哀しみは、もういらない

星 陽月

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【第15話】

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 きっと、これがめぐり逢いというものなんだわ……。

 そう思い、そしてそれは実感となって胸の中に広がり、締めつけるような、それでいて心地いい何かがこみ上げていた。
 初恋に破れてから、それまで彼氏がほしいと思いながらも、妙子はどこか男を遠ざけていた。初恋相手の言葉が、いつまでも心の中に深い根を張っていたからだ。

 君と僕は、棲む世界がちがうみたいだ――

 そう言って去っていった男とつき合っていたときも、やはりどこかで距離をおいていた。
 会っていても、心はいつも別のところにあった。
 それでも、好きになろうという気持ちがなかったわけではない。
 男の話には耳を傾け、あの本が面白いと言えばその本を読んだし、好きな音楽も合わせて聴くようにもした。
 会う日には、できるだけお洒落をして出かけた。
 それなのに、心は男に向いていなかった。
 好きになろうとするのを拒む自分がいた。
 そんな自分を知りながら、男の前では微笑みを浮かべつづけていた。
 知らず知らずのうちに男を遠ざけ拒んでいたもの、それは恋をし傷つくことへの恐れだった。
 それだけ臆病になっていた。
 恋をすることに。
 そんな妙子を、藤井との出逢いが変えてしまったのだ。
 コンパの帰り道の途中、背後で聞いたあの言葉から始まったのだった。
 藤井の言葉は、まるで天から届いたもののように思え、だから、名を名乗り握手を求めてきた彼の口から、その言葉がこぼれ出たことが信じられず、妙子はその顔をただ見つめていたのだ。
 そして藤井を知っていくほど、どこまでも惹かれていき、妙子は自然に身体を許していた。
 それが妙子の初体験だった。
 藤井を受け入れたときの、衝き抜かれるような激しい痛みを、シーツを握り締めながら妙子は耐えた。
 藤井が身体から離れたあとも下腹部に痛みは残ったが、それでも、彼とひとつになれたことの歓びが身体中に広がっていた。

「初めてだったんだな……」

 そのときになって、藤井は戸惑った顔をした。
 妙子は恥ずかしさとうれしさが混ざり合って、涙が溢れた。
 その涙を、藤井はやさしく拭ってくれた。
 だからまさか、その夜を最後に、藤井が自分の前から姿を消してしまうなどとは夢にも思わなかった。
 翌日の朝、泊まったホテルのベッドで眼を醒ましたときも、だから、隣に藤井の姿がなくても、きっと急用ができたんだ、そう思った。
 それならそれで、起こしてくれればよかったのに、と軽い不満を覚えただけだった。
 それだけに、何の不安もないままその日の夜、妙子は藤井の部屋に電話を掛け、留守番電話になっていても気にせず、電話をくれるようにとメッセージを残した。
 だが、深夜の一時を過ぎても、藤井からの電話はなかった。
 いままでそんなことは一度もなかった。
 留守番電話にメッセージを残せば、必ずその日のうちに電話を掛けてきた。
 次の日も、また次の日も妙子は電話を掛け、そのたびに電話をくれるようにとメッセージを入れた。
 だがやはり、藤井から電話が掛かってくることはなかった。
 それでも妙子は、棄てられたなどとは考えずに藤井の身を案じた。
 事故にでも遭ったのではないか、それとも何かの事件に巻きこまれたのではないか、そんな思いが頭の中に入り乱れ、それが杞憂(きゆう)であってくれることを願った。
 そして、滅多に読むことのない新聞を開き、事故や小さな事件の記事にも眼を通し、藤井の名がないことにホッとした。
 一度連れていってもらったBARにも足を運んでみたが、藤井の姿はなかった。
 藤井の住所を知らされてなかった妙子にできる、それが精一杯のことだった。
 その妙子の心配をよそに、藤井からの電話がないまま一週間が過ぎていた。
 さすがに妙子も、棄てられたのだろうかと思い始め、何とか藤井との連絡を取ろうと考えて、あのコンパに誘ってきた智子に訊いてみることにした。
 事情を話すと智子は、あのコンパの相手とは、だれとも親しくなってないからわからない、と答えた。
 妙子は落胆の色を隠せず肩を落とした。
 そんな妙子を気の毒そうに見つめ、だがすぐに智子は何かを思い出した顔になって、

