喪失~失われた現実~

星 陽月

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チャプター【27】

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(いやだ、やめろ、やめてくれ!)

 滝沢の胸の鼓動が烈(はげ)しい。

 鼓動?

 どうしてだ……。
 鼓動が胸を打つはずがない……。
 自分には、もう肉体はないじゃないか……。
 肉体がないのだから、鼓動が胸を打つわけがない……。
 なに?
 肉体がない?
 どういうことだ……。
 そんなことが、あるわけないじゃないか……。
 意識が混濁しているのか……。

 滝沢は自分の肉体へと眼を向けた。

 だが――

 そこには何もなかった。
 いや、ちがう。
 そうじゃない。
 眼の前のすべてが闇に包まれてしまっているために、その闇に肉体が没してしまっているのか、それともほんとうに肉体がないのかの判別がつかないのだ。
 滝沢は、自分の肉体に手を伸ばした。

(な、なんだ……)

 伸ばした手の先は、何の感触もなく空を切った。
 いや、それもまたちがう。
 伸ばしたはずの手の、そして腕の、感覚がまったくない。
 伸ばそうとしたのは意識だけだった。
 残されているのは、

 意識のみ――

 その意識さえも、闇に、無に、捕りこまれていく。

「うわあああああッ!」

 滝沢は途轍もない恐怖に叫び声を上げていた。
 そのとき、

「あなた、危ない!」

 その声とともに闇が消え、すぐ眼の前に車の後部が迫っていた。
 滝沢は無意識のうちにブレーキを踏んだ。
 タイヤが軋みを上げて車は停まった。
 前の車を運転していた男が勢いよく降りてきて、滝沢に向かって罵倒しながら車が接触していないかを確認した。
 滝沢の車は、その男の車とほんのわずかな間隔をあけて停まっていた。
 車が接触していないことがわかると、男はまたなにか言いながら運転席にもどっていった。
 滝沢はハンドルを強く握ったまま放心していた。

「あなた、大丈夫?」

 妻の声にはっとし、やっと現実を取りもどした。

「僕は大丈夫だ。それより、ふたりはどうなんだ。怪我はないか」

 滝沢はバックミラーを覗きこんだ。
 そこには、心配そうに夫を見つめる妻の顔がある。

「シートベルトをしていたから、怪我はしていないわ」

 そう言う妻の顔は、いつもとどこも変わらなかった。
 その隣には、車が急停止したことに驚き、母親にしがみついている娘の姿がある。
 眼を丸くしていまにも泣き出しそうな顔をしてはいるが、やはりいつもとどこも変わりはない。
 そのふたりの様子を見て、滝沢はほっとした。
 あれは幻覚だったのだ。
 それにしても、車を運転しながらあんな幻覚を見るとは。

「でも、恐かったわ。前の車が赤信号で停まったのに、あなた、スピードを落とそうとしないんだもの」
「そうか……」

 滝沢はバックミラーから眼を離して前方に向けた。
 そのときになって初めて、前の車とすれすれに自分の車が停まっていることに気づいた。
 冷やりとするものが心臓を舐め上げる。
 あと少しブレーキを踏むのが遅れたらと思うと、ぞぞっと全身が総毛立った。
 信号が青に変わり、前の車が発進する。
 滝沢は充分な間隔を置いてから、アクセルを踏んだ。

「あなた、疲れてるのよ。私が運転代わるから、うしろで休んでいたほうがいいんじゃない?」

 妻が夫を気づかう。

「いや、大丈夫だよ。恐い思いをさせてすまなかった。真奈もごめんな。パパ安全運転するから、もう恐いことはないからな」

 そう口にしたとおり滝沢は安全運転を心がけ、それからは何事もなく車は自宅に着いた。
 リビングに入り、ソファに坐ると滝沢はぐったりとしてしまった。
 それは肉体的な疲れよりも精神からくるものだった。
 妻と娘は夕食の買い物をしてくると言って、落ち着く間もなくリビングを出て行った。
 とたんに静寂がリビングを包みこんで、滝沢は瞼を閉じると急激に闇の中へと落ちていった。
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