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チャプター【020】

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「いやあああああッ!」

 犬男の裂けた口が迫ってきたとき、蝶子は叫けび声を上げた。
 絶叫したのは、そのたった一度だけだった。
 首を咬まれ、血を啜られたとたんに死を悟った。
 恐くはなかった。
 むしろ、その死を望んだ。
 だから蝶子は、抗おうとも逃れようともしなかった。
 犬男のなすがままに、瞼を閉じて静かにそのときを待った。
 身体を喰いちぎられても痛みは感じず、感じていたのは、妹を救うことができなかった心の痛みだけだった。
 胸を、腹部を、はらわたを、腕を、太腿を、犬男は肉体のやわらかい部分だけを喰らうと、満足したように去っていった。
 蝶子は、それでもまだ生きていた。
 しかし、その命はかすかな燈火でしかなかった。
 消えゆこうとする意識の中で、これで妹にすぐ会える、そう思った。
 そして父や母にも会えるのだ、と。
 
 ごめんね、梨花……。
 おねえちゃん、梨花を守ってやれなかったね……。
 でも、これでまた一緒にいれるよ……。
 だから、許してね……。
 
 血の気の失せた蒼白な顔に、微笑が浮かんだ。

 ――そのときだった。

 何ものかが近づいてくる足音が聴こえてきた。
 犬男がもどってきたのか。
 そう思った。
 だが、違った。
 足音は複数あった。
 ならば、べつの何かが、大気に漂う血の匂いを嗅ぎつけ、やってきたのか。
 しかし、それもまた違った。
 蝶子のもとにやってきたのは、人間だった。
 白い防護服に身を包んでいる。
 その人間たちは3人いた。

「これはひどい……」

 蝶子の無残な姿に、その中のひとりが言った。
 男のようだった。
 防護マスクを被っているため、声がくぐもっている。

「変異した人間か動物にやられたようだな」

 そう言ったべつの声も、男の声だった。

「まだ息があります」

 最初の男が言った。

「ラボまで持ちそう?」

 そう言ったのは最後のひとり。
 その声は、女性のものだった。
 
「それはどうでしょうか。いまこうして息があるのも、奇跡としか言いようがありません」
「そう、わかった。じゃあ、その奇跡に賭けてみましょう」

 女性はそう言うと屈みこみ、蝶子に防護マスクの顔を近づけた。

「あなた、助かりたい?」

 耳元でそう言った。
 蝶子は薄く眼を開き、防護マスクの奥の女性の顔を見た。

「このままだと、あなたは死ぬわ。でも、私ならあなたを助けられる。だから、あなたに助かりたい意思があるのなら、瞬きを2回してちょうだい」

 その言葉に、蝶子は反応を示した。
 死を望んでいたはずなのに、ほとんど無意識のうちに瞼を弱々しく2回閉じていた。

「意思の確認は取れたわ。さあ、ラボに搬送するわよ」

 女性のその声を最後に、蝶子は意識を失った。
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