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第一章

馬鹿な兄上(後編)(雅次視点)

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 十年ぶりに見る兄上は声と同じく、姿もまるで違っていた。

 長身でがっしりとした体躯。堀の深い精悍な顔立ち。猛禽を思わせる大きくて鋭い二重の目。それら一つ一つには全く馴染みがなかったが、浮かべる表情、全身から発せられる清々しくも柔らかな風情は俺の知る兄上そのものだった。

「しょっぱい。ほら見ろ。やっぱり涙だ」
 俺に対する態度も、十年の別離などなかったように、あの頃のまま。
 そして、その風情で当たり前のように言うのだ。

「『兄上が逃げないなら、俺も逃げない』だから、今までこの城にいてくれたんだろう? でも、この城が俺にとって逃げなくてもいい場所になった。だったら、自分が留まり続ける理由はない。そう思う。お前はそういう男だ」

 腸が煮えくり返った。

 ……知っていたのか?

 あの時、俺がどれだけ兄上のことが好きだったかも。
 捨てられても、十年間一切の関係を絶たれても好きでいることをやめられず、もがき苦しんでいることも、全部全部。

 それでも、俺を捨てたのか?
 十年も、文さえ寄越さずほったらかしにしたのか?
 そのくせ今更、何事もなかったかのごとく平然と話しかけてくる。

 自分が呼びさえすれば、俺が駄犬のごとく尻尾を振って駆け寄ってくるとでも思って?

 ふざけるのも大概にしろっ。
 誰がこんな外道に尻尾など振るものか。兄などと思うものかっ。

 止めどなく噴き出す憤怒に気が変になりそうだった。
 だが、それと同時に……悲しかった。

 俺が欲しいものはもう、この世のどこにもない。いや、最初からなかった。
 兄上の、俺への情なんて……一欠片も。

 そう思うとなおさら、目の前にいる男が憎くて、やるせなくて、口汚く罵った。
 そんな俺に兄上が語った話は驚くべきものだった。

 兄上が俺を捨てて初陣を志願したのは嘘。
 華々しい初陣を飾り、盛大に褒められたことに気を良くしてさらに戦場を求めたのも嘘。

 実際は、「断ったら月丸を殺す」「月丸にいい暮らしをさせたかったら武功を挙げろ」と、父に脅しつけられ、無理矢理戦場に放り込まれた。
 おまけに、「兄上なんか大嫌い」という偽の文まで送りつけていたと。

 こんな話を聞かされたら普通、俺を騙した父や、父にまんまと騙された己に激しい怒りを覚え、騙されていたとはいえ、何の罪もない兄上を誤解し、激しく憎んだことへの罪悪感と自己嫌悪で圧し潰されたことだろう。
 だが、その時の俺は……そういうことを全く、思い浮かべもしなかった。

 俺の心をはちきれんばかりに満たしたのは、兄上はこの十年、父からの虚言に惑わされることなく、俺の許に戻ってこようと懸命に努力し続けてくれたという事実だけ。

 信じられなかった。

 嘘に惑わされない強靭な心もさることながら……もう、俺しかいなかったあの頃とは違う。
 たくさんの家臣がいて、大恋愛の末に結ばれた妻も、その妻との間に出来た子だっている。
 だったら、ただの足手まといだった……この十年、何の関わりもなかった俺のことなんて、どうでもよくなるはず。
 それなのに。と、狼狽するばかりの俺を、兄上は「馬鹿」と怒鳴って、

「誰が足手まといだなんて言った。俺はお前をそんなふうに思ったことは、ただの一度もない。むしろ、お前は俺の救いだ。お前がいなかったら、俺は今ここにいない。独り寂しく野垂れ死んでいる」

