喪失~失われた現実~

星 陽月

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チャプター【29】

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「美砂子! 美咲!」

 女性だけでなく、滝沢は女の子の名も呼んでいた。
 そのとたん、複雑に絡み合っていた糸がほどけたように、そのふたりがだれなのかがわかった。
 ふたりは滝沢の愛する妻と娘だった。
 だがなぜ、それまでふたりのことを忘れてしまっていたのか。
 そしてなぜ、いまになってふたりを思い出したのか。
 わからない。
 わかっているのは、愛する妻と娘がいま、眼の前で息絶えてしまっているということ。
 切り裂かれそうなほどの胸の痛み。
 それは、耐えることのできない悲しみの痛みだった。

「美砂子……。美咲……」

 滝沢は膝をつき、動かぬ妻と娘を胸のなかに抱きよせた。

「どうしてだ。どうしてなんだ……」

 妻と娘を抱きかかえながら、滝沢はむせび泣いた。

 その一瞬――

 抱きかかえていたはずの妻と娘が、腕の中から消えていた。
 滝沢は辺りを見渡した。
 ふたりの姿はどこにも見あたらない。
 滝沢は立ち上がった。
 草原の中を、また歩き始めた。
 しばらく行くと、人影が見えた。
 人影はふたつ。
 その人影は、こちらを向いて立っている。
 ひとりは女性。もうひとりは女の子。
 そのふたりがだれなのか。
 滝沢は知っている。
 妻と娘。 
 滝沢は妻と娘に向かって歩く。
 ふたりは滝沢に背を向けて歩き始める。
 滝沢はふたりのあとを追う。
 ふたりとの距離が縮まらない。
 ふたりに追いつこうと滝沢は足早になる。
 だが、足が重く、思うように前へ進まない。
 滝沢は、力をふりしぼって前へと進む。
 それでも、ふたりとの距離はどんどん離れていく。
 滝沢は焦りを覚えて、妻と娘の名を呼んだ。

「真知子! 真奈!」

 ふたりは立ち止まろうともしない。
 声が届かないのか。
 それとも聴こえないのか。
 ふたりはさらに離れていく。
 足を止めていたのは、滝沢のほうだった。
 なぜ、足を止めたのか。
 それは、妻と娘の名を呼んだときだ。
 なにかがちがう、そう感じたのだ。
 大樹の根に坐っていたふたり。
 そのふたりを、「美砂子、美咲」と滝沢は呼んだ。
 そしていま出会ったふたりを、「真知子、真奈」と呼んだ。
 それぞれ、顔も名前もまったくちがう。
 そうでありながら、そのどちらのふたりも、滝沢は妻と娘だと思っている。
 いや、思っているのではない。
 二組の母娘は、どちらも妻と娘なのだ。
 しかも、その二組の母娘は別々の存在であるのに、滝沢には別々という認識がない。
 どちらのふたりも、滝沢にとっては同一の存在。
 心から愛した唯一無二の妻と娘。
 それだけに滝沢は、何かがちがう、と感じたのだ。
 愛した妻と娘が、また別にいる。
 それはどういうことなのか、と。 

 いや――

 滝沢は首をふった。
 そんなことはない。
 ちがう。
「美砂子、美咲」「真知子、真奈」は同一なのだ。
 美砂子は真知子であり真知子は美砂子なのだから、美咲は真奈であって真奈は美咲なのだ。

 なんだ、これは――

 滝沢は混乱した。
 そのとき、声がした。

「あなた」

 それは妻の声だ。

「あなた」

 それは、美砂子の声であり真知子の声だった。

「あなた、美咲が……」

 それは美砂子の言う声であり、

「あなた、真奈が……」

 真知子が言う声だった。
 その言葉は同義語だった。

 なんだ、なんだ、なんだ!

 滝沢は頭を抱えた。

「あなた」

 美砂子が、真知子が、呼ぶ。

「あなた」
「あなた」
「あなた、美咲が……」
「あなた、真奈が……」

 声が滝沢を襲う。

「やめろ、やめろ、やめてくれー!」

 滝沢は叫んでいた。
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