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天正十年卯月二十三日の条

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「殿下、今日はどのようなお話をお聞かせ願えますか?」
「そうじゃな、いよいよ毛利家が衰退していく様を話そうかの。」
「それは、非常に興味深いですな。」
「天正十年卯月二十三日、余は中川右衛門尉(秀政)宛に、備中での毛利家との交戦の経緯を書状に認め下したのじゃ。」
「ほう。既にそのときには、毛利方の士気も下がっていたということでしょうか?」
「察しがいいのう。このとき既に備中の宮路山城と冠山城の二つを包囲しておった。鳥取城と同じように塀や柵を何重にもして、徹底的な兵糧攻めを行った。実際、冠山城は同月二十五日、宮路山城は五月二日に落城した。一方、毛利方は小早川左衛門(隆景)を大将として、わが軍から一里ばかりのところにある幸山城に陣取っておった。余としては、ここで毛利方と一戦に及び完膚なきまでに叩きのめしておきたかったのじゃが、毛利方は一向に仕掛ける気配を見せなんだ。その辺りの経緯を中川右衛門尉に伝えたのじゃ。」
「なるほど。さりながら、小早川様ともあろうお方が、いかに殿下がお相手とはいえ、手をこまぬいていたのは如何なる故でございましょうか?」
「目のつけどころがいいのう。おそらく、あのときの小早川も隙あれば、一矢報いるつもりではおったろうな。何せ、小早川は毛利方の実質的な総帥だからの。わざわざ総帥が出向いて一矢報いぬというのであれば、それこそ沽券に関わるからの。じゃが、一方で小早川が惨敗を喫すれば、今度こそ毛利家は立ち直れなくなる。総帥が負けたとあれば、毛利方についている地侍どもは雪崩をうって、我が方に降ってくるであろう。そうなっては、毛利家の滅亡は必至じゃ。じゃからこそ、冷静に戦況を見極める必要があった。そして、奴は手が出せぬと判断したのじゃろう。我が方から仕掛けぬ限り、本陣からは動かぬと決めたのであろう。苦渋の決断であったろうな。じゃが、敢えて動かぬという決断ができるのが小早川の凄さじゃ。味方の士気を下げぬためにも陣は構える。しかし、自ら仕掛けることはしない。我が方が攻めてきたときだけ応戦する。劣勢の軍を預かる大将としては、これが最善策と判断したわけじゃ。実際、あのときの毛利方からすればこれしか手はあるまい。余が小早川でもそうしたわ。並みの武者なら、イチかバチか賭けに打って出たかもしれぬ。流れ弾にでもあたって余が討死でもすれば、押し戻すことができるからの。そこに光明を見出す輩もおるであろうな。」
「恐れながら申し上げます。桶狭間の例もございます。このままでは、毛利家も風前の灯でございましょう。その意味では、あの時の右府様と立場は同じように見受けられます。座して死を待つよりは、一戦交えて、わずかな可能性に賭けることもあるのではないでしょうか?」
「施楽院よ、大分“武士”らしい言い草になってきたのう。桶狭間か…確かにそういう見方はありうる。では聞くが、仮に小早川が首尾よく余を討てたとして、その後はどうなる?」
「僭越を承知で申し上げれば、少なくとも備前までなら織田軍を押し返せるのではございませぬか?仮に、その時に身罷れたとあれば、織田方に降った備前の地侍達は、また毛利方に靡くのではありませぬか?毛利方にすれば、大分守りやすくなるのではありませぬか?」
「確かに、そうであろうな?では、その先は?」
「その先とは…正直、そこまでは考えませなんだ…。」
「よいか。桶狭間では、首尾よく総大将を討ち取ることができた。総大将が討たれたとあれば、それ以上の進軍はできぬ。また、総大将が討たれたと知られれば、武田や北条も黙ってはいまい。同盟相手とは言え、何を仕掛けてくるかわからぬ。であれば、一刻も早く帰国するほかなく、またすぐに尾張に進軍する恐れもない。一方で、仮に余が討たれたとしても、代わりはいくらでもいる。もちろん、お主の言うように、余が討たれることで備前は毛利方となるやも知れぬ。じゃが、播磨を属国化するのは困難であろう。それに、右府様も惟任なりをすぐさま派遣するであろう。なにより右府様がご健在であらせられる限り、毛利家の戦況は変わらないのじゃ。桶狭間との違いは、これじゃよ。毛利方とすれば、余に決戦を挑み勝ったとしても、その次を打ち破る余力はない。戦は、一度勝てばよいというものではない。じゃからこそ、一度の戦に全てを賭けるというのは愚策なのじゃ。桶狭間は、他に手立てがなかった故、賭けざるを得なかったのじゃ。実際、右府様は、桶狭間以後、その様な“賭け”は行わなかったからの。」
「なるほど。殿下の仰せ、漸く得心いたしました。しかし、こうして殿下のお話を伺っていると、毛利家の苦境が目に浮かんでまいります。天正四年に毛利家と戦火を交えてから、わずか六年ばかりでここまで追い込まれるとは、毛利家も考えていなかったでしょうな。」
「どうかな。小早川などは、むしろこうなることを考えておったのではないかな。もちろん、毛利家は大国とはいえ、総力戦になれば織田家には敵わぬ。国力に差がありすぎるからの。毛利家が領国を維持しようとすれば、持ち前の水軍力を生かして、本願寺との連携を図って、わが軍の進軍を遅らせるよりほかない。じゃが、前にも申したとおり、頼みの水軍力、すなわち村上一族も一枚岩ではない。来島は早々に我が方に降ってきたからの。村上一族内でも毛利方と織田方に分かれるようでは、わが軍を抑える手立てはない。毛利家とすれば、出来るだけ領国を維持できる状態で講和を行うにはどうすればいいかを考えていたのではないかの。」
「ということは、天正四年の段階で、ある程度勝算があったからこそ、毛利家と戦火を交えることにしたわけですな。ところで、毛利家との戦況を、何故、中川様にお伝えになられたのですか?」
「ほう、良いところに気が付いたの。中川の居城はどこじゃったかの?」
「それは、言わずもがな茨木ではございませぬか。…あ、なるほど。殿下が中川様を高く評価されてきたのは、中川様の戦功もさることながら、茨木にあって殿下に忠誠を誓うことそのものにあったのでございますな。」
「鋭いのう。そのとおりじゃ。武勇に優れるものが茨木にあって、余の膝下にある。これは、余にとって非常に大きな意味をもつ。何と言っても、当時の余の本拠地は長浜じゃ。一方、余は毛利討伐の任務を果たすため、遠く、播磨、備前の地にある。余としては、何としても畿内の情報を収集できる手立てを講じなければならぬ。また、余の状況を速やかに長浜に伝える必要もある。この任に堪えうるのが中川というわけじゃ。」
「ようやく殿下が中川様にお渡しになられた書状の意味がわかりました。殿下のご状況を知りえるという点において、中川様は殿下の信頼を大いに得られていたということですな。人を信頼するにおいて、そのような形で信を置くというやり方も功を奏するというわけでございますな。殿下のお考え、恐れ入るばかりでございます。」
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