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スローライフ編

7話【少女の日常】

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 今日は早く、目が覚めた。
 あれから1週間が経ち、以前より寝起きがすっきりしている。聖女という立場から解放されたからだろうか。

 本来ならしっかり断りを入れに教会へ行くべきなんだけど、それについてはヴァルターに「どうせ聞く耳持たねぇだろうし、ほっとけ」と止められた。
『こうすべき』というのは頭で理解していても、このまま会わずに済むのなら気持ち的には正直なところ楽だ。

 でも楽な方に逃げて、いいんだろうか。だけどあそこに居た頃を思い出すと――また、頭が痛い。

 だめだ、このままだとネガティブ思考に陥ってしまう。
 せっかく良くなってきたのだから、あまり考えないようにしよう……。


 身なりを整えて居間に出ると、そこはまだ静けさが漂っていた。
 彼はまだ寝ているのかな。なるべく音を立てないように歩いて、洞穴の外に出る。

 ――あぁ、陽の光が気持ちいい。空気がおいしい。
 うーんと両腕を思いっきり上げて、背筋を伸ばす。

 こんなにのんびり過ごすことなんて、ここに来るまでなかった。
 今世は前ほどの忙しさではなかったけれど、祭事だとかやたら人目にさらされて、とてつもなく神経をすり減らす。

 神術を使うのだって感覚的とはいえ、精霊たちの力の流れを読み取る必要があって、思う以上に難しい。

「……洗濯、先にやろうかな」

 入り口付近に置かれているタライに板と洗濯物を入れて、両腕で抱え込む。
 そのまま洞穴を出て右方へ歩を進めた。

***

 数分歩き続けると、畑とその奥に調薬小屋が見えてくる。

 あの小屋はヴァルターの仕事部屋。
 あそこだけは物の配置を変えられたり、うっかり落とされるとまずいから、入らないようにと言われている。

 畑の前を横切り、その脇を流れる川辺にタライを下ろす。

 ……今日もしんどかった。小ぶりとはいえ洗濯物もセットでこれを運ぶのは、子供の背格好だとなかなかハード。
 でも多少は力をつけた方がいいだろうから、頑張ってみよう。

 この昔ながらの洗濯は大変だけど、時間に追われているわけではないし、せせらぎを聴きながら行うのもいいものだ。

 袖をまくり上げ、座り込んだ状態でふと見上げると、向かいのほとりに小鳥が何羽かまっていた。
 可愛らしいさえずりに頬が緩む。癒されるなぁ。

 それにしても、さすが子供の身体。肩こりも腰の痛みも一切ないのは本っ当に素晴らしい。

 眼鏡なくても遠くが見える! 眼精疲労ともおさらば!
 転生して嬉しかったことトップ3に入るくらいには感動している。

***

 洗濯、外き、居間、自室、空き室の掃除――残るは、ヴァルターの部屋。

 うーん、どうしよう。まだ寝てるのかな。
 大抵ヴァルターの方が早く起きてるけど、たまに夜遅くまで小屋に閉じこもっていたり、居間で術式をひたすら描いていたり、突如おやつを作り始めることもある。

 彼いわく、何か思いついたときは即行動しないとそわそわして眠れないようで、それが夜更かしの原因らしい。
 根っからのクリエイター気質な感じがする。

 それはそれとして、お腹も空いた。
 私が下手に作って貴重な食材を、炭の味にさせるのもあれだし……そろそろ起こしても、いいかな。


 ヴァルターの部屋のカーテンをそっと開け、中の様子を窺う。
 横向きで眠っている姿が見えた。枕から頭が遠のき、布団もはがれている。

「ヴァルター、そろそろ起きてください」

 反応しない。彼の腕を掴み、弱く揺すった。

「起きてください」
「う、ぅ……エレ、ナ」

 夢でも見ているのか、幸せそうに笑っている。
 ……なんか、モヤモヤする。なんでだろ、嫉妬するようなことでもないのに。

「エレナ、が、ひとり……」
「……?」
「ふたり……さんに……おおい……おおすぎ、る」

 次第にヴァルターの表情が青ざめ、眉間に皺が寄っていく。
 どんな夢を見てるの……ホラーなの?

 悪夢を見ているなら無理矢理にでも起こした方がいいだろうか、と考えあぐねているうちに、彼のまぶたがゆっくりと開かれた。

「ん、あれ……エレノア」
「おはようございます。夢見はどうですか」
「……最悪だ」

 だろうなぁ。
 眉尻を下げながら笑っていると、細腕が私の背中に伸びて、寝台しんだいに引きずり込まれた。

「ヴァ、ヴァルター……!」
「このまま起きるの、つれぇ……いやしがほしい」

 抱き締められたまま、よしよしと頭を撫でまわされる。
 まるでぬいぐるみのような扱い。それでもこういうことに慣れていない私の胸は高鳴るばかりで、頬にも熱が集まっていく。
 混乱から頭の中もぐるぐるする。いやでも今は、それよりも――

「……お腹空きました、しにそうです」

 言った直後に腹部から、ぐーと音が鳴る。
 それを聞いたヴァルターの手が止まり、「もうそんな時間か……」と嘆くような声が漏れた。

 それでも起き上がる気配はない。
 私を抱く腕にぎゅっと力が込められ、再び撫でまわされる。

「もうちょっとだけ……」
「……お腹空きました」

 そう呟くとヴァルターの動きが、ピタッとまた停止する。
 むくりと身を起こして彼は、深い溜息をついた。

 私も起き上がりながら「作るの手伝います」と言うと、静かに首を横に振られる。

「ダメ。火危ねぇから」
「そこまで子供じゃ、ないですけど」
「焦がし職人なんだろ」
「その蔑称べっしょうはひどい、です」

 ヴァルターはようやく寝台から立ち上がって、大きく伸びをする。

 私の抗議は無視したまま「よーし、やるかぁ」と居間の方へ向かっていった。
 何とも言えない表情を浮かべたまま、私もその背を追いかけていく。
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