした。
現実を言うなら、決してお父さんが裏切ったというわけではありません。
私が自分勝手に、お父さんが受け入れてくれたのだと思いこんでいただけなのですから。
「そんな子供、産んだからといって、俺は認めないからな」
冷め切った口調でそう言い、いつものように背を向けたのです。
その瞬間、私の中でとてつもない怒りがこみ上げて、
「だったら、別れてください」
それまで一度として口にできなかった言葉を、その背にぶつけていました。
怒りに任せてとはいえ、言えずにいた言葉を口にしたことで、私は腹が据わって、
「私はこの子と生きていきます」
強い意志でそう言うと、自分のものをまとめ始めたのでした。
手に持てるだけのものをバッグに詰め、無言の背に、何も告げずに部屋を出ようとしたそのとき、ふいにふり返ったお父さんの手が、私の腕を取って止めたのです。
「その身体で、どこへ行くって言うんだ。お義母さんのところにも行けやしないだろう」
思ってもみない優しい声にふり向くと、はっきりと私に焦点を合わせたお父さんの眼があって、その愁眉に翳った表情を私は信じられない思いで見つめました。
お父さんのそんな人間らしい顔を見たのはずいぶんと久しぶりだったからです。
そしてその哀しみに暮れたような眼は、
「行くな」
そう言っていました。
そんなお父さんを見ていたら、この人はずっと、背を向けながら私に想いを向けつづけていたのだ。
背を向けていたのは私のほうだった。私は心で背を向けていたのだ。そう思えて、私までが哀しくなって泣き崩れたのでした。
それからのお父さんは、少しずつではありましたが、私と正面から向き合うようになってくれ、身重の身体を気遣ってくれるようにもなったのです。
それまでの眼を背けられた日々を思えば、出産までのわずか2ヵ月たらずの生活は、幸福ともいえるものだったでしょう。
そう、それはほんとうにわずか2ヵ月の幸福でしかありませんでした。
出産をし、退院をしたその日には、残酷きわまりない仕打ちが私を待っていたのですから。
10ヵ月目に入り、私は予定日よりも早く陣痛が始まって、9時間もの長い苦痛との戦いの末に産声をあげたのは男の子でした。
白布に包まれた我が子を抱いたあの歓びは、他にたとえようのない至福のときでした。
だからまさか、その小さな至福さえも奪われてしまうなどとは、そのときの私は夢にも思わなかったのです。
翌日、授乳を済ませた我が子を看護師さんに預け、半身を起こしたまま朝の陽射しの溢れる窓に眼を投げていると、病室のドアが開いて姿を見せたのは母でした。
出産のお祝いに来てくれたのだと思い、けれども、私を一瞥したときの、母のその厳しい表情に言いようのない胸騒ぎを覚えたのです。
母はベッドの横に立つなり、
「いったい、どういうことなの」
激した口調でそう言ったのでした。
私には母のその怒りの意味が呑みこめず、けれど、
「お前が産んだのは、富広さんの子じゃないっていうじゃないか。夕べ遅くに、富広さんが家に来てそう言ってたけど、まさか事実じゃないだろうね」
思いもよらぬその言葉に胸を貫かれ、愕然とただ母の顔を見つめていました。
産院までつき添ってくれたお父さんが、出産後に姿が見えないと思っていたら、母に会いに行っていたとは思いもしませんでした。
愕然とする私に、母は事実を確かめるまでもないというように、
「誰の子なの、お前の産んだ子は」
そう訊きました。
それに答えることなどできるわけがありません。
私は母から顔を背けるように眼を伏せました。
「そんな態度じゃ、お前をかばうことはできないよ。どうしても言えないっていうなら仕方がない。だけどね、富広さんは、不貞でできた子を育てるつもりはないって言ってるんだ。その覚悟はできてるんだろうね」
私は唇をきつく結びました。
お父さんに裏切られたような気持ちになって、悔しくてならなりませんでした。
現実を言うなら、決してお父さんが裏切ったというわけではありません。
私が自分勝手に、お父さんが受け入れてくれたのだと思いこんでいただけなのですから。
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