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「第70話」

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「どうせアタシなんて、世界一の笑いものよ……」

 いいのよ、いいのよ、とカオルは人差し指で畳をグリグリとやった。
 その指先はものの見事にめりこんでいった。
 それを見かねてか、康太郎がカオルの肩にそっと手を置く。

「カオルおねえさん、ごめんね。もう笑わないから、許して」

 カオルは瞳を潤ませて、康太郎を見つめた。

「ボクちゃんて、やさしいのね。アタシのことおねえさんって言ってくれるなんて」
「だって、人のほんとうの姿は、心にあるんじゃないか。カオルおねえさんが男だって関係ないよ。自分が女だって思っているなら、心はきれいな女の人さ。だから、おねえさんだよ」

 いままで爆笑していたとは思えないほどの変わりようで、康太郎はカオルをやさしくなだめた。

「ああ、なんて聡明でいい子なのかしら。それなのにどうしてあなたは……、なぜなの。なぜに神様は、こんなにいい子の命を奪ってしまったの? もう、ひどい、ひどすぎる!」

 いよいよカオルは泣き出した。
 ぐわっ、と下瞼が盛り上がったかと思うと、あふれる涙がナイアガラの滝のようにどどどどっと放水した。
 康太郎がハンカチを差し出す。
 それは高木が、これでもかというほどに洟をかんだハンカチだ。
 それを受け取ろうとし、だが、ハンカチはカオルの手をすり抜けてしまった。

「あら――そうね、しかたがないことね。でもありがとう。あなたのハンカチは、涙で濡れたアタシの心を拭ってくれたわ」

 カオルは涙の中で微笑みをうかべると、エルメスのバッグから取り出したピンクのハンカチで涙を拭い、とてつもない音を立てて洟をかんだ。
 その顔はマスカラが落ちて、パンダになっていた。

「カオルおねえさん。自己紹介が遅れたけど、ボクは倉本康太郎です。どうぞよろしく」

 康太郎は礼儀正しく名を名乗った。

「まあ、挨拶もきちんとできて、えらいわ。利発そうなその顔をみても、あなたはきっと、いいところのおぼっちゃまなのね」
「ケッ、調子のいいやつだぜ。欺されるなよ。良くも悪くも頭の回転だけは速い、クソ生意気なガキなんだからよ」

 高木が吐き棄てるように言った。
 どうやら、康太郎がよく思われるのが面白くないらしい。

「そう言う、アンタはどうなのさ。霊のくせに、威勢がいいだけじゃないのよ」

 カオルは高木を睨む。

「お、言ってくれるじゃねえか。この、林家ペーが。いやもとい。南島三郎が」
「うぐぐぐ、よくも言ったわねえ。林家ペーはまだ許せても、本名を口にすることだけは許さないわよ!」

 林家ペーは許せるのかよ! 
 と、ここはツッコんでほしいところである。

「おうおう、なんだ。やるってのか」

 ふたりは勢いよく立ち上がる。
 バトルの勃発だ。

「あー、はいはい。そこまで」

 成り行きを見守っていた秀夫だったが、ここは自分の出番だとばかりに止めに入った。
 とはいえ高木の姿は見えないので、実際にはカオルだけを制する形であった。

「もう、やめてください。どうしてそう高木さんは、もめる方向へと持っていくんですか。カオルさんもカオルさんで、すぐに熱くなりすぎなんですよ」
「だって、こいつが――」
「だって、この人が――」

 高木とカオルが同時に不満を口にしようとするのを、「いいかげんにしないか、ふたりとも!」と秀夫が教師の顔になって一喝した。
 とたんにふたりはシュンとした。

「とにかく、高木さん。今度はあなたが、自己紹介する番ですよ」
「ああ、そうだな」

 言われて高木は気持ちを改める。

「俺は高木、高木正哉」
「そう。マサさんね。わかったわ。じゃ、これで自己紹介がすんだってことね」

 なんだかんだでやっと名乗り合うことができて、ようやく高木と康太郎の、のっぴきならない事情が語られることとなった。
 まずは康太郎から話し始め、カオルは聞いているあいだずっと扇のまなこからナイアガラの滝を溢れさせつづけて、高木の話しに耳を傾けているときには、ついに鼻からも放水したのだった。
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