「お前の代わりなんて、この世のどこにもいない。妻は妻。娘は娘。家臣は家臣。お前はお前だ。俺のたった一人の、可愛い可愛い弟。それは、死ぬまで変わらん」

 きっぱりと言い切った。さらには、

「また、俺のそばにいてくれ。十年かかってしまったが、あの頃より、俺はだいぶましになった。城持ちの武将にもなれて、お前を守れる兄になれたと思う! これからは、誰にも父上にも、お前のことを馬鹿になんてさせないし、この家でも胸を張って生きていけるようにしてみせる。だから、そばにいてくれ。もう一度、俺と仲良くしてくれ……っ」
 懸命に訴えてくる兄上に、俺はたまらず抱きついていた。

 ああ、馬鹿な兄上。

 父の本性に気づいて調子を合わせていたことには驚いたが、それでも……父が兄上を戦場に追いやったのは、自分が世継ぎ候補の山吹たちに楯突いたせいだと思うようでは話にならない。

 その上、いまだに、俺が陰で守っていたことにも気づいていない。
 それなのに、お前を守れる兄になれた? 幻想もいいところだ。

 相変わらず、状況がまるで見えていない。そして、何も分かっていない。

 俺は、強くて立派な兄なんかいらなかった。
 誰にどう思われ何を言われようと、どうでもよかった。

 強くなくても立派じゃなくても、そのままの綺麗で温かい兄上でいてくれたら、他に何もいらなかった。

 ずっと、あの二人ぼっちの世界にいたかった。
 俺だけの、俺だけが大好きな兄上でいてほしかった。それなのに、こんな――。

 本当に馬鹿で、憎たらしい兄上。

 でも、それと同時に……優しくて、温かくて、心が誰よりも綺麗で、俺なんかのことがやたらと好きな、俺がずっと逢いたかった、恋しくてたまらなかった兄上でもある。

 どれだけ立派になろうと、大勢の人間に愛されるようになろうと変わらず……俺の望む形ではないが、全身全霊で俺を想い、

「月丸、大丈夫だ。俺はお前のことを嫌いになったりしない。ずっとずっと、大好きだ。だから、二度と俺から離れないでくれ」
 こんなにも求めてくれる。

 甘美な多幸感が全身を包み込み、眩暈がした。

 あまりの愉悦に……やっぱり、俺には兄上だけだ。兄上さえいれば何もいない。これだけ想ってもらえれば十分。
 そう、思わされてしまった。だから。

「分かり、ました。これからは、兄上のおそばにおります。ただ」

 もう二度と離れない。
 そして、この息の根が止まるまで、守り抜いてみせる。

 努力すれば報われる。想い続ければ相手に届く。
 無邪気にそう信じている、この世で一番清らかで、純真無垢な魂を。

「……うん? なんだ」

「俺はもう、元服いたしました。これからは、『雅次』とお呼びくださいませ」

「おお、そうだったな。では……雅次。俺も一つ頼みがある。昔のように、『兄上大好き』と言うてくれ」

「! な、なんです、それ……わ」

「今すぐ聴きたい。絶対聴きたい。十年も頑張った俺に褒美をくれ!」

 そのために、この茶番を一生続ける。
 俺の天恵全てを兄上に注ぎ込んで……兄上には理想と夢に溢れた、美しい桃源郷で生きてもらう。

 本当は、希望なんて欠片もない薄汚い現実に傷つけられ、穢されぬよう。
 兄上が、俺の大好きな兄上のままでいてくれるよう。

 そのためなら、どんなことでもやる。これまで以上に。

「そ、そんな……童のようなことを」

「言うてくれぬなら、もう『月丸大好き』と言うてやらん」

「……言わぬのですか?」

「うーん。無理だな。はは。ゆえに頼む。言うてくれ」

 大丈夫だ。俺ならできる。

「ま、全く。分かり、ました。では……こほん。兄上、お、お慕いしております。ずっと、ずっと」

 こんなにも兄上を想っているのだ。
 できぬはずがない。

「うん! 俺も好きだぞ。だが、ずいぶん大人びた言い草になったな」

「十年も経てば、嫌でもそうなります」

「ああ、そうだったな。では。これからまた、これまでの十年分も含めて、仲良うしような?」

 俺の涙を拭いながら嬉しそうに微笑む兄上に微笑い返しながら、俺は思った。
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