喪失~失われた現実~

星 陽月

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チャプター【25】

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「嘘だ……。こんなことが、あるわけない」

 思わず口にしていたその声を、滝沢は他人の声のように聴いた。
 男の手には、いつの間にか包丁が握られている。
 赤く充血した眼で滝沢を睨んでいる。
 口端が異様につり上がる。
 男は笑っている。
 その眼光には狂気がふくみ、肩や腕や胸からは湯気のようなものがゆらゆらと立ち昇っている。
 それは男が発する、凶気、だった。
 手に握られている包丁の刃先から、雨の雫が伝い落ちている。
 その雫が、滝沢には真っ赤な血が滴り落ちているように見えた。
 ぞわぞわと、怖気が背すじに這い上がってくる。
 滝沢は声を上げそうになるのを必死にこらえた。
 またクラクションが鳴る。
 一向に車道へ出ていこうとしない車に業を煮やしているのだろう。
 鳴り響くクラクションは執拗だった。
 しかし、滝沢は車を出すことができない。
 狂気に満ちた男の眼光に捉えられて、身体が動かなかった。

(嘘だ、嘘だ、嘘だ……)

 頭の中では、その言葉ばかりが巡っている。
 ふいに、男の口が動いた。
 何か言っている。
 その声は聴こえない。
 だが、滝沢には男の声が聴こえた。

 幸福なやつらは、みんな死んでしまえばいいんだよ――

 そう言っている声が、脳裡にはっきりと響いた。
 それは、夢の中で男が言った言葉だった。
 と、次の瞬間、充血した眼がかっと見開いたかと思うと、男は包丁をふりかざして真っ直ぐに向かってきた。

(来るな、来るな、来るな!)

 こみ上げる戦慄に、滝沢はアクセルを踏みこんだ。
 車道へ出るとすぐさまハンドルを左に切る。
 車は男をぎりぎりで避けて、左斜線へと入っていった。
 滝沢はアクセルをさらに踏みこみ、スピードを上げた。
 バックミラーを覗きこむ。
 走り去る滝沢の車に身体を向けて、男が立ち尽くしているのが見える。
 追ってこようとする気配はない。
 その男に、駐車場から出ようとする車がクラクションを鳴らしている。
 男はそれにかまうことなく滝沢の車を見据えつづけていた。
 滝沢はさらにスピードを上げる。
 早く遠ざかってしまいたかった。
 バックミラーに映る男の姿は瞬く間に小さくなり、やがて見えなくなった。
 滝沢は、ふう、とひとつ息を吐き、

「恐かっただろうけど、もう心配ない」

 後部座席の妻と娘に声をかけた。
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