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第三章

独り(雅次視点)

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 どうして。
 なんで、ここに兄上が――。

『うん? その声は、高雅殿か』

 俺の唇から自分のそれを離し、家房が弾んだ声で答える。
 だが、俺のことは離そうとしない。

 まさか、

 そんなの嫌だ。
 こんな浅ましい姿を兄上に見られたら生きていけない。

 だったらさっさと家房を突き飛ばせばいいのに、それもできない。

 あまりの恐怖に体が硬直して、指先一つ動かないのだ。
 それが余計に恐怖を煽る。

 どうしよう。一体どうしたら。

『はい。無礼をお許しください。しかし、至急お耳に入れたき儀がございまして』

 どこまでも真剣な声音。
 何か大事が起こったのだろうか。

 家房もそう思ったようで、ようやく俺から手を離した。そして、固まるばかりの俺を座らせ、身なりをそそくさと整えさせて、「入りなさい」と再度声をかけた。

 障子が開き、部屋に兄上が入ってくる気配がした。

 俺は依然動けない。
 全身から嫌な汗を噴き出させる以外何も。

 だが、家房は慣れたもので、用意されていた座布団の上に優雅に座すと、先ほどのことなどまるで何もなかったように、笑顔で兄上に対峙した。

「至急の用とは?」

「はい。国境で少々不穏な動きがあると報せが入りました」

「何。不穏な動き? それは」

「現在調べております。大した規模ではないとのことですが、家房様は大切なお方。大事を取って、今日はお泊りになられたほうがよいと存じますが、ご家来衆にお聞きしましたところ、今日中にどうしても帰らねばならぬ用がおありとのこと。ゆえに、念のため帰り道を変えていただきたく」

 どうやら、運よく騒ぎが起こったらしい。

 助かった。
 この件を言い訳に、何とかこの場を逃げて……。

「雅次っ」
「……っ」

 はきはきと報告していた兄上が、突如咎めるように声をかけてきたものだから体が跳ねた。

「なにゆえそこでぼーっとしておる。舅殿が無事にお帰りいただけるようすぐさま動くのが、婿としての務めであろう」

「っ……あ、兄上」

「早く行け。殿
 きつく睨まれ、強い口調で命令される。

 瞬間、先ほどまで全身を覆いつくしていた恐怖が吹き飛んだ。

 代わりに襲ってきたのは、

 お前の大事な蔦殿? 大恩人の舅殿? 
 よくも、よくもそんな……!

 俺はぐっと唇を噛みしめた。
 それから何とか頭を下げると立ち上がり、覚束ない足取りで部屋から出る。

 どんなに腸が煮えくり返っても、兄上にありのままの真実をぶちまける度胸なんて、俺にはなかったのだ。

 その間にも、二人の会話が聞こえてくる。

『申し訳ありません。はしたないところをお見せいたしました』

『いやいや、かように我が身を大事に想うていただいて嬉しき限り。されど、いささか雅次殿に厳し過ぎるのではないかな。あのようにきつく言わずとも』

『とんでもございません』
 きっぱりと、兄上が言い返す。

『家房様は雅次にとって、舅殿であると同時に一生をかけても返せぬ恩を受けた大恩人。そのお方の危機を耳にしながらとっさに動けぬなど言語道断』

 どこまでも真摯な声で断言されたその言葉は、俺の心を深く抉った。

 兄上は、家房が俺に何をしたのか知らない。
 一生、知ってほしくないとも思う。

 けれど、あの外道に「あなた様は雅次にとって大恩人」だの何だのと、俺のことなどそっちのけで大事に扱い、尽くす兄上を見ると苦しくて、やるせなくてしかたない。

 それと同時に、気が変になりそうなほどの孤独感に襲われて眩暈がした。

 

 兄上とこれからはともに生きようと誓い合い、一緒にいて八年の時が経っても、離れていたあの頃と何一つ変わっていない。

 その現実を容赦なく突きつけられて、息をするのも辛かった。
 だが、それでも。

 ――わしは見たいのだよ。あの清廉潔白な男が自ら悪徳を犯すさまを。それによって、あの内より溢れ出る輝きが色を変えていくさまを。想像するだけでぞくぞくする。

 この言葉が脳裏に蘇った時、俺の足は止まっていた。

 嫌だ。
 兄上があんな変態豚の餌食にされて、穢されるなど耐えられない。

 守らなければ。
 たった独りでも何でも、兄上は俺が守る。

 使

 歯を食いしばり、腰に差していた脇差を握り締める。

 
 色んなことがいっぺんに起こり過ぎてぐちゃぐちゃになった頭は、ひどく短絡的な結論しか導き出せなかった。

 そんな俺を尻目に、二人の話は進んでいく。

『高雅殿! わしはもっと早うに貴殿とお逢いしておくべきであった。貴殿にかように想われておるとは知らず、わしとしたことが』

『いえ。このくらい当然のことです。では、それがしもこれにて失礼いたします。家房様が少しでも快適な帰路につけますよう、露払いをして参ります』

『お……おうそうか。名残惜しいが致し方あるまい。いずれ、酒でも酌み交わしましょうぞ』
『はい。ぜひ』

 興奮気味に声を上擦らせる家房に、いつもの爽やかな口調で返すと、兄上が部屋から出てきた。
 いつもの折り目正しい生真面目な所作で一礼し、障子を閉める。

 よかった。兄上も無事にあの男から離れることができた。

 胸を撫で下ろしたが、こちらに顔を向けた兄上が俺を見るなり、驚いたように目を見開いた刹那、俺はようやく我に返った。

 俺は何をしているのだ。こんなところに突っ立って。
 兄上に何と申し開きをするつもり……。

「……っ」

 息を呑む。
 兄上の顔がみるみる苦しげに歪んでいったから。

 一体どうしたのか。戸惑っていると、兄上がこちらに向かって歩き出した。
 そのまま、すれ違いざまに俺の手首を強く掴み、どこかへ引っ張って行く。

 何が何だか分からず連れて行かれたのは近くにあった空き部屋。

「あ、兄上? どう、なされた……っ」

「何をされた」

「……っ!」

「言え。
 青い顔で俺の体にあちこち触れてくる兄上に、俺は驚愕した。

「兄、上……不穏な動きは」

「ああ? あんなの、お前からあやつを引き離すための嘘だ」

「嘘っ?」
 俺が思わず声を上げると、兄上は「しっ」と俺の口を塞いできた。

「大きな声を出すな。聞かれる。……先ほど初めてお会いしたんだが、何とも嫌な感じがしてな。
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