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チャプター【010】

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「この姿、君たちには化け物に見えるだろうけど、それは違うよ。これは進化なんだ。ぼくはね、あの大地震によって新たな身体に覚醒したのさ」

 犬男は鼻をヒクヒクさせながら近づいてくる。

「この甘い匂い。ハハア、これはチョコレートだねえ。ぼくにも、そのチョコレートを少し分けてくれないかい?」

 蝶子と妹は恐怖のあまり、足が竦(すく)んで動くことができない。

「あ、あの……、チョコレートは食べてしまって、もうないんです」

 恐る恐る、なんとか蝶子はそう言った。

「ハア? もうない? それはすごくショックだなァ」
「ごめんなさい……」
「そうか、食べてしまったのなら、しかたがないなァ。だったら、その代りに――」

 犬男は値踏みをするかのように、ふたりの全身に視線を這わせた。

「君たちを、食べさせてもらうことにするよ」

 犬男がそう言ったとたん、蝶子は右頬に重い衝撃を覚えた。
 いったい何が起きたのかもわからないまま、次の瞬間には、瓦礫へと叩きつけられていた。
 眼にも止まらぬ速さで、犬男の右手の甲で殴られたのだ。
 蝶子は地に倒れこんだ。
 意識が遠くなる。
 妹の姿が翳んで見える。

「おねえちゃん、助けて!」

 助けを呼ぶ妹の声が、脳裡にこだまする。

(梨花……)

 妹を助けなきゃ。
 そう思うのだが、その思いは、薄い意識の中で緩慢に漂っているばかりだった。
 妹の身体が宙に浮いていく。
 犬男が両手で抱え上げたのだろうが、蝶子は右頬を下にして俯せに倒れているため、視界に入るのは妹の両足だけだった。
 妹は両脚をばたつかせている。
 必死に抵抗しているのがわかる。
 だが、その抵抗も長くはづかず、妹の両脚はだらりとなったまま動かなくなった。

 ごつりッ!

 と固いものが断たれるような鈍い音がした。
 と、地に何かが落ちてきた。
 それはわずかに転がり、そして止まった。
 蝶子はそれを眼にした。

「きゃあああああッ!」

 叫び声をあげた。
 いや、その叫びは声にならなかった。

(そんな、どうして。梨花、梨花ーッ!)

 地に落ちてきたそれは、妹の首だった。
 首は、蝶子に顔を向けている。
 その顔には恐怖が張りついたままだった。
 見開いた眼が、蝶子を見つめている。
 蝶子はその視線に耐えきれずに眼を瞑った。

 そのとき、

  ずちゅ……

 厭な音が響いた。
 何の音なのか。

  ずちゅ、ずちゅう、ずちゅる……

 それは、血を啜る音だった。
 そして、その音が変化する。

  ぐちゃり……

 その音が何を意味しているのか。
 蝶子には、それが嫌でもわかってしまう。
 妹が犬男に喰われているのだ。

(そんな。嫌、嫌ッ!)



  ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃり……

 耳を塞ぎたくても、そうすることができない。
 瓦礫に全身を強く打ちつけたことで、身体も腕も、動かすことができなかった。

  ぐちゃ、ぐちゃ、ごり、ごり、ごりり……

 その音は、蝶子の耳にまとわりつきながらしばらくのあいだ響きつづけた。
 悲しみと、悔しさと、恐怖がない交ぜになった。
 蝶子は奥歯を噛みしめながら泣いた。
 そしてその音は、ふいに止んだ。
 蝶子は瞼を開けることができずに、耳に意識を集中して気配を探った。
 物音はしない。
 もうどこかへ行ってしまったのか。
 恐怖は去ったのか。
 そう思ったときだった。

「!――」

 とつぜん、身体が宙に浮いた。
 頭部に激痛が走った。
 蝶子は髪の毛を掴まれ、持ち上げられていた。
 荒い息づかいが間近に聴こえる。
 吐き出される息は、血の臭いがした。
 蝶子は恐る恐る眼を開いた。
 すぐ眼の前に、犬男の貌があった。

「やあ」

 犬男は嗤った。
 めくり上げた口からは、黄色い牙が覗いている。
 口の周囲を被う毛には、血がべっとりと付着していた。
 恐怖に、蝶子は顔を強張らせた。

「グフフ。その恐怖に慄(おのの)く顔がたまらないねえ。おチビちゃんのほうは痩せていて、あまり美味い肉ではなかったけど、君の肉はさぞかし美味いんだろうねえ」

 犬男は舌なめずりをした。
 よだれが滴り落ちる。
 蝶子は声も出せない。
 唇が震えている。

「心配することはないよ。痛みを感じるのは初めのうちだけだからね」

 いやらしいほどに、犬男の口がつり上がった。
 その口が大きく開く。

 グォア!

 鋭い牙が蝶子に襲いかかった。

「いやあああああッ!」

 蝶子はたまらず叫び声を張りあげていた。
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