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プロローグ

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 残業が終わった。
 ……限界だ。頭も、足元も、フラつきがやまない。

 どうして私はいつも、こうなのだろう。
 頼まれても断ればいいのに――そう思うのはいつも、引き受けた後ばかりだ。

 断れない私が、思っていることを伝えられない私が、悪い。
 この不調は、自らの判断の積み重ねだ。

 私が、わたしが……――ああ、でも、つかれたな。
 がんばって言葉を発するのも、発しようとするのも、なんだかもうやめたい。

 今、何時だろう……時計を確認するのも、面倒だな。
 まわらない頭でぐるぐると考えながら、会社の廊下をコツコツと歩く音だけが響く。

 階段の前に来て、一瞬ためらう。
 座り仕事だから多少は運動しないと、と思っていつも階段を使っているけど、今このまま下りて大丈夫なんだろうか……。

 今日はいちだんとフラフラする。やめようか、どうしようか――ぼんやりと考えている間に、いつの間にかが進んでいた。
 勝手に前進する私の足がひとつ、階段を下りたとき――

「っ!?」

 先に、足首へ痛みが走る。
 次に視界が、ぐらりと揺らいだ。

 そのまま階下かいかへ落下した衝撃は、この世のものとは思えない痛みで――

 ――そうか。これが、死の痛みなんだ。
 でも、この痛みがなくなる頃には、楽になれるのかなぁ……。

 生きるために働いて、働き続けて……考えることもろくにできなくなって、私は結局、何をするために生きてきたんだろう。

 大成たいせいなどしなくてもいいから、もっと、普通に……ふつう、に……――。

***

「おーい」

 ……低い声が、きこえる。
 気のせいか、鳥の鳴く声も、きこえる。

 手が何かに、包まれている。あったかい。
 そのぬくもりが、今度は手首の方へ移る感触がした。

「……脈は、あるんだけどな」

 その声が、ぼそぼそと不安げに呟く。
 ……私、死んだんじゃ、なかったけ。違ったっけ。

 徐々に、まぶたを開ける。木漏れ日が、まぶしい。

 ぼんやりと映るその視界の中へ、見知らぬ顔がひょいっと入ってくる。

「あ、起きた」

 見えたのは、翡翠ひすい色の髪――くせっ毛がすごいけど、きれいだな。
 深海のように吸い込まれそうな、蒼色の瞳も。

 少し幼い顔立ちに見えるけど、声は低いし、触れている手も私より大きくて骨ばっている。多分、男の人だよね。

 ……あれ。何でこんなに明るい場所で、しかも髪色が翡翠の人がいるんだろう。

 確か夜だった、はず。それにこんな変わった色の人、職場で見た覚えがない。
 私が知らないだけかもしれないけど、かなり目立ちそうなものだ。

「ここ……どこ、ですか」
「まさか、記憶喪失なのか? これはメンドウな……」

 私の言葉を聞いて、その人は青ざめた顔をする。
 けれどすぐに首を横に振って、その面持おももちを冷静なものへと変える。

「とりあえず、起き上がれそうか?」

 どうだろう、ぼーっとするし……でもこのままというわけには、いかない。
 地べたにひじをついてゆっくり起き上がろうとすると、目眩めまいがした。力も入らない。

「ストップ。もういい」

 私の具合を察知してくれたのか、顔の前で手のひらを向けられる。
 ――すると今度は、ひょいっと身体を抱えられた。

「あ、あのっ……!」
「色々聞きたいことはあるが、今のあんたの状態じゃ無理そうだからな。安静にしてた方がいい」

 それは、そうかもしれないけど。でもこの、いわゆるお姫様抱っこ状態はかなり恥ずかしい。

 灰緑色かいりょくしょくのケープから、私の背中とひざ裏にまわされた腕が細い。
 あまり力があるように見えないけれど、大丈夫かな。

「……重く、ないですか?」
「子供1人も抱えられないように見えるのか、オレは……平気に決まってるだろ」

 その人が呆れたような表情を浮かべる。
 気を悪くさせることを言ってしまい、申し訳ない気持ちを抱きつつも、彼の言葉に疑問を抱いた。

 ――子供?

 私は25歳。背だって平均的にある。
 顔も童顔じゃないはず。スタイルは……豊満ほうまんではないけれど。

 でも、そんなに子供に見られるような外見だった記憶はない。

 ふと目を落とすと、見慣れない衣服が視界へ飛び込む。
 黒いラインの入った、白が基調のワンピース。清楚な印象のそれを、私は持っていた記憶がない。

 それに、脚が……というより全体的に、小さくなっている気がする。
 声もこれまで聞こえていたものより、高い。

 子供って……まさか本当に私、子供の姿なの?

「言ってもわかんねぇだろうけど、一応教えとく。ここら一帯は、“ヤーデの森”と呼ばれてる」

 聞き慣れない。日本にある森ではなさそうだけど。
 彼の見た目といい、まるで遠い土地へ迷い込んでしまったような感覚を覚える。

 その人は私を抱えたままゆるやかに歩き始めると、安堵するように息を吐いた。

「ま、死んでなくてよかったよ。この森に来るような奴は、手遅れなのが多いからな」

 ……どういう意味だろう。
 それにまったく理解できないこの状況といい、これからどうなってしまうのだろう……そもそも、なぜ生きているんだろう。
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