「美奈だったら知ってるかもよ」

 そう言った。
 妙子は美奈の名が出たことを不思議に思い、コンパに来なかった美奈がどうして知っているのかを訊いてみた。

「だって、あのコンパの話を持ってきたの、美奈なのよ」

 彼女から聞かなかった? 最後にそう訊いた智子に妙子は首をふった。

「そうなの……。私はてっきり美奈から聞いてると思った。だったら話すけど、あのコンパの日、美奈ったら突然急用ができたとかで、代わりに妙子を誘ってあげて、って言ったのよ。ただ、私の代わりだって言ったら、妙子は行かないだろうから黙っていてって。それで私はなにも言わなかったの。でも、あとで妙子には話すようなこと言ってたのに」

 智子は小首を傾げた。
 妙子は礼を言い、智子と別れた。

 どうして私になにも言わないんだろう……。

 妙子にはそれが疑問だった。
 確かに、もともと行く気のなかったコンパだったから、美奈の代わりだと知っていたら、尚のこと行かなかっただろう。
 だから美奈は智子に口止めしたのだろうが、それならそれで、コンパのあとにでも話してくれたらよかったのではないか。
 そのとき、妙子の胸に疑念が生じた。
 それはじわじわと胸の中に浸蝕(しんしょく)し始めた。
 その疑念とは、美奈と藤井は通じ合っていたのではないかということだった。

 私は弄(もてあそ)ばれたんだろうか……。

 そう思い、だがすぐに妙子は首をふった。

 そんなわけない……。

 美奈のことだから、話すのを忘れてしまっているだけだ。
 藤井だって、どこか旅行にでも出かけてるだけだんだ。
 そう思うとしても疑う心は拭えない。
 妙子はその思いを晴らそうと、美奈に会いに行くことにした。
 構内を捜しながらロビーに行くと、数人の男たちに囲まれて会話をしている美奈の姿があった。
 妙子が近づいていくと、美奈はすぐに妙子に気づき、男たちに何か言葉をかけ自分のほうから歩みよってきた。

「久しぶりね」

 いつものどこか素っ気ない言い方だった。

「そうね」

 妙子も素っ気なく返す。

「その顔からすると、私になにか話があるみたいね」
「ええ」
「そう。それで?」
「この前のコンパ、美奈がセッティングしたらしいわね」
「そうよ。それがどうかした?」
「どうして、私にはなにも言わなかったのよ」
「言ってほしかった?」
「言ってくれたほうがよかったわ」
「そうしてたら、行かなかったでしょ?」
「あたり前よ」
「だから私は言わなかったの。だって、あのコンパは、妙子のためにセッティングしたんだもの」
「どういうことよ」
「どうもこうもないわ。もう察しはついてるくせに。だから私に会いにきたんでしょ? はっきり言いなさいよ、彼に逢いたいって」

 その言葉に妙子は固まった。

「――やっぱり、そうだったの……」

 疑念は真実となった。

「そういうこと。あのコンパも、彼が妙子に近づいたのも、私が仕組んだの」
「どうして……」
「ちょっと、からかっただけよ」
「――――」

 妙子は絶句し、顔をゆがめた。
だがすぐに怒りがあふれ、

「なによそれ! 私を弄(もてあそ)んで、傷つけておきながら、ちょっとからかっただけなんて、冗談じゃないわよ!」

 声を荒げ、美奈を睨みつけた。

「でも、そのお陰で、いい夢見られたでしょ?」

 嘲笑するように言う美奈に、抑えていた怒りが爆発して妙子は彼女の頬を平手で殴っていた。
 美奈は殴られた頬を庇おうとせず、乱れた髪を掻き揚げると、

「気がすんだ」

 冷めた口調で妙子を見つめた。
 妙子は、まだ怒りに震えている手を握り締め、

「美奈ッ、あなた最低よ」

 そう吐き棄て、美奈に背を向けてその場を離れた。
 その夜、妙子は湯船の中に顔を沈めて泣いた。
 受けた屈辱に打ちのめされながら、それでも妙子は、騙された私が悪いんだ、となんども自分に言い聞かせた。
 その日以来、美奈とは疎遠になり、藤井への怒りや想いは、過ぎていく日々の中で深すぎる傷を妙子の胸に残した――


 遠い日のそんなひとつの辛い想い出に心を馳せ、そしてふと、藤井のあの芸術へと傾けた想いが嘘でないことを願っている自分に呆れた。

 もう過去のことじゃない……。

 そう思い、

 昔から男運が悪いのよ、私は……。

 と苦笑した。
 そんな妙子を見て静江は、

「変な子ね、突然笑ったりして」

 不思議そうな顔をした。